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1話

よろしくお願いいたします。

「私はハイデマリーとの婚約を解消し、真に愛するアンネリーゼを妻にします」


 彼は隣に立つ令嬢を抱き寄せ朗々と告げた。

 私の「どうして」という言葉は声にならず、その場にいる誰の耳にも届かなかった。

 だけど、私と向き合う位置にいた彼女は表情で気づいたのか、その可憐な顔に似つかわしくない嘲笑を浮かべた。


「彼女は状況を理解できていないようですわよ。きちんと説明なさったほうがよろしいのではなくて?」


 私に視線を向けた彼が、みるみるうちに顔を顰めた。




 ◇◇◇◇◇




「おまえみたいにお高くとまって人を見下してばかりの女と結婚なんかできるか」


 私の最初の婚約者だったバルト伯爵家の次男オスカー様は私にそう言い放って、異母妹の婚約者になった。


 私は顔が冷たく見えるせいで中身まで誤解されてしまうようで、特に同年代の方々には子どもの頃から敬遠されてきた。

 実際のところは、鈍臭くて引っ込み思案なのを淑女らしく振る舞うことで何とか隠しているに過ぎないのだけど。


 異母妹が「姉にいじめられている」とオスカー様に泣きつき、二人きりで仲良くしていたのは知っていた。

 お母様が亡くなってすぐに屋敷にやって来た平民出身のお継母様と異母妹にいびられているのは私のほうだということを、オスカー様は気づきもしなかったようだ。

 お母様との夫婦仲が良くなくて屋敷を空けがちだったお父様は、お母様に似ている私のことも嫌っていて、お継母様や異母妹が私に何をしようが見て見ぬふりだ。


 キルシュ伯爵家は異母妹とオスカー様が継ぐことになり、私にはすぐに新しい婚約者があてがわれた。

 相手は貴族ではなく、平民の富豪マイヤー家のご長男ハンス様だった。

 お継母様と異母妹の散財もお父様に止めるつもりはないのだろう。


 社交界では色々と噂されていたけれど、実際に会ってみるとハンス様からもご両親からもそれほど悪い印象は受けなかった。

 だからこそ、申し訳なく思った。

 私にとってはオスカー様もハンス様も同じ。私が心から慕うただ一人の方ではない、という意味で。


 あの方に初めて出会ったのは、王妃殿下が王宮に王太子殿下と同じ歳頃の貴族子女を集めて開かれたお茶会だった。

 同じ歳だけど大人びていて、物知りで、私にも優しい彼にいつしか惹かれていった。


 数年後には、彼にお似合いの婚約者ができた。そうでなくても私では釣り合うはずもない方だ。

 彼への想いはお母様にしか打ち明けたことはなかった。これからもそのつもりだった。




 二度目の婚約から間もなく、王宮で夜会が開かれた。

 平民のハンス様は出席できないので、私は一人で会場に向かった。


 彼も婚約者と一緒に参加していたけれど、たくさんの方々に囲まれていて、私は近づくこともできなかった。

 ハンス様と結婚すれば彼に会う機会はないだろうから、最後にご挨拶くらいしたかったのに。


 私が異母妹をいじめていたせいで婚約を破棄されて富豪と結婚するという噂は社交界にすっかり広まっているようだった。きっと異母妹とお継母様が広めたのだろう。

 ジロジロと多くの視線を向けられて居心地の悪さを感じ、バルコニーから庭園に出た。


 屋敷に帰ってしまいたい気持ちもあったけれど、もう少し待てば彼と言葉を交わす機会が巡ってくるかもという期待を消せなくて、そばにあったベンチに腰を下ろした。


 しばらくはぼんやりと、彼と出会ってからのことを思い出していた。

 懐かしさと愛しさに涙が溢れそうになった。


 だけど、ふと不安になった。彼も私の噂を聞いただろうか。

 彼なら私を信じてくれるはずだと考えてみても、そうではなかったらと怖くなる。

 いつも優しかった彼にまったく違う表情を向けられたら、今までの綺麗な思い出まで壊れてしまいそうだ。


 やっぱり帰ってしまおう。

 私はお父様たちと同じキルシュ家の馬車ではなく、マイヤー家が仕立ててくださった馬車で来ていた。

 異母妹は私が特別扱いをされていると面白くなさそうだったけれど、そもそもハンス様は異母妹たちの私への悪感情に気づいて用意してくれたのだと思う。

 そういうわけで、帰宅する足には困らない。


 決心して立ち上がると、バルコニーのほうから歩いてくる人影が見えた。彼だ。

 胸が高鳴るのを感じながら礼をした私に、彼はこれまでと変わらない笑顔を向けてくれた。


「姿が見えないから探したよ。一人で庭に出るなんて危ないだろう」


 そのまま近づいてきた彼に抱きしめられた。

 ありえないことに、一瞬、頭の中が真っ白になった。でも、すぐに彼がお酒の匂いを漂わせているのに気づいた。


「私を置いて行かないでくれ」


 耳元で囁かれた、その吐息が熱かった。


 どうやら酔って私を婚約者と間違えているようだ。

 彼の婚約者と私は、髪の色や背格好はわりと似ている。


「身体が冷えているな。暖かいところに行こう」


 彼は私の肩を抱いて、広間とは別のほうへと歩き出した。やはり足元が少しだけ覚束ないように見えた。

 促されるまま足を動かしながら彼を見上げれば蕩けるような笑顔を返されて、先ほどの疑いが確信に変わった。

 それでも、私には彼の手を振り払うことができなかった。




 彼が私を連れて行ったのは休憩用に用意された客間の一つだった。

 その最奥に置かれたベッドの上に、彼は私ともども倒れ込んだ。


「すまない。今夜はもう我慢してあげられない」


 罪悪感や怖気はあったものの、お酒の味のする口づけにすべて溶かされた。


「愛してる」  


 その言葉を受け取るべきは私ではないとわかっていても、返さずにはいられなかった。


「私も愛しています」


 今度は堪えられなかった涙を、彼がすべて拭ってくれた。




 気がつくと、彼は寝息を立てていた。


 まるで逃すまいというように私の身体に巻きついた腕の中からどうにか抜け出し、改めて彼の顔を見下ろした。

 口がもごもごと動いていたけれど、何を言っているのかは聞き取れなかった。


「最後に幸せな思い出をありがとうございました。さようなら、ユリウス様」


 睦言に呼んでほしいと言われた彼の名前をもう一度だけ口にして、私は静かに客間を後にした。


 まだ夜会は続いていたけれど、ドレスや髪が乱れてしまっていたので広間に戻るわけにはいかず、このまま帰ると決めた。

 あんなことをしておいて婚約者の家の馬車を使うのだから、私はなんて厚かましいのだろう。




 その後、彼に会うことはなかった。

 私はほとんど屋敷から出ずに、粛々と結婚準備を進めていった。


 王宮の夜会でのことはもちろん忘れられなかった。

 彼のほうはずいぶん酔っていたから、覚えていないかもしれない。覚えていたとしても、相手は婚約者だと信じているだろう。

 悪いのは人違いをした彼ではなく、それを都合良く利用した私。

 だけど、他人から過ちを犯したなんて言われたくはなくて、あの夜の思い出は誰にも知られぬよう心の奥にしまった。


 ところが、私だけの秘密は思わぬ形で明るみに出ることになった。


「お嬢様、月のものが遅れておりますね」


 子どもの頃から仕えてくれている侍女のヘラにそう指摘された私は、焦るあまり返事がしどろもどろになった。

 ヘラを相手にそこから適当に誤魔化して終わりにすることは私には不可能だった。

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