第五十二話 豹変
双翠宮の地下で、妃奈はへたへたと座りこんでいた。
さわさわ、ざわざわ、と幽かな音を響かせながら取り囲む蜘蛛の大群。
慎也が突きつけたライトに一瞬怯んだものの、取り囲んだ蜘蛛達は、ジワジワとその距離を縮め始めていた。
小さな明かりで確認しただけでも、蜘蛛の数は百を越えている。しかも、それぞれの個体のサイズはまちまちで、ポムポム級の子馬程もあるやつから、普通の女郎蜘蛛サイズのもいるようだから、もっと明るい場所で見れば、千や二千は軽く越えているのかもしれない。
明るくなくて良かったかも。
妃奈は顔を引き攣らせる。
「多勢に無勢だ。仕方がない」
慎也はそう言うと、背中にしょっていたリュックをゴソゴソとかき回し始めた。
慎也? リュックなんて持ってるの?
何かをピリリッと破く音がして、慎也はすくっと立ち上がった。手にした何かを蜘蛛達に向けるやいなや、噴霧音が暗闇の中に響く。
ブシューーー
甘やかな、だけど毒を含んだ苦い臭い。
ザッと蜘蛛達が後ずさる音がして、最前列にいた蜘蛛の数匹が苦しみ始めた。巨大な体をひっくり返し、長い脚をバタつかせる。
「慎也? 何をしたの?」
「何って、虫にはコレでしょ」
慎也が掲げて見せたものは殺虫剤だった。赤いキャップ付きのスプレー缶。それはどう見ても、こちらの世界のものではなく、向こうから持ってきたものだ。
どうしてそんなものが入ったリュックを持ってるの?
「他にも色々あるよ? 妃奈も何か使うかい?」
得意げな慎也の顔に、妃奈の頭にカッと血が上る。
「卑怯よ! 向こうの世界のものを使うなんて、そんなの卑怯でしょ?」
圧倒的な嫌悪感。丸腰で立ちはだかっている人に機関銃を発砲したかのような。
いや、相手は蜘蛛だけどさ。
「じゃあ聞くけど、人さえ襲う巨大蜘蛛に、どうやって対抗するつもりだ? この地下のそこここに散らばってる骸骨は、あいつ等の餌食になったものだろうが? あんたは大人しくあいつ等の餌になるつもりか? 竜妃様はお優しいこったな。だが、俺はごめんだ」
更に激しく噴霧し始めた慎也の腕に掴みかかり、スプレー缶に手を伸ばしながら叫ぶ。
「ポムポム逃げてっ。逃げなさいっ」
妃奈の声が届いたのか、単に殺虫剤の効果なのか、蜘蛛達はじりじりと後退し始めた。
スプレー缶を取り上げようともみ合っているうちに、妃奈は思いっきり振り払われて地面に叩きつけられた。
「痛っ」
腰をしたたかに打って、一瞬意識が飛びかける。そんな妃奈に舌打ちをして、慎也は追い打ちをかけるように殺虫剤を噴霧し始めた。
「やめて……」
その足に、這いずりながら妃奈がしがみつくと、ひどく蹴り上げられた。
げほっごほほっ。
蹴ったぁ お腹蹴ったよ、この人。
更に胸ぐらを掴まれてガクガク揺すぶられる。
「おい、邪魔するんじゃねーぞ」
恫喝する慎也を妃奈はにらみつけた。
「これがあんたの本性?」
それまで、弟くらいの親しみをもって慎也と接していただけに、この豹変ぶりは痛い。落胆という言葉では最早言い表せられないほどだ。
「だったらどうなんだよ」
妃奈の落胆など露ほども気に留まらないらしい。慎也は胸ぐらを掴んだまま、平手で妃奈の頬を二度三度と叩いた。
「リュークに、よーく教え込んでおけと言っておいたんだがな。どうやらおまえは忘れっぽいようだから、もう一度教えておいてやろう。痛い思いをしたくなければ言うことをきくことだ」
そう言い放つと、慎也は再び妃奈を力任せにガクガクと揺さぶった。
力づくで言うことをきかせようなんて、なんて最低なやつなの! 偽リュークの暴行は、慎也の指示だったってわけ?
妃奈は唇を噛みしめる。
一時でも慎也のことを、同郷の味方だと思った自分が腹立たしい。
その時、腕まくりした慎也の腕に見覚えのある斑紋を見つけて、妃奈は瞠目した。
それは妃奈の足の付け根にある片翼の痣と似たような形をしていた。しかし、慎也の腕にあるそれは、そこだけ色が抜けたかのような斑紋としてあった。
その斑紋を腕に持つ男を、妃奈は向こうの世界で知っていた。母が自殺したと祖父の寺まで知らせに来た警官だ。その警官は、骨壺と見覚えのある遺留品を携えていた。
何故か母は既に荼毘にふされていたのだ。
発見が遅れて腐敗がひどかったので、と警官は言った。骨壺を手渡された時に、制服の袖から僅かにのぞいていた白い斑紋。
腐敗がひどいからって、普通、遺族に対面させないまま荼毘にふすか?
あの時は、動転していて疑問を持つ余裕がなかった。
だけど……。後になって、次々と湧きあがる違和感と疑惑。
そもそもあの男は本当に警官だったんだろうか。制服なんて、用意しようと思えば誰でもできるんじゃない?
確かに遺留品はどれも母のものだった。だけど、これは本当に母の遺骨なの?
そしてその後、私はその斑紋を持った男に再度会っている。
あれは……確か……。
――おや、こんなところでかくれんぼかね?
デスクの下を覗き込み、不適に笑うその顔に、妃奈は瞠目して凍りついた。
この顔。この声。私はこの人を知ってる。この人に、私は以前、どこかで……会ってるよね。
そうだ、思い出した!
こちらに来る直前、私はオフィスのデスクの下に隠れているところを、あの時の男に見つかったんだった。警官の服装ではなく、サラリーマン風のスーツを着ていたからすぐに気づかなかった。
もしかして、あれ、慎也だったの?
彼はさっき、こちらに来ると姿が変わるのだと言った。私だけが金竜だから変わらないのだと言ったよね。向こうで会った男は、慎也よりもずっと年上に見えたけれど、まさか、年齢さえ変わることがあるんだろうか。
「……慎也、私、向こうの世界であなたに会った? まさか私の職場に来たのって……」
慎也は妃奈の言葉に一瞬瞠目したが、すぐに不敵に笑った。
「おやぁ、今頃気づいたのか? もう気づくことはないのだろうと思っていたよ。まぁ、気づかなくても当然なんだがね。こっちの俺はずいぶん若作りだからなぁ。どうして分かった?」
「腕の斑紋が……」
「あーあ、これか。これだけは変わらないんだよなぁ。そうか、これがバレたんなら仕方がない。もう正体をバラしてもいいかな。お優しい竜妃様は、こっちの生き物を憐れんで、異世界の文明道具を使うなって怒ってるんだろ? 俺も素手で戦えばおまえは満足するってわけか? だったらやってやろうじゃないか」
慎也が指をパチンと鳴らすと、たちまち彼の身体からまばゆい光がほとばしり出た。
次に起こったことは、すべてが同時に、しかも一瞬のうちに起こった。
突然、遠巻きにしていた蜘蛛達の中からひときわ大きな個体が躍り出て、慎也の変化に呆気にとられていた妃奈に襲いかかった。八本の脚で抱き込まれ、蜘蛛が繰り出した糸でぐるぐる巻きにされながら、妃奈は慎也が銀色の竜に変化するのを見た。ところがその変化を見届けぬうちに、妃奈の視界は暗転する。同時に足首につけられたフェイクの断脈縄が痛いほどの力で引っ張られるのを感じていた。
誰かが自分を召喚したらしいと気づいた時には、妃奈はシャンパンゴールドに輝くドームの内部に転がっていた。身体がポムンポムンと弾んでいるのは、糸を巻き付けたポムポムが妃奈の下でクッションになってくれているからだと気づく。
うわぁぁぁ ポムポムに抱きかかえられてるよぉぉ。ひぇぇ~。
ポムポムの微妙にチクチクするお腹から目をそらし、周りに視線を投げると、目の前には会いたくて会いたくて仕方がなかった人の顔があった。
嬉しさのあまり、妃奈はその顔をぼんやりと見上げる。
「なんじゃこの蜘蛛は……」
人型の銭塘君が呆気にとられている横で、眉間にしわを寄せ、すこぶる機嫌の悪そうなアレクが……見下ろしていた。




