第四十九話 クリスティーナ
ネメア公国に異国人が突如として現れたのは五年ほど前のことだったのだそうだ。地響きとともに大地にぽっかりと穴が開き、まさに見頃だったバラ温室は、バラの花ごと消失し、代わりに銀色のドーム型の建造物が出現した。
「隣国の皇帝の名をかたるとは不届きなっ」
腕を後ろ手にひねり上げられながら、隣国の皇帝アレクシオスは衛兵に引っ立てられ、ネメア城内に進入していた。後ろには、やはり拘束されて身動きがとれないまま歩かされる銭塘君の姿も見える。
「何が挨拶を兼ねた見舞いだよ。これじゃあ、罪人扱いだ」
ぶつぶつ文句を言いながら、後ろを歩く銭塘君を振り返り、アレクは困った顔で肩をすくめた。
途端に、衛兵にとっとと歩けと小突かれる。
「そちたちは、レムス王族を見たことがないのか?」
アレクの問いかけには無言の返事が返ってきた。
レムス王族は金髪だ。レムス帝国のものなら片言をしゃべる子供だって知っている。それは隣国のネメアでも同様だ。
ここの衛兵はそれを知らないらしい。恐らく、彼らは、ネメアの国のものではないのだ。
「……仕方がない」
アレクはため息をつくと提案した。
「腕をひねり上げるのをやめてくれぬか? 痛くてかなわぬ。代わりに、そちにこの耳飾りをやろう。無論抵抗せぬし、そちたちの指示にも従うと約束する。どうだ? この石は霊峰シャルロより産出される貴重な石だぞ? これ一個で飛翔する乗騎を購える」
柘榴のような深紅の石を、アレクが頭を傾げて見せると衛兵は興味を示した。
石は、誘っているかのように瑞々しく輝く。
「いや、ダメだダメだ! そんなことを言って、俺たちの油断を誘うつもりだろう?」
その衛兵は、濡れた犬のようにぶるぶるっと頭を振った。
「余はレムス国皇帝だぞ? そんな姑息なことはせぬ。疑うなら、そちの手で耳飾りをとってみるが良い。余は抵抗せぬぞ?」
アレクの言葉に、狡猾そうな目で耳飾りを見ていた衛兵は、後ろで銭塘君を締め上げながら成り行きを見守っている衛兵を振り返った。視線を交わし頷き合うと、アレクの耳から素早く飾りを奪い取った。
深紅の石がアレクの耳から離れた途端、アレクが変貌した。
貝紫色の瞳。白い牙。
満面の笑みをたたえたその瞳の奥には、妖しい光が閃いている。その光に射抜かれたように衛兵はたちまち硬直した。自然とアレクへの拘束が解かれる。
アレクは硬直した衛兵の瞳を覗きこんで、威厳のある声で命令する。
「跪け、余に血を捧げよ」
たった一言で衛兵は跪き、血を吸いやすいように首を傾げた。命令に従っている衛兵は恍惚とした表情をしている。
「おまっ、何やってるんだ!」
銭塘君を拘束していた衛兵があわてて駆け寄ると、跪いている衛兵の肩をガクガクと揺さぶった。
「そちにもこれを遣わそう。さぁ、ここに来るがよい」
アレクは、もう一つの耳飾りも外してにこやかに手招をする。すると、かなり距離があるにもかかわらず、もう一人の衛兵は一瞬瞠目した後、操り人形のようにぎこちない足取りで近づいてきた。アレクは衛兵に石を手渡しながら問いかける。
「おまえたちは、どちらが上官なのだ?」
「私です……閣下」
手のひらに石を乗せられた衛兵は、恭しく押しいただくと跪拝する。
「そうか、ならばおまえから情報をもらうことにしよう。無益な吸血は避けたいからな」
「喜んで……閣下」
数分後、血を吸われて気を失った上官の衛兵と、銭塘君に鳩尾を突かれて気を失った麾下の衛兵を空き部屋に放り込むと、アレクと銭塘君は城の最奥にある部屋へ向かった。
「目的の部屋はこっちなのか?」
早足で歩くアレクを追いながら、銭塘君が問う。
「あぁ、どうやら伯母上は軟禁状態にあるらしい。やはり面倒なことになっているようだ。公式行事はもう明日だ。急ごう」
アレクは顔をしかめた。
アレクの両耳には再び耳飾りが着けられていたが、それはもうやったものだから、と渋るアレクに銭塘君が無理矢理着けたものだった。
「そのはた迷惑な妖気を引っ込めろ」
竜である身に、アレクの妖気はさほど効かないらしく、城内の廊下を歩きながら、銭塘君はしかめっ面で文句を言う。
「はた迷惑とは無礼なやつだな」
「その妖気に妃奈は掴まったに違いない。そうに決まってる。同じ竜でもあいつは雌だから、惑わされないわけがないんだ。衛兵をだまくらかして毒牙にかけたようにな」
吐き捨てるような銭塘君の言葉に、アレクは心外そうに顔をしかめた。
「だまくらかしたとは失敬だな。この耳飾りとて、もうやったものゆえ着けぬと言うたのに、拾ってきて無理矢理着けたのはそちだろう? それに余は嘘などこれっぽっちも言っておらぬぞ? 姑息なことなど何一つしておらぬ。一時しのぎなどもってのほか、やるなら徹底的にやらねばな」
そう言うと、アレクは不敵に笑った。
ひときわ厳重に見張りが立てられていた豪奢なドアの前に佇んで一呼吸置くと、アレクは扉を開いた。
このドアにたどり着くまでに、何人もの衛兵に出会ったが、そのたびに耳飾りを外したり着けたりして極力時間を節約した。廊下の両脇には、気を失った衛兵たちが仲良く並んでお昼寝中だ。
扉の向こう、豪奢な天蓋付きのベッドの上に、ネメア公国公妃であるクリスティーナは横たわっていた。




