『夢操の檻』 第3章:訓練という拷問(後編)
1. 心理訓練室:白の深淵
エレベーターが訓練場のさらに下、最深層。地上の光が一切届かない「心理訓練室」に到着した。
扉が開くと、そこは床も壁も天井も、徹底的に無機質な「白」で統一された広大な円形の空間だった。
中央には、いくつものセンサーが接続されたリクライニング式のシートがポツンと置かれている。
「……ここで何をやるんだ?」
アキトの声が、家具のない空間に虚しく響く。
「お前の『認識』の調整だ。戦場では、迷いは死に直結する。特にお前さんのような『裏切り者』は、かつての仲間に銃口を向ける瞬間、脳が一瞬フリーズしちまう。それを徹底的に取り除く」
デオの言葉に従い、アキトはシートに身体を預けた。科学者たちが手際よく、アキトの頭部に神経接続用の電極を装着していく。
「ちょっとチクっとするよ。これはVR以上にリアルな感覚を脳に直接投影するシステムなんだ。……準備はいい?アキト君。」
「……ああ。やってくれ」
「ちょっとまって。ほんとは禁止されているんだけど、一つだけ言いたいことがある。この訓練は精神への拷問だ。君の人格を根本から変えてしまう。その優しさや過去の仲間への想いを消したくないなら、やったふりをすることもできるけど……」
「いや、いい。そんなもの糞食らえだ。」
一瞬、躊躇した。しかしそれは一瞬だった。
もう過去に未練はないはずだ。自分にそう言い聞かせたではないか。
そしてすぐに視界が暗転。 次の瞬間、アキトは廃墟となったどこかの街の路地裏に立っていた。
頬を撫でる風の冷たさ、瓦礫が焼けた臭い、遠くで聞こえる爆音。
すべてが本物としか思えない。手にはV-SMGが握られている。
「第1フェーズ。ターゲット確認。排除しろ」 頭の中にデオの声が直接響いた。
前方の瓦礫の陰から、人影が飛び出してきた。
それは、灰色ののっぺらぼうな人型――「マネキン」のような姿をしていた。
アキトは躊躇なくけりを出した。足がマネキンの胸部を貫き、ポリゴン状の火花を散らして消滅させる。
(……これなら簡単だ)
標的は、あくまで「記号」に過ぎない。
アキトはその後も次々と現れるマネキンを、事務的な作業のように処理していった。
2. 投影:匿名から実体へ
「第2フェーズ。テクスチャを上書きする」
デオの声とともに、敵の姿が変わった。
マネキンの表面に「服」が貼り付けられる。それは、アキが数週間前まで着ていた、あの旧政府軍の薄汚れた服だった。 「っ……」 出しかけた足が止まる。
「どうした、アキト。相手はただのデータだ。秩序を乱し、無知な自由を叫んで世界を荒廃させる『害獣』だと思え」
アキトは奥歯を噛み締めた。
(そうだ。こいつらは、俺を見捨てた連中だ。俺を海で死なせようとした無能な組織の一部だ)
自分に言い聞かせ、蹴りを浴びせる。服を着たマネキンが、赤いエフェクトを散らして倒れていく。
訓練は何日も繰り返された。
食事と睡眠の時間を除いたすべての時間が、この「殺戮の反復」に捧げられた。
回数を重ねるごとに、アキトの脳内で「旧政府軍の制服」と「排除すべきゴミ」という概念が、強固な鎖で結びついていく。
最初はあった不快感も、数千回の殺害を経る頃には、乾いた達成感へと変わっていた。
「第3フェーズ。……個別認識、開始」
世界が揺らぎ、場所が「夢守の島」の演習場へと変わった。
アキトの心臓が激しく跳ねた。 前方から歩いてくるのは、もはやマネキンではなかった。 顔がある。表情がある。
「アキト……? なんでそんな格好をしているんだ?」
その声に、アキトは息が止まった。
そこに立っていたのは、旧政府軍のキャンプで共に飯を食った、気のいい盲目の通信兵、カイトだった。
なにげない雑談も、家族の話も覚えている。
「ターゲットだ。撃て」 デオの冷徹な命令。
「待て、こいつは……」
「それはお前の記憶が作り出した幻影だ。本物は、今この瞬間も檻の壁を崩そうと画策している。そいつがお前の前に立ったら、お前は殺されるんだぞ。お前が死ねば、誰がレオンに復讐する?」
レオン。その名前が、昔の味方なら自分を撃たないという迷いを断ち切った。
(そうだ。俺はレオンを倒さなきゃいけない。レオンを倒すためにはこいつらも始末しなくては上へは行けない。もしカナンで仲間に合ったなら、それは俺の敵だ。俺を殺そうとする障害物だ)
――ジュンッ!
足のスパイクが男の顔面を消し飛ばした。
感触はない。
仮想のデータだ。だが、脳に投影された「死の瞬間」は、あまりに鮮烈だった。
3. 脱色:倫理の死
訓練は、さらに残酷な領域へと踏み込んだ。
AIはアキトの記憶をスキャンし、彼にとって親しい人物の姿を次々と「敵」として配置した。
かつて自分を励ましてくれたジン。 武器のメンテナンスを教えてくれたエレナ。 そして――。
「……ミナ」
角を曲がった先に、あの少女がいた。 困ったような笑顔を浮かべて、こちらに手を振っている。
「アキト、一緒に帰ろう」
その幻影は、あまりにミナそのものだった。 ミナとの訓練の数々を思い出し、他愛のない雑談も心に残っている。アキトの足は震え、膝をつく。
「……殺せない。……」
「アキト、思い出せ。総司令の言葉を」
その時、 スピーカー越しに、デオの声ではなく、あの穏やかな「総司令」の声が割り込んできた。
『アキト君。君の友人は、自ら檻を壊そうとしている。それは、平和に暮らしている何万人もの人々を、再び飢えと暴力の海へ突き落とす行為だ。君の「優しさ」が、その少女を野放しにすれば、君は世界を殺すことになる。……どちらが本当の「残酷」かな?』
「俺は……俺はレオンに、会うために……」
『そうだ。君がその蹴りを放つのは、彼女を憎んでいるからではない。レオンへとたどり着き、レオンを殺す。そして誤った自由からこの世界を「救う」ためだ。慈悲を持って、殺しなさい』
アキトの心に隙間なく染みこむような異常な説得力。
アキトの瞳から、光が消えた。 視界が白黒に脱色されていくような感覚。
目の前にいる「ミナ」という存在から、名前が消え、物語が消え、ただの「排除すべき不安要素」というラベルが貼り付けられる。
「……ミナ」
アキトは虚空を見つめたまま、深く踏み込んだ。
ミナの幻影が光の粒子となって砕け散る。 その瞬間、アキトの心の中で、大切に守られていたものが壊れた。
感じない。
あんなに苦しかった胸の痛みが、今は嘘のように消えている。
あるのは、ただ、自分の意志で「秩序」を選び取ったという、凍りついたような静かな全能感だけだった。しかし、胸の奥底では、ミナと対峙するその日を恐怖していた。
4. 降下完了:裏切り者の誕生
全工程が終了し、電極が外されたとき、アキトの瞳は、まるで磨き上げられた黒曜石のように、冷たく、何も映さないものに変わっていた。
リクライニングシートから立ち上がる動作には、もはや無駄な力みが一切なかった。
「……終わったよ、分隊長」
その声には、感情の起伏が全く感じられない。
デオは、シートの傍らで腕を組んで立っていた。彼はアキトの顔をじっと見つめ、短く鼻を鳴らした。
「……完璧だ。これほど短期間で『適応』した奴は、これまでに見たことがねえ」 「つまり、成功は俺が初めてってことか……?」
「あ、ああ。今のところは。この実験は、そのう。「失敗」が多くてな。……まあいい。これで、お前は名実ともに我が方の『切り札』だ」
ニコが、アキトのヘルメットを差し出した。 アキトはそれを無造作に受け取り、自分の顔を覆った。 シールドの向こう側で、世界がデジタル信号の羅列として再構成される。
「実戦形式のペイント弾訓練、もう一度やらせてくれ」
アキトが言った。
「ほう、やる気満々だな。だが、相手はもうEINしかいないぞ?お前が殺しすぎたせいでもうムソウのストックがない。」
「なんでもいい。……ただ、もっと効率よく、確実に『殺し』の感覚を掴んでおきたい」
アキトは義足にスパイクを装着した。
その足取りは、もはや迷いによる重さを微塵も感じさせない。 破壊し、再構築した精神へのダメージは大きかったはずだ。
しかし、彼の周りの空気は充実感さえ漂わせていた。
一歩、また一歩と白亜の廊下を歩くアキト。
彼は、自分がどこまで深く「落ちぶれた」のかを自覚していた。
かつての仲間を、ミナを、自分の手で葬り去る抵抗はなくなった自分。
しかしそれは、彼にとっての「新しい夢」への通過地点であり、レオンを越えるための唯一の儀式だった。
義足の音が、訓練場の闇へと消えていく。
アキトという少年の葬列は、今、静かに幕を閉じた。




