『夢操の檻』 第一部:灰色の空と虹の街
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SFや終末世界、ディストピアが好きな人におすすめです
1. 暴力的な蒼穹
意識が浮上するよりも先に、視界を焼いたのは「蒼」だった。
それはあまりに無慈悲で、あまりに鮮明な色彩だった。雲ひとつない。大気が徹底的に濾過されたかのような透明な青。かつて、これほどまでに高い空があっただろうか。彼は、自分が誰であるか、ここがどこであるかを思い出すよりも先に、その空の美しさに恐怖した。
「…………、……」
喉がひび割れた大地のように乾いている。呼吸をするたびに、肺の奥が錆びたヤスリで削られるような痛みが走った。 彼は、ザリ、とコンクリートの粉末が肌を擦る音を聞きながら、ゆっくりと上体を起こした。
そこは、かつてショッピングモールだった場所の屋上。 手すりは巨大な怪物の力でねじ切られたかのように歪み、床には砕けたガラスと、きめの細かい灰が積もっている。 彼は知らない。
12年前。原因不明の思考のゆがみは人の命を奪うのではなく、人の「核」を奪った。 『夢』を持たない者。向上心、葛藤、欲望、愛、明日への期待――。そうした精神の火種を失った人々は、自我を喪失し、ただ心臓を動かすだけの肉塊へと成り下がった。
彼は震える手で自分の胸を叩いた。 トクン、トクン、と鼓動が指先に伝わる。 (僕は……まだ、消えていないのか?) だが、恐ろしかった。
自分が「何」を夢見ていたのか。「何」を思っていたのか、思い出せなかったからだ。自分の名前を思い出す事すら、少し時間がかかった。 アキト。 十六歳。 それだけは分かる。かつての家族の顔も、好きだった遊びも、将来の展望も。
すべてが深い霧の向こう側にあった。ただ、この高い空を見ていると、胸の奥がざわつく。その理由さえ分からないまま、彼はふらふらと立ち上がった。
階下を見下ろすとそこには「灰色の群れ」があった。人だ。しかし、
彼らには意志がない。目的地もなく、かといって倒れることもなく、ただゆっくりと、すり足で徘徊している。
アキトは、その中の一人に恐る恐る手を伸ばした。
指先が、男の肩に触れる。 生暖かい。だが、そこには「生きている人間」が発するはずの、微かな反応さえなかった。ぶつかれば避ける、触れられれば振り返る。そんな脊髄反射すらも、彼らは忘れてしまったかのようだった。
「……おい。聞こえるか」
アキトは男の正面に回り込み、その顔を覗き込んだ。視線は虚空を泳ぎ、焦点はどこにも合っていない。何か冷たい予感、が背筋を伝う。
アキトは震える手で、男の閉じかかったまぶたを無理やりこじあけた。
「目を覚ませ… 目を開けろって!僕はここにいる! 見えているんだろ!?」
至近距離で、喉が裂けんばかりので話しかけた。だが、瞳孔は光に反応せず、濁った眼球はアキトの姿を捉えることを拒絶していた。男の唇は、乾いた音を立てて微かに震えるだけで、意味を成す言葉は欠片も零れ落ちない。
こみ上げるのは、恐怖か、それともこの無反応への不安か。アキトの拳が、無意識に固く握りしめられた。「反応しろよ……何か言え!!」
衝動に突き動かされ、アキトは男のを力一杯殴りつけた。 鈍い衝撃音が静寂に響き、男の頭が大きく横に振れる。
しかし、それでも無反応だった。 男は痛みを感じる素振りも見せず、ただ殴られた勢いで傾いた体を、ゆっくりと、機械的な予備動作だけで垂直に戻した。そしてまた、何事もなかったかのように、目的のない歩みを再開した。
殴った自分の拳が痛む。それだけが、この異常な空間で唯一の「現実」だった。 彼らの魂は、ここにはない。
誰とも視線を交わさず、何にも興味を示さない。彼らは、生物的には生きていても、人間としてはすでに死んでいた。
アキトは、瓦礫の山を降りた。 自分の足音だけが、不自然なほどに大きく響く世界。 それがアキトの「日常」の始まりだった。
2. 静寂の行軍
それから、どれほどの月日が流れただろうか。荒廃した都市を歩きまわり、幾千ものビルに上った。 カレンダーも時計も、今の生活には意味をなさなかった。アキトは廃墟となったコンビニを漁り、期限の切れた缶詰や、埃を被ったペットボトルの水を啜って命を繋いだ。
世界は驚くほど静かだった。 機械の唸りも、誰かの笑い声も、怒号も聞こえない。 聞こえるのは、風が風穴を抜ける音と、時折響く徘徊者たちの乾いた足音だけ。
アキトは歩き続けた。止まれば、自分もあの「灰色の群れ」の一員になってしまうような気がしたからだ。 道中、かつての「生活」の残骸を嫌というほど見た。 子供の手を引いたまま、表情を失って立ち尽くす母親。 豪華なスーツを着たまま、側溝の泥水を眺めている男。
彼らはアキトを襲わない。だが、助けてもくれない。アキトが彼らの前で泣き叫んでも、踊ってみせても、彼らはただ、濁った瞳を虚空に向けるだけだ。 この圧倒的な「無視」こそが、アキトの精神を最も深く削った。
「誰か……誰かいないのか……!」
叫んだ声は、空虚なビル街に吸収されて消える。 アキトは膝をつき、アスファルトに額を押し付けた。夏の熱気を帯びた道路の匂いから、かすかに「生」を感じる。 もう、生き残ることなんてどうでもいい。ただ、誰かと話したかった。自分を「人間」として認識してほしい。ただそれだけ。
そんな絶望が、アキトの心に黒い染みを作っていったある夜のことだ。 地平線の彼方に、あり得ないものが見えた。
それは、闇を切り裂く「橙色」の輝きだった。
遥か遠く、まるでそこだけが世界の終わりを拒絶しているかのような、巨大な光の街。
(……街? あそこに、人がいるのか……?)
あそこに行けば、誰かがいる。自分を人間だと認めてくれる誰かが。
その強烈な「飢え」に突き動かされ、アキトは光の街へ向けて、すがるように手を伸ばした。
その瞬間だった。
掌をぐっと握り込んだアキトの指先が、あり得ない「違和感」を捉えた。
「……?」
手のひらの中の空気が、まるでガラスの破片でも掴んだかのように、ほんの一瞬だけ、硬く冷たく歪んだのだ。
驚いて手を開き、何度も握り直してみるが、今度は何も起きない。
幻覚だろうか。それとも、自分もあの灰色の群れのように、いよいよ頭がおかしくなり始めたのか。
少年は己の手を見つめたまま、ただ、地平線で冷たく輝く街へと歩き出す。
それが、すべての始まりだった。
続編も是非読んでください。




