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破られた窓から身を放り出した老女が、青年に腕を掴まれてがゆらゆらと不安定に揺れている。遮るものが何もないゆえの強い風は、老女は勿論身を乗り出している青年にも容赦なく吹き当たり、その体勢を今にも崩さんとしている。
機械人のアレクサンドライトでさえ体内の空管に冷やりとした空気が入り込んだ錯覚がする光景は、当事者の二人…ロイロットとゲルダにとってはどれほどの恐怖だろう。アレクサンドライトに遅れてその光景を目撃したリリーナが、「ひ!」と喉をひきつらせて悲鳴を上げたのを聞いた。
アレクサンドライトは二人を助けるべく、今にも滑り落ちそうな辺境伯の体に手を伸ばしその腰を掴んだ。
「大丈夫かロイロット…!ゲルダ!てめえ、足を滑らせたわけじゃあねえんだろ!!」
例えゴンドラ内にも強い風が入っていたとて、足を滑らせるとは思えない。自らその命を絶つべく夜の闇の中に身を投げたのだろうと責める己に、すっかり顔色を青くした老メイドがぎろりと音が付きそうなほど鋭い視線をこちらに向けた。
忌々しげな、憎々しげなその目は、腕を伸ばして身を支えているロイロットに対する気遣いはうかがえない。アレクサンドライトの質問に対する答えともいえる。
老女は唇を震わせながら、強風の中でも聞こえるくらいにはっきりと声を張り上げた。
「離せ!離してしまえ!50年前したように見捨ててしまえ!お前に助けられるほど私は落ちぶれていないわ!!」
「んなこと言ってる場合かよ!ロイロット、引っ張り上げるぞ!」
「…ああ」
呻き声にも似ている声がロイロットから聞こえた。例え女性一人でも、腕一本に全体重がかかれば辛い。彼がつい先ほどまで苦しんで床に伏せっていたことを思いだし、アレクサンドライトはその体を引き上げようとした。
しかし、背後でリリーナがあ、と小さく驚いた声を上げたことで嫌な予感が装甲を這いあがる。
「アレクサンドライト様!後ろ!」
「…くっ!」
その忠告より前に振り返ると、先ほど倒したはずの男がいつの間にか起き上がり、こちらに銃を向けている姿がセンサーに映った。考えるよりも先にアレクサンドライトはロイロットの前に立ちふさがり、かばう。
支える機械人の力を無くしてしまったロイロットの体がずるりと外に向かってずり下がり、同時につんざくように鋭い銃声がゴンドラ内に響き渡った。
がぁんっ!と自身の装甲が古びた鐘のような鈍い音を立て―――内部に鉛玉がめり込んだことを察する。近距離で放たれた凶弾は装甲だけでなく内側の空管や歯車にあたり、さらに嫌な感覚が広がった。
「が、あっ!!」
人間であったなら、苦痛で顔が歪んでいたに違いない。体に張り巡らされている空管と回る歯車の連動が上手くいかずに、アレクサンドライトの中で警告信号が点滅する。しかし上手に対処が出来ない。
刹那、衝撃にバランスを保てなくなってがくりと膝をつく。そこを狙って、また再び放たれた銃弾が装甲の中にめり込んだ。鈍い音と何かが破壊される音が遠くで響く。
じゅう!と勢いよく蒸気が吹き出る感覚だけを感じて、アレクサンドライトの体はその場に崩れ落ちた。
「…くそ、手間を取らせやがって。貴様はここで壊してやる!」
怒りに震えた男の声がそばまで迫り、アレクサンドライトは何とか視線だけを上に向ける。真っ赤に染まった顔の男が、親の仇でも見るかのような目で己を見下ろしていた。
先ほど格闘していた男たちは全員客室に備え付けてあったロープで動きを封じていたはずだが、自分たちがもだもだしている間に一人抜け出していたのか。ロイロットが取り押さえていた男だけが意識を失っていなかったことを思いだし、アレクサンドライトは貨物室にでも閉じ込めておくんだったと数分前の自分のうかつさを呪った。
己の頭を蹴ろうとしてか男は勢いよく足を振り上げ、しかしぶら下がった老女を支えるロイロットの姿を見てふとその片眉を跳ね上げる。
「おい、お前ら何をやって…」
「っ、えい!!」
男が小首を傾げた刹那―――可愛らしい声とともにがしゃん!と何かが叩き割られる暴力的な音が響き渡る。
正反対なその声と音に驚く間もなく、ぐう、と呻き声とともに男の体はゆらりと揺れて、アレクサンドライトの隣へと力なく倒れた。彼が立っていた場所のすぐ後ろには、肩を震わせて呆然としているリリーナがいる。
その手には茶色い瓶のようなものが握られていた。ようなもの、と形容したのはリリーナが震える手で握っている細長い飲み口以外が、粉々に砕けていたためである。
アレクサンドライトは知らないことだが、これは乗り物嫌いなゴードンが気晴らしに呑んでいた飲料水の瓶。
大人しそうで淑女の具現化とも言えるリリーナだが、彼女はその持前の行動力で恐ろしい武器を持った男を殴り倒したのだ。
「あ、アレクサンドライト様!大丈夫ですか?」
しばし呆然として息をしていたリリーナだが、やがて体の震えを止めて男が起き上がらないことを確認してアレクサンドライトの元へとひざまずく。
装甲の中から聞こえる歯車と空管の中を行く空気の振動は弱弱しくなってとても大丈夫とは言えなかったが、アレクサンドライトは令嬢を安心させるため「ああ」とゆっくりと頷いた。
「俺より、ロイロットを…」
「!、はい、わかりました!」
はっと顔を強張らせてリリーナは立ち上がり、ロイロットの元へ急ぐ。アレクサンドライトもそれを追いたかったが、体からは軋むような耳障りな音が響くばかりで上手く立ち上がれない。体にめり込んだ鉛玉は、アレクサンドライトの体を動かす重要な部分を破壊してしまったようだった。
スティングと戦ったときよりも激しく漏れ出す蒸気に、アレクサンドライトは再び嫌な予感を感じて己の不手際を嘆く。
(ちくしょう、ティリ。わりぃ、下手うっちまった…)
彼女のもとへ、帰れないかもしれない。
その考えに実感が湧いてきて、アレクサンドライトは脳裏に大事な少女の顔を思い浮かべた。
◆
背後で何か激しい音がしているが、とてもロイロットは振り返れない。戦っているのだろうか?事態が把握できないことほど歯がゆいものは無かった。
腕一本で落ちかけた老女を支え、もう一本の手は自分たちがずり落ちないように必死に割れた窓枠にしがみついている。アレクサンドライトがぶち破った窓にはまだガラスの破片が僅かに残っており、それが力を込める己の手に刺さり傷つけていた。
このままではまともに力が入らず、二人とも無残に落下してしまう。それだけは避けなければ…冷や汗でずり落ちそうな腕を必死に握りしめながら、ロイロットは彼女に向けて叫んだ。
「ゲルダ、絶対に手を離すな!このままでは二人とも死ぬぞ…!」
しかし老女はぎらぎらとした目で真っ直ぐにこちらを射抜くと、まるで呪と血を吐き出すかのように告げる。
「死ぬのよ!私たちはもう死ぬしかないのよ!私にはもう生きる術は残っていない!死ぬしかないのよ!」
狂ってしまったかのような言葉であった。
彼女が絶望を口にするたびにロイロットの胸はナイフで刺されたかのように痛む。もちろん、自分に傷みを感じる資格がないことなどわかっていたが、それでも感情だけは止められない。
ぐっと奥歯を噛みしめて、怒りに燃える復讐者の眼差しを真っ直ぐに受け止めながらロイロットは改めて叫ぶ。
「すまない…、それでも貴女は生きてくれ。ウインドマリー家の罪をリングリラへと訴えるために…!貴女の言葉が必要なのだ!」
「…!」
「その後は、私のことは好きにしていい!命を持って償う!だから、ゲルダ…」
―――しかし、その言葉を最後までロイロットが告げることは出来なかった。
風の音をかき消し、怪鳥の鳴き声のような奇妙な音があたりに響き渡ったからだ。否、猿叫の如き不協和音と言った方が正しいか。耳がおかしくなったのではないかと錯覚するほど違和感を持つ音。
一瞬風圧で耳がいかれたのかと考えたロイロットだったが、しかし、その音の出所を突き止めてぞっと背筋を凍らせる。
それは笑い声だった。
目の前にいる女、ゲルダの笑い声だった。
きゃたきゃたと歯をむき出しにして笑う女は、完全に正気の沙汰とは思えない顔をしている。
悪魔に憑りつかれたと言われれば納得してしまうような表情でロイロットを見つめ、唾を飛ばし笑いながら叫んだ。
「お前の小汚い命などで贖えるか!!私たちの苦痛!私たちの屈辱!!命などと言う安っぽいもので私たちが救えるものか!」
「!」
「生きてくれだと!私は生きた、苦しみの中生き延びた!これ以上生きて何になる!?真実などこの際もうどうでもいいのだ!お前たちが、お前が苦しめばそれでいいのだ!!」
その言葉こそ復讐という悪魔に魂を売り渡した人間のもの。だがロイロットはそれを責めることもたしなめることも出来なかった。それが出来る立場にもいなかった。
彼女の恨み辛みの原因は紛れも無く自分…ウインドマリー家であり、自分たちがいなければ彼女たちはまっとうに、幸せに生きれたはずである。平穏に続くはずだった日常を、51年前の事件が炎で焼いてしまったのだ。
ゲルダの絶望は自分の比ではない。比べることすら烏滸がましい。そうロイロットが思った刹那、恐らく微妙に腕の力が緩んだのだろう。
ぶら下がる女はさらに顔を歪め、こちらをずりおとそうと体をゆすった。
「苦しみぬいて死ね!お前たちは!ウインドマリー家のものはみんな!苦しんで苦しんで死ぬのだ!!呪われろ!呪われろぉおっ!」
「ぐうっ!」
腕に負担がかかり、筋がぎしりと嫌な音を立てた感覚が走る。反対の手にもさらにガラスが深く刺さり、痛みで手が滑りそうになった。
けたけたと笑いながら呪われと叫ぶゲルダの勢いに、ロイロットの精神は蝕まれていく。このままでは落ちる、という恐怖心が足元から頭の先まで駆け巡った―――その時だった。
「ロイロット様!大丈夫ですか!?」
可憐な声とともに伸びてきた腕が、痛みで震えるロイロットの腕を掴む。夜の闇の中に浮かぶ白いその腕は、華奢ながらしっかりと己を支えており、負担が軽くなったことをはっきりと感じた。
はっとその腕の持ち主に視線を向けると、ドレスが汚れるのも構わずロイロットと同じように床に腹をつけて身を乗り出していた彼女は、にこりと口元に僅かな笑みを浮かべる。
「ロイロット様、しっかりなさってくださいませ!さあ、せえので引き上げますよ!」
「り、リリーナ…!」
その名を呼ぶと、己の婚約者であるフレイムミル侯爵令嬢は、「大丈夫です」と力づけるようにはっきりとした声で告げた。
「何があろうともわたくしは貴方を支えます。…ですから、命で償うなどとおっしゃらないで。罪を感じているのなら…貴方こそ、生きてください」
何よりの本心であろう彼女の言葉は、またしてもロイロットの心をえぐる。だが先ほどゲルダが発した恨み言に感じたものとは違い、その優しい言葉遣いに切なささえ覚えて胸が締め付けられた。
言葉に詰まるロイロットから視線を外し、リリーナは自分たちをいまだに睨みつけるゲルダを見つめた。深窓の令嬢は少しだけ顔を苦しそうに歪めたあと小さく「貴女も、どうか死なないで」と小さく告げる。
復讐者は何も言わなかった。ただ忌々しげに二人を睨み上げているだけだった。




