軍師の帰還 澪の危機 8
インターホンのカメラに映っていたのは制服警官だった。
一名である。
手には地図と書類の束を抱えている。
居留守を使いたいところではあるが、そうもいかない事情がある。
この国の警察は、外国人、とりわけアジア系の人々に優しくない。
白人は職務質問されないのにアジア系だけされた、などという笑えない話もあるほどだ。
あるいはただの被害妄想かもしれないが、官憲の機嫌を損ねて良いことなど何ひとつないのは事実である。
内心の舌打ちを隠し、愛想良くインターホンに応じる若者。
名を呂紫宇という。
「はい。どちらさまですか?」
流暢な日本語だ。
「こんにちは。中央署のものです」
正確には北海道警察函館方面函館中央警察署というのだが、さすがに誰もそんな長い正式名称を使わない。
「なにかご用ですか?」
「巡回連絡です。居住者の確認にご協力ください」
フレンドリーな態度で耳慣れない単語を使う警官。
大昔は、戸籍調べと呼ばれたものである。
ようするに、その家に住んでいる人を把握することによって、防犯や災害時の救助などに役立てるのだ。
当たり前のように個人情報を聞き出そうとするのはどういうものか、という意見もあるのだが、これが地域の安全維持に一役買っているのは事実である。
「判りました。時間かかりますか?」
「五分ほどお時間を拝借いただければ」
「いまいきますね」
玄関へと向かう青年。
途中、階段を降りてきた少年と行き会う。
「すぐに済ませる。出撃準備を進めておいて」
「任務了解」
準備は着々と進んでいる。
地下では、次々と冥界の兵が召喚されているのだ。
兵馬俑。
死後も貴人に仕えるために作られた粘土人形。それが冥界で魂を与えられ、力を得た。
こころやたまちゃんが用いる天界兵と同じである。
霊兵、という格好いい呼び名もあるが、ようするにアンデッドモンスターの一種だ。
中華アンデッドなら僵尸が有名だし、けっこう強力なのだが、いろいろと運用に制約があるため使いにくい。
そのまま地下へと階段を降りてゆく哪吒。
自分が使う分の霊兵を召喚するために。
いつも通りの無愛想さに苦笑した太公望が玄関に出る。
「すいませんねぇ。時間をとらせちゃって」
にこにこと警官が笑う。
愛される警察、というのを体現したような愛嬌のある顔立ちの中年男だ。
いい歳になってもたいして出世せず、交番勤務のおまわりさんを喜んで続けているような、そんな雰囲気である。
「かまいませんよ。ただ、あまり長くなると困りますが」
若者が苦笑を浮かべた。
世間話などしないで、とっとと本題に入ってくれ、という意味である。
察したのか察していないのか、気を悪くした風もなく警官がボードにクリップ止めした紙を差し出す。
「いちおうですね。記入は任意ということになっとります。職業とかべつに詳細に書かなくてけっこうです。会社員、とかで」
「判りました」
さらさらと記入してゆく。
「ああ、名前にだけはふりがなをふってください。最近の若い方の名前は、とくに読めませんからなぁ」
「僕のは、とくにそうでしょうね。日本人ではありませんので」
「りょ・ずーゆーさんですかぁ」
「日本語だとそういう発音になります。ルィー・ヅゥユィーというのが正しい音ですね」
「ほほう。私が好きだった球団にも、呂という選手がおりましてなぁ」
「それは、かなり思いっきり日本語読みですね」
ごくわずかに雑談に花が咲く。
とっとと追い返そうと思っていた太公望なのに、まんまと警官の話術に乗せられた格好だ。
とはいえ、本当に五分少々である。
「ご協力、ありがとうございました。なにか困り事があれば、いつでも交番に相談してください」
にこやかな顔で敬礼して去ってゆく警官。
「はい。お仕事お疲れ様です」
ふうと若者がため息を漏らす。
彼は知らない。
呂邸を去った警官が、パトロールカーの中で電話をかけていたことも。
「きっちり五分、稼ぎましたぜ。稲積警視」
「恩に着ますよ。井下巡査。お礼は必ず」
「昇進とかなら遠慮しますぜ。それより今度、良い店に連れてってくださいよ」
「むしろ私の直属に転属しませんか? あなたほどの人を遊ばせておくのは人材の無駄遣いだと思うんですがね。ススキノも近いですよ?」
「そいつもご遠慮で。おれっちは町のお巡りさんで良いんで」
という会話が交わされていたことも。
そう、まったく知りもしない。
それどころではなかったから。
玄関の扉を閉めたのに、空気の流れを感じた。
エアコンディショニングの風ではない。
六月終盤の北海道は、まだまたエアコンなど必要ないのだ。
何とはなしに上の階を振り仰いだとき、彼の脳裏に天啓が走った。
二階の捕虜がなにかやったか!?
だが、窓は嵌め殺しのため開閉はできない。
椅子でもぶつけて、たたき割ろうとしたか。
嫌な予感を抱えつつ階段を駆け上がる。
できるわけがない。
屋敷の窓はすべて強化ガラスである。
人間の力で壊せるようなものではないのだ。
風が強くなってゆく。
力任せに扉を開いた。
吹き抜ける風。
深緑の北海道。
笹流ダムまで見晴るかすことができる。
なぜなら、
「これは……なんだ!? なんなんだっ!?」
壁が、完全に消滅していたから。
「遅かったな。盗人。貴様が盗んだ宝石、取り返させてもらったぞ」
部屋の中央。
巍然と立った男女二人。
一方が槍を、もう一方がバンチダガーを構えていた。
時間は、ほんの少し、五分ほど前にさかのぼる。
救出作戦のスタートは、制服警官の呂邸来訪である。
これは実剛が稲積に依頼して北海道警察を動かしてもらった結果だ。
五分間、敵の耳目をキク以外に向けさせる。
「接触成功。太公望は応対をはじめたわ。哪吒もおキクさんの部屋から出た」
琴美が告げた。
装甲車の前。
彼女の横には実剛と信二が立ち、御劔と絵梨佳が守っている。
紀舟陸曹長は運転席から動いていない。
いつでもポークコマンダーを発進させられるように待機中である。
臨時の作戦本部だ。
「予定通り。光則、お願い」
次期魔王の声が無線に乗って飛ぶ。
「了解だ」
同時に砂使いが飛んだ。
助走をつけての大ジャンプである。
二十メートル以上を軽々と飛翔し、屋敷の二階に触れた。
土耳古石の蒼の髪が風に揺れる。
次の瞬間、砂と化して吹き散らされてゆく壁。
「この砂は黄泉比良坂への道標だ」
なんとこの男、キクの捕らわれている部屋の外壁を、丸ごと砂に変えたのである。
何かの罠があったとしてもかまわない。
すべて、完全に、跡形もなく消し去ってやる。
彼もまた怒っているのだ。
能力的な限界があるため、屋敷すべてを砂に変えることはできないが、もし可能だったなら躊躇わずそうしただろう。
「待たせたな。巫菊乃。ぴろしき」
恋人が消し去った壁から侵入する佐緒里。
なんとなく、コントのセットみたいに間抜けな景観となった屋敷に。
もちろん光則と同じ大ジャンプで。
この程度は、量産型能力者でも難なくこなせる。
「なんて派手な救出方法っ」
きゃっきゃとはしゃぐキクだったが、鬼姫に続いて入ってきた鋼が、眼前で片膝をついたとき表情を改めた。
「ごめんね。鋼さん。私が不甲斐ないばっかりに」
魔王の伴侶も跪き、ニンジャマスターの身体に触れる。
彼はキクを守るため、片腕と片足、片目を失っても奮戦したのだ。
いまはもう回復術で復元されているが、それほどの苦闘に応えることもできず、むざむざと拉致されてしまったという事実は消えない。
「もったいないお言葉にござります。我らの力が足りぬばかりに、奥方さまにご苦労をお掛け申しました。謝罪の言葉もありません」
深々と頭を垂れるニンジャ。
「さて。なごんでる時間はないぞ」
時計を確認しながら光則が言う。
作戦開始から二分十七秒。
引き揚げ時だ。
「奥方さま。失礼いたし申す」
身を屈め、キクを姫抱きする鋼。
ぴろしきが、ぴょんとニンジャマスターの頭に飛び乗った。
「あたしたちは適当に暴れてから戻る」
佐緒里が聖槍を掲げてみせた。




