盤上の遊戯 10
「んなわけないでしょうが……」
もぐもぐと咀嚼しながら、美鶴が額に左手を当てた。
右手の方は箸を動かしっぱなしである。
大昔の流行歌のなかで、釣り好きに悪い人はいない、などという歌詞があったが、そんなわけはない。
釣り好きだろうと、猫好きだろうと、料理好きだろうと、悪いヤツは悪いヤツだ。
まして、ことは善悪美醜の話ではなく、国益の絡んだ諜報戦である。
個人レベルの性格の善し悪しなど問題にはならない。
「美鶴さま。せめて箸を置いてから話しませんか?」
食べながら言っても、説得力は八割減だ。
「食べ物に罪はないのよ。あ、光の分も取っておかないと」
この場にいない恋人のために、せっせと取り分けたりして。
世話女房みたいである。
「とはいえ、美鶴さまの言うとおりなのも事実ですわ。むしろ、この料理は賄賂なのかと疑いすら生じます」
さすがに、澪の血族の歓心を買うために料理を振る舞うバカはいないだろうが。
ただ、光則と佐緒里を与しやすしと見て、小手先の細工で体よく追い払ったのではないか、という疑念は拭えない。
「誰よ。このふたりを調査に行かせたのは」
「貴女ですわ。美鶴さま」
「申し訳ない」
人材不足なのである。
戦闘要員の砂使いと鬼姫。どだい、まともな調査などできるわけがない。
だから、
「次の手を、もう打っているのでしょう?」
くすくすと楓が笑う。
佐緒里たちは敵の目を欺くためのブラフ。
ポーカーで用いられる心理戦だ。
相手をゲームから降ろしたり、あるいは無謀な勝負に挑ませるための。
「さあ。どうかしらね」
美鶴が薄く笑った。
「その言い方。その仕草。信二さまそっくりですわ」
「ありがとう楓さん。最高の褒め言葉よ」
じつによく食べる客であった。
ボリューム満点の真・澪豚カツカレー。大人の男性でも、普通に一人前を食べれば充分に満腹になる。
だがその客は大盛りで注文した上に、もう一杯、おかわりを要求した。
食べ過ぎである。
大食い選手権かってレベルだ。
相撲取りのように身体が大きいわけでもない普通の男が、食べること食べること。
「惚れ惚れする食べっぷりですねぇ」
厨房から様子を見た五十鈴が、何とはなしに自分の右頬を撫でた。
何でも食べる子元気な子。
孤児院の院長をしているだけあって、彼女は何でも残さず食べるような男性が好みである。
もっとも、澪に五十鈴の作った料理を残すような野郎は存在しないので、その点では名古屋からきた男だろうと、勇者御劔だろうと同列だ。
「私だって、本気を出せばあのくらいは食べられます」
唯一の例外が口を開く。
暁の女神亭のシェフ、山田だ。
なんとこいつは、五十鈴の料理を残すという伝説を作った男である。
彼女に心酔するポーク隊の面々などからは、毎日のように殺人的な眼光で睨まれている。
「その本気は、出す理由も隠す意味も判りませんね」
苦笑する五十鈴。
「五十鈴シェフの好みが大食漢だと知っていたら、五杯くらい食べてから文句をつけましたよ」
「謎すぎです」
五皿も平らげてからシェフをよべとか、意味不明だろう。
迷惑な客というより、ただの変人だ。
むしろ通報した方が良いレベルで。
そうこうしているうちに、男がカレーを完食した。
食後のお茶を運んでいったウェイトレスに、何事か話しかけている。
「わ。またクレームですかね」
「まさか。五十鈴シェフの料理に文句をつけるヤツなんて、普通はいませんよ」
「山田シェフが言うと、とてもとても説得力がありますね」
くすくすと五十鈴が笑う。
ウェイトレスが喜色満面で厨房に入ってきた。
表情から察するに、どうやらクレームではないらしい。
「シェフにお礼を言いたいそうです」
「あらら。仕方ありませんね」
コック帽がわりのバンダナをしめなおす。
お客様の前に出るのに、完全に調理時の姿というわけにはいかないからだ。
「五十鈴シェフ。私が行きましょう。今日のカレーは私の仕込みですので、あながち間違いではありません」
「山田シェフは、前に出るのは嫌なんじゃなかったです?」
「嫌ですけど、五十鈴シェフが行くのに比べたら、まだ我慢できます」
「なんですかそれは」
「相手は若い男。しかもちょっと逞しい感じでよく食べる。これは危険な兆候です。レッドシグナルといっても良い」
五十鈴の好みに近いだろう、ということだ。
「そんなわけで、撃退してきます」
「撃退してどうするんですかっ 失礼がないようにしてくださいねっ」
声援?を背に受け、山田が勇んでホールに出る。
近づいてきたコックを確認し、男が席を立った。
中背だが、よく鍛えられた肢体。
年のころなら二十六、七。
染めていない黒髪は整えられず、全体的に爽やかな印象だ。
「見事な食べっぷりでしたね。感服いたしました」
にこやかに挨拶する山田。
「じつに美味しかった。あのカレーには、フォンドボーが使われていますね」
「ほほう。お判りになりますか」
フォン・ド・ヴォーとは、フランス料理には欠かすことのできない出汁の一種で、仔牛の骨や腱からとったものである。
「豚肉がメインなのに仔牛のフォンはどうなのかと思いましたが、どうしてどうして、高めあっています。素晴らしかった」
事実、カレーを山田が担当するようになってから、真・澪豚カツカレーはさらなる進化を遂げた。
極北に至ったかと思われた至高の味が、さらに深みと奥行きを増したのである。
五十鈴が揚げる真・トンカツ。
母の愛と郷愁。
そこに山田は、憧憬を演出した。
自分の根っこを確かめ、もう一度、はるか彼方の希望を目指して歩き始める。
立ち止まっても良い。泣いても良い。
大丈夫。
私たちはここからいつでも見守っている。
疲れたら、いつだって背中を押そう。
肩を貸そう。
「ここがそう、楽園さ」
「そこまで大げさなものでもありませんが」
「ともあれ、お礼を申します。こんなに美味しい料理をいただいたのは久しぶりで、思わず食べ過ぎてしまいました」
笑いながら腹をさする男。
「当方にとってはありがたいことですが、身体をお労いくださいますよう」
山田もまた笑顔を浮かべる。
「チップを渡したいのですが」
「あいすみません。当店では、お心付けはご遠慮させていただいております」
「さようですか。残念です」
言って、男がレジカウンターへと向かう。
シェフとすれ違う瞬間、小さく唇が動いた。
影豚隊、三人目の男は、
「陸幕二別っ あっさり捕獲された陸幕二別っ」
げらげらと佐藤が笑う。
自分のことをはるか遠くの棚に上げて。
「うるさいぞ。お前なんか最初につかまったじゃないか。CIA」
無骨なデスクに腰をかけた佐々木が仏頂面をする。
陸上幕僚監部運用支援・情報部別班。通称、陸幕二別。
佐々木が所属する組織の名だ。
防衛省に設けられた特別の機関であり、広い意味では三浦陸将補たち対澪特殊部隊の仲間といえるが、トップは陸上幕僚長である。
まあ、ようするに諜報機関だ。
内閣調査室があるのに、それ以外のスパイがいるというのもおかしなものだが、アメリカだって中央情報局とか国防情報局とかある。
一枚岩の国など存在しないということである。
佐々木の任務は、じつのところ佐藤とほとんど異ならない。
あるいは、より厚顔かもしれなかった。
沙樹を籠絡し、内側から澪を支配下に置いてしまおうというのだから。
「ゆーて。蒼銀の魔女を狙うかね。普通」
苦笑する元内閣調査室の鈴木。
最強の戦士たる沙樹を籠絡できれば、それは単なる戦士を一人引き抜いたにとどまらない。
魔王の従妹であり、その盟友たる鬼からの信頼も厚い女性だ。
影響は澪全体に及ぶだろう。
だが、それはあくまで引き込むことができれば、という話である。
リスクが高すぎる。
最悪のかたちで失敗すれば、最悪の報復を招く。
「その程度の危機管理も判らない連中が佐々木の飼い主ってことだな。となると、誰かってのも想像が付くってもんだ」
「誰だい? 鈴木」
「与党内部の反新山勢力。甘っちょろさが滲み出てるだろ」
佐藤の質問にさらりと応える。
無言のまま佐々木が肩をすくめてみせた。




