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第二話 氷が開く音

 BAR LANTERN には、

 時計がなかった。

 だからこの店では、

 時間の代わりに、

 氷が溶ける。

 榊はそんなことを思いながら、

 ロックグラスを見ていた。

 丸氷の表面が、

 少しだけ曇り始めている。


 澪は、

 カウンターへ頬杖をつきながら、

 店内を見回した。

「この店さ」

「はい」

「絶対、

 夏でもこの暗さなんだろうね」

 榊は少し笑う。

「BARなので」

「いや、

 分かるけど」

 澪は笑った。

「昼の三軒茶屋みたいな曲、

 流してもよくない?」

 そのタイミングで、

 スピーカーから

 Waltz for Debby

 が流れ続けている。


 マスターが、

 グラスを拭きながら小さく言った。

「一応、

 明るい方だよ」

 澪が吹き出す。

「嘘だ」

 榊も少し笑った。

 マスターは表情を変えない。

 でも、

 少しだけ口元が動いていた。


 澪が、

 榊のグラスを指差す。

「まだ硬そう」

「酒がですか」

「榊さんが」

 榊は少し笑った。

 澪はグラスを軽く回す。

 カラン、

 と氷が鳴る。

「ほら、

 今くらい」

 榊も一口飲む。

 少しだけ味が変わっている。

 アルコールの角が、

 丸くなり始めていた。

「……ほんとだ」

「でしょ?」

 澪は少し得意そうに笑った。


 カウンターの端では、

 常連らしい男が一人、

 新聞を読んでいた。

 店内は静かだ。

 でも、

 完全な静寂ではない。

 氷の音。

 レコードノイズ。

 グラスが木へ置かれる音。

 人が息をする音。

 そういう小さな音が、

 静かに重なっている。


「榊さんって、

 仕事できそうだよね」

 澪が言う。

「よく言われます」

「ほんとにできる?」

「半分くらい」

「半分なんだ」

 澪は笑いながら、

 また酒を飲む。

「なんの仕事?」

「マーケティングです」

「あー」

 澪は少し納得した顔をする。

「だから、

 人の反応見るの癖なんだ」

 榊は少し止まる。

「そんな分かります?」

「分かるよ」

 澪は、

 ストローの先で溶けた水滴をいじりながら言う。

「さっきから、

 私が何話すか、

 ちょっと先回りしてるもん」

 図星だった。


 榊は、

 無意識に人の空気を読む。

 次に何を言うか。

 どこで笑うか。

 何を避けるか。

 仕事でも、

 恋愛でも。

 それが、

 いつの間にか癖になっていた。


「疲れない?」

 澪が聞く。

 榊は少し笑う。

「何がです?」

「ずっと頭回ってそう」

 榊は、

 グラスを少し回した。

 氷が鳴る。

「……まあ、

 止め方分かんない時ありますね」

 澪は少し黙る。

 それから、

 急に話を変えた。

「そういえば、

 この前コンビニで、

 “飲むカレー”みたいなの見つけた」

 榊は吹き出した。

「なんですかそれ」

「知らない。

 でも怖くて買えなかった」

「ホラー映画より怖いですね」

 澪が笑う。

 榊も笑う。

 その会話には、

 意味なんてなかった。

 でも、

 その“意味のなさ”が、

 少し心地よかった。


 しばらくして。

 マスターが、

 新しい水を置く。

「飲みすぎないように」

 澪が言う。

「心配してくれるんですね」

「いや、

 明日絶対、

 頭痛いタイプだから」

 榊は少し笑う。

「そんなに弱くないですよ」

「でも、

 酔うと急に真面目になりそう」

「普段から真面目です」

「そういうとこ」

 澪は笑った。


 BAR LANTERN の照明は、

 人の輪郭を少し曖昧にする。

 だから時々、

 感情も少し曖昧になる。

 澪は、

 グラスの氷を見ながら言った。

「ねえ」

「はい」

「榊さんって、

 彼女いる?」

 かなり自然な流れだった。

 でも、

 榊は少しだけグラスを持ち直す。

「いません」

「ふーん」

 澪は、

 それ以上すぐには聞かなかった。

 代わりに、

 少しだけ笑って言う。

「なんか、

 ちゃんとしてるのに、

 ちょっと危なそうだよね」

「どういう意味です?」

「ちゃんとしてる人って、

 急に壊れる時あるから」

 榊は、

 返事をしなかった。

 でも、

 その言葉は少し残った。


 その時。

 店のレコードが変わる。

 ノイズ。

 針の音。

 そして静かに、

 Tennessee Waltz

 が流れ始めた。

 澪が少し目を細める。

「この曲、

 なんか寂しいね」

 榊は曲名を知っていた。

 でも、

 意味は言わない。

 澪はグラスを回す。

 カラン。

「最近別れたんだよね」

 その言い方は軽かった。

 でも、

 少し軽すぎた。

 榊は、

 何か言おうとして、

 少し止まる。

 すると澪が笑った。

「今、

 めっちゃ言葉選んだでしょ」

 榊は苦笑する。

「バレます?」

「バレる」

 澪は少し笑う。

「榊さん、

 ちゃんとしようとしすぎ」

 その言葉が、

 なぜか少し、

 胸へ残った。



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