第一話 予兆
『余白』は、
香り、音楽、沈黙、距離感など、
説明しきれない感情を描いた物語です。
夜の静かな時間に、
少しずつ読んでいただけたら嬉しいです。
映画が始まる前の劇場は、
少しだけ現実から浮いている。
人は皆、
暗くなるのを待っている。
榊 恒一は、
後方の通路側へ座った。
癖だった。
逃げ道が見える席の方が、
少し落ち着く。
場内には、
古い空調の低い音が流れている。
観客はまだ少ない。
スクリーンには、
上映前の静かな広告。
その時、
隣へ誰かが座った。
「すみません」
女の声。
白いニット。
少し急いできたのか、
外気の冷たい匂いが微かにした。
榊は小さく頷く。
ほどなくして場内が暗くなる。
予告編。
ノイズ。
静寂。
ホラー映画は、
“何かが起こる前”
が一番怖い。
榊は昔から、
その時間が好きだった。
隣の女は、
映画が始まって十分ほど経った頃、
小さく息を飲んだ。
スクリーンの中では、
まだ何も起きていない。
ただ、
暗い廊下が映っているだけだった。
榊は少しだけ笑いそうになる。
その瞬間。
女が小声で言った。
「今、
絶対なんかいる」
榊は思わず、
小さく吹き出した。
女がこちらを見る。
「あ、
すみません」
「いや」
榊は少し笑った。
「分かります」
女も少し笑う。
それだけだった。
でも、
その数秒の空気が、
妙に残った。
上映後。
ロビーには、
映画を見終えた人間特有の、
少し現実へ戻りきっていない空気が漂っていた。
「怖かったですね」
女が言う。
榊は肩をすくめる。
「でも、
最後、
結局何がいたのか分からなかったですね」
「そこが良かった」
女は笑った。
近くで見ると、
思っていたより表情が明るい。
根っから暗い人間ではない。
でも時々、
一瞬だけ、
何かを隠すみたいに笑う。
そんな印象があった。
「ホラー好きなんですか?」
「まあ」
「意外。
もっと理屈っぽい映画好きそう」
榊は少し笑った。
「ホラーって、
理屈じゃないから好きなんです」
「どういう意味?」
劇場の外へ出る。
夜風が少し冷たかった。
「人って、
見えないものに、
一番反応するじゃないですか」
女は少し黙ったあと、
小さく笑った。
「なんか、
仕事できそうなこと言うね」
「よく言われます」
「実際できる?」
「どうでしょう」
女は笑った。
「その、
ちょっと距離ある感じ、
わざと?」
榊は少しだけ返答に困る。
初対面でそこを言われるとは思わなかった。
「……癖かもしれません」
「ふーん」
女は自販機で水を買った。
キャップを開ける音。
「私、
朝倉 澪」
榊も名乗る。
「榊 恒一です」
「なんか、
名前まで理性的」
「名前でそこまで言われます?」
「だって、
絶対整理整頓うまいじゃん」
榊は少し笑った。
澪は水を飲みながら、
映画館のネオンを見ている。
風が吹いた。
微かに、
甘すぎないシャンプーの香りがした。
人は、
香りを認識した瞬間、
急に距離を自覚する。
榊は、
なぜかそのことを思った。
「このあと、
飲みます?」
澪が言った。
少し意外だった。
「初対面ですよ」
「嫌ならいいよ?」
「……いや」
榊は少し迷ってから頷く。
「行きます」
澪は笑った。
「よかった」
三軒茶屋の路地裏は、
少し湿った夜の匂いがした。
澪が先を歩く。
「行ってみたい店あるんだよね」
「知ってる店じゃないんですか?」
「一回だけ行った」
「大丈夫ですか」
「たぶん」
たぶん、
という言い方が、
澪らしい気がした。
細い階段を下りる。
古い木の扉。
小さな灯り。
BAR LANTERN。
扉を開けると、
古いレコードのノイズが微かに鳴っていた。
店内には、
Waltz for Debby
が小さく流れている。
カウンターだけの店だった。
席は八つ。
客はまだ誰もいない。
年配のマスターが、
静かにグラスを磨いていた。
「こんばんは」
澪が言う。
マスターは小さく頷く。
「二人です」
カウンターへ座る。
照明は暗い。
でも、
暗すぎない。
人の表情が、
少しだけ曖昧になる明るさだった。
「何飲む?」
澪がメニューを見ながら聞く。
「おすすめあります?」
「ここ、
バーボン美味しかった」
澪はマスターを見る。
「フォアローゼズあります?」
マスターは静かに頷く。
「最初だから、
イエローにしとく?」
澪が笑う。
榊は少し頷いた。
「じゃあ、
それで」
氷の音がした。
丸氷だった。
ロックグラスへ静かに落ちる。
琥珀色の酒が注がれる。
榊は、
その音を聞いていた。
静かな店では、
氷の音だけが少し特別に聞こえる。
澪がグラスを持ち上げる。
「映画のあとに飲む酒って、
なんかいいよね」
榊もグラスを持つ。
ガラスが小さく触れる。
澪は一口飲んで、
少し顔をしかめた。
「まだ硬いね」
「硬い?」
「うん。
ちょっと待つと、
急に美味しくなる」
澪は、
グラスを静かに回した。
丸氷が小さく鳴る。
榊も真似して回す。
少しだけ、
香りが開いた。
アルコールの尖りが、
ゆっくり丸くなる。
その瞬間。
榊は、
なぜか少し安心した。




