第十九話 余白の形
六月。
雨の日が増えていた。
東京の梅雨は、
街の輪郭を少し曖昧にする。
濡れた道路。
滲む光。
湿った空気。
全部が少し、
ぼやける。
その夜。
二人は、
BAR LANTERN にいた。
久しぶりだった。
最近は、
澪の部屋や、
スーパー帰りの夜ばかりだったから。
「なんか、
ちょっと懐かしいね」
澪が、
カウンターを見回しながら言う。
マスターは、
相変わらず静かだった。
低い照明。
レコードノイズ。
丸氷。
何も変わっていない。
でも、
自分たちの方が少し変わった。
マスターが、
静かに
Four Roses
ブラックを置く。
カラン。
氷が鳴る。
榊は、
その音を聞きながら少し笑った。
「何?」
澪が聞く。
「いや」
榊は、
グラスを少し回す。
「最初、
この酒のこと、
すごい難しく感じてたなと」
澪が笑う。
「今は?」
「最近ちょっと分かる気がします」
「何が?」
榊は、
少し溶け始めた琥珀色を見る。
「変わる前提で飲む酒なんだなって」
澪は、
しばらくグラスを見る。
それから、
小さく笑った。
「それ、
恋愛の話してる?」
「半分くらい」
二人とも少し笑う。
店内では、
静かに
Waltz for Debby
が流れていた。
最初に聞いた時より、
今の方が好きだった。
多分、
曲が変わったんじゃない。
聞く側が変わった。
「ねえ」
澪が、
ストローで氷を回しながら言う。
「私さ」
榊は黙って聞く。
「昔、
“ちゃんと分かり合える恋愛”
があると思ってた」
BAR LANTERN の照明が、
グラスを静かに揺らしている。
「でも最近、
なんか違う気がする」
榊は、
その言葉を静かに聞いていた。
人は、
完全には分からない。
だから不安になる。
確認したくなる。
でも、
全部理解できないからこそ、
近づこうとするのかもしれない。
「……分かり合えないですよね」
榊が小さく言う。
澪は笑う。
「うん」
数秒。
それから、
少しだけ柔らかい声で続ける。
「でも、
分かろうとしてくれる人は、
好き」
榊は、
その言葉へすぐ返事をしなかった。
氷が少し溶ける。
ブラックは、
輪郭が変わっていた。
でも、
それが悪いわけじゃない。
最初とは違う味になるだけだ。
その時。
マスターが、
小皿を置く。
今日は、
小さなチーズだった。
澪が一口食べて言う。
「これ、
ちょっとクセある」
榊も食べる。
少し青っぽい香り。
「ブルーチーズですね」
「大人の味」
澪は苦笑する。
「昔だったら苦手だったかも」
榊は、
その言葉を少し考える。
味覚も。
香りも。
人との距離感も。
時間で変わる。
帰り道。
雨は、
小さく降っていた。
二人は、
一つの傘へ入って歩く。
最初の頃より、
自然に近い。
でも、
完全に重ならない。
少しだけ余白がある。
「ねえ」
澪が、
前を向いたまま言う。
「最近、
この距離好き」
榊は少し笑う。
「どの距離です?」
澪は少し考える。
「近すぎないけど、
ちゃんと隣にいる感じ」
榊は、
その言葉を静かに聞いていた。
昔の自分は、
もっと埋めようとしていた。
沈黙。
不安。
距離。
全部。
でも最近、
少し分かる。
人は、
全部を埋めなくても、
一緒に歩ける。
むしろ、
少し余白があるから、
呼吸できる。
雨音。
夜風。
濡れたアスファルト。
傘の中には、
微かな
REPLICA Lazy Sunday Morning
と、
REPLICA Springtime in a Park
が混ざっている。
そしてその香りは、
もう“恋愛の演出”
ではなく、
二人が一緒に過ごした時間そのものになっていた。
最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
『余白』は、
何かを解決する物語ではなく、
説明しきれない感情や、
完全には埋まらない距離について書いた物語でした。
もし、この作品のどこかに、
ご自身の記憶や感情が重なる場所があったなら、
作者としてとても嬉しく思います。
Stracchino




