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第十話 少し溶けすぎる

 十二月。

 街が、

 少し浮き足立ち始めていた。

 駅前のイルミネーション。

 コンビニのクリスマスソング。

 忘年会帰りの酔った声。

 東京は毎年、

 年末になると少しだけ騒がしい。


 その夜。

 二人は、

 BAR LANTERN にいた。

 カウンターには、

 いつもの低い照明。

 マスター。

 静かなジャズ。

 でも今日は、

 店が少し混んでいた。

 奥では、

 スーツ姿の男二人が、

 小声で仕事の愚痴を話している。


 澪は、

 スマホを見ながら少し笑っていた。

 榊は、

 その横顔を見ながら、

 グラスを回す。

 カラン。

 Four Roses

 ブラック。

 最近、

 こればかり飲んでいる。

 最初は硬い。

 でも、

 少し氷が溶けると急に開く。

 榊は、

 その変化が好きだった。


「ごめん」

 澪がスマホを見たまま言う。

「前の職場の子から」

「男ですか?」

 言った瞬間。

 榊は、

 少しだけ後悔した。

 澪が顔を上げる。

 数秒。

 それから少し笑った。

「うん」

 短い沈黙。

 店内では、

 Tennessee Waltz

 が静かに流れ始める。


「飲み誘われててさ」

 澪が、

 スマホを伏せながら言う。

「まだ返してなかった」

 榊は、

 グラスを見る。

 氷が少し小さくなっている。

 多分、

 以前の自分なら、

 もっと平気な顔をしていた。

 空気を壊さないように。

 大人っぽく。

 余裕ありげに。

 でも今日は、

 少しだけ感情が先に出た。

「……行くんですか」

 澪が、

 榊を見る。

 怒ってはいない。

 でも、

 少し驚いていた。


 榊は、

 少し苦笑する。

「すみません」

「なんで謝るの」

「いや、

 なんか、

 感じ悪かったので」

 澪は、

 数秒榊を見たあと、

 小さく笑った。

「嫉妬?」

 榊は、

 グラスを回しながら言う。

「……多分」


 カラン。

 氷が鳴る。

 BAR LANTERN の沈黙は、

 時々、

 人の感情を少しだけ浮かび上がらせる。


 澪は、

 少し考えるみたいにグラスを見る。

「ねえ」

「はい」

「前の彼氏、

 全然嫉妬しない人だった」

 榊は黙って聞く。

「最初は、

 “大人だな”

 って思ってた」

 店内の照明が、

 グラスの琥珀色を揺らしている。

「でも途中から、

 “興味ないのかな”

 って思うようになった」

 澪は少し笑う。

「めんどくさいよね」

 榊は、

 少しだけ息を吐く。

 感情は難しい。

 出しすぎると、

 相手を縛る。

 隠しすぎると、

 温度が消える。

 その境界は、

 いつも曖昧だった。


「でもさ」

 澪が、

 ストローで氷を回す。

「榊さんが、

 そういう顔するの、

 ちょっと安心した」

 榊は少し顔を上げる。

「安心?」

「うん」

 澪は笑った。

「ちゃんと、

 揺れるんだなって」


 榊は、

 その言葉を静かに聞いていた。

 昔の自分は、

 “揺れないこと”

 が大人だと思っていた。

 感情を管理して。

 距離を保って。

 崩れないこと。

 でも最近、

 少し考えが変わり始めている。

 揺れないんじゃない。

 揺れながら、

 隣にいること。

 多分、

 大事なのはそっちだ。


「ねえ」

 澪が、

 榊のグラスを見る。

「ちょっと薄くなってるね」

 榊は少し笑う。

「放置してたので」

「ブラックって、

 ちょうどいい瞬間短いよね」

 カラン。

 氷が鳴る。

「でも、

 その一瞬が美味しい」

 榊は、

 その言葉を聞きながら思う。

 恋愛も、

 多分同じなのかもしれない。

 ずっと同じ温度ではいられない。

 変わる。

 揺れる。

 時々、

 少し溶けすぎる。

 でも、

 だから、

 人はその瞬間を覚えてしまう。


 帰り道。

 夜風はかなり冷たかった。

 二人は、

 珍しく少し無言で歩く。

 でも、

 気まずくはない。

 信号待ち。

 澪が、

 不意に榊の袖を軽く掴む。

 本当に少しだけ。

 でも、

 それだけで十分だった。

 榊は、

 何も言わない。

 ただ、

 冬の空気の中で、

 静かに呼吸を整えていた。


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