第48話 月謝のいらない日
朝の光が、修繕した机の上へ伸びていた。
オリヴィアは三通目の手紙を書き終え、ペンを置いた。
ラウルからは、娘が自分で名前を書いた紙が届いている。コンラッドは、部下に教える説明図を作り直したらしい。シリルの手紙には、論文の修正がようやく終わったと、いつもより短く書いてあった。
それぞれへ返事を書き、新しい教室のことと、この春に読んだ本のことを少しずつ添えた。
ダリアからの知らせにも触れた。セドリックとヘルマンの公的記録改変に関する有罪が確定し、訂正された教材の配布も続いているという。
その一節を書いてから、オリヴィアは最後に、また皆で食事を、と付け足した。
もう、便箋を過去の話だけで埋めなくてよかった。
「おはようございます」
書斎の入口で、フェリクスが欠伸をこらえていた。
髪の一筋が、少しだけ跳ねている。
「おはよう。よく眠れた?」
「ええ。何時か確かめない朝は、久しぶりです」
今日は二人とも休みだ。部局の連絡は当番へ引き継いであり、研修所の予定にも授業はない。
オリヴィアは手紙を重ねて、引き出しを閉めた。
音もなく、すっと収まる。もう右端を持ち上げなくてもいい。
「朝ご飯にしましょう。パンを切ってくれる?」
「はい。厚さのご指定は」
「あなたが食べたいくらいで」
彼は真面目に頷き、それから少し笑った。
朝食の後、二人で書斎へ戻った。
本棚には、赤い糸のノートと、残高が零の月謝帳が並んでいる。原本の照合が終わって戻ってきてから、ここが定位置になった。
その横には、海獣の絵のある本が三冊増えていた。
「棚を、少し広げた方がいいかしら」
「あなたの喜劇も増えています」
「知っています」
顔を見合わせて笑い、フェリクスは机の横へ椅子を寄せた。
オリヴィアが開いた本から、木の栞が滑る。彼にもらった透かし彫りの葉は、使い込んで少し艶が出ていた。
「今度の花婿は、逃げないのですか」
フェリクスが表紙を覗いた。
「まだ、逃げるか迷っているところよ」
「早く帰ってくればいいのに」
「そうね」
オリヴィアは笑い、栞を机へ置いた。
しばらく、頁をめくる音だけがした。
紅茶の湯気が細くなり、庭から鳥の声が聞こえる。話題を探さなくても、沈黙が困ることはなかった。
フェリクスが一口飲み、眉を寄せた。
「今日は少し、薄くありませんか」
「あなたの好みが、濃いのよ」
「なるほど。私は、こちらの方が好きになったのかと思っていました」
彼はカップを見てから、彼女を見た。
「あなたと飲めれば、どちらでもいいようです」
不意に言われて、オリヴィアは本へ目を戻した。けれど、同じ行を二度読んでも頭に入らない。
「……そういうこと、ずいぶん素直に言うようになったわね」
「用件を考えるより、早いので」
彼の声にも、笑いが混じっていた。
オリヴィアは本を閉じ、隣へ少し椅子を寄せた。
教えることも、報告することも、今は何もない。朝の仕事を済ませた手で、彼の手を取る。
「今日は、もう少しここにいたいわ」
「私もです」
フェリクスが指を絡めた。
かつては、使い道を決めかねて預かるうちに、次の月の通知が届いた。今はもう、銀貨を送る口実も、帳簿に書く相談もない。
それでも彼は、隣にいる。
オリヴィアは彼の肩に頭を預けた。彼も少し身を傾け、彼女が寄りかかりやすいようにしてくれた。
書棚の月謝帳は、閉じたままだった。
「ねえ、フェリクス」
「はい」
「会いたいなら、そう言えばよかったのに」
彼は笑い、繋いだ手を持ち上げて、指先へ口づけた。
「今は、毎日言えます。今日も、あなたといたいです」
「ええ。私も」
庭の木漏れ日が、二人の本の上で揺れていた。




