7 明日はきっと
「…奥様、お湯加減はいかがですか」
いつも通りのゾフィーさんの優しい声で、私はゆっくりと目を開けた。
「最適です」
答えたものの、自分の声が思ったよりも弱々しい。
――原作と違う展開になってしまった。どうしよう。
もうそれしか考えられない。
本当なら今頃はヴィルフリート様に「君の良さに、ようやく気がついた」なんて言われているはずなのに、お風呂に入っているなんて。
これからどうなるかわからない。
愛されないだけじゃなくて、「夜会で招待客と喧嘩する公爵夫人」としてゾフィーさんやセバスチャンに見放されてしまったりしたら…
「…私、大変な失敗をしちゃって」
「何をおっしゃいますか!?悪いのは侯爵令嬢のほうでございましょう!私が箒で打ちのめしてやりたいくらいですよ。まあ、旦那様が処分してくださるはずですから、我慢いたしますけれど…」
私は首を横に振る。
きっとヴィルフリート様も呆れている。私を部屋に連れ帰った彼の横顔は、とても険しかったから。
「旦那様に…好きになってほしかっただけなんです。私は旦那様が大好きだから…」
冷たいところも、でも紳士的で仕事熱心なところも、心の奥では寂しがり屋なところも本当は優しいところも。
最初から推しだったけど、実際に近くにいるともっと眼福でもっと好きになって、時折見せてくれる驚いたような表情や怯えたような表情も好きで、離れたくなくて。
「でも全部、もう全部、違ってしまって…」
「旦那様の幸せを祈る」じゃなくて、「好きになってほしい」なんて、自分勝手な気持ちで行動したのが悪かったのかもしれない。
だって原作のエマは、愛情を得たいがために動いたんじゃないもの。ただヴィルフリート様のことを思いやって行動していた。
私の自分勝手な醜い心のせいで、原作とは変わってしまったのかもしれない。
私はぎゅっとシーツを握りしめた。
ハッピーエンドに辿り着けず、ここから追い出されるかもしれない。
ゾフィーさんは困ったように微笑んで、「失礼いたします」と優しく私の頭を撫でた。
「奥様は、旦那様のために、とてもよくしてくださっています」
「…でも」
「だからきっと、大丈夫ですよ」
優しい声。
けれど私は、頷くことができなかった。
「…少し休みます」
湯舟を出てそういうと、ゾフィーさんは頷いて、静かに部屋を出ていった。
◆
コン、コン、コン。
静かなノックの音が、執務室に響く。
「入れ」
短く告げると、ゾフィーが入って来た。
「奥様はお休みになられました」
「…そうか」
私は書類から目を離さずに答える。けれど文字はまったく頭に入ってこなかった。
「…けれど随分と動揺しておられました」
「あんなことをされては、当然だろう」
そう、当然だ。
なんの力もない伯爵家から名門の公爵家に嫁いできて、あんな質素なドレスで夜会に出れば、あれこれ言われて傷つくのは当然だった。
わかっていたのに、私は愚かな疑念を優先して、守ってやらなかった。
結果が、あれだ。
「下がれ」
――静寂。
書類を置いて、ゆっくりと立ち上がる。
気付けば、足は彼女の部屋へ向かっていた。
◆
「エマ」
扉の外から呼びかけても、返事はない。
このまま立ち去ろうかと少しだけ考えて、扉に手をかける。
「顔を見るだけだ」
規則正しい寝息を乱さないよう、音を立てずに近づくと、頬に涙の跡が見える。
――私が、泣かせた。
こんなに細くて小さくて、手を傷だらけにしながら私のためにハンカチに刺繍を入れてくれる女性を。
毒草のようなハーブと格闘しながら笑う女性を。
暗殺者だとは思えない。
いや、暗殺者だとしても…
もし、あれすらも演技だったとしても…
今は彼女の涙の跡を消してやりたくて、そっと頬に触れる。
温かくて、柔らかい。
「ん…」
彼女が息を漏らして、私はびくりと手を引き、逃げるように部屋を出た。罪悪感と高揚感で、心臓が口から飛び出しそうだ。
「…卑怯者め」
明日だ。明日、妻と話をしよう。




