第二十七話 ライフェンベルク
八月八日、夜明け。
ラーエ河の西岸で、ベルヴァーニュ軍の砲兵が目を覚ました。
最初の斉射は、高地の稜線を狙わなかった。
砲兵が上手い軍は、敵の砲を撃つ前に敵の砲が何を見ているかを撃つ。
ベルヴァーニュ軍はその点でよく訓練されていた。
朝の低い光の中で、サン=ブリウ村はすぐに煙を抱え込んだ。
屋根瓦が跳ね、納屋が崩れ、干し草に火が移り、黒色火薬の煙と湿った土の匂いが村の西口に溜まっていく。
ラーエ河に架かる石橋の西側では、第三師団の歩兵が列を見せた。
彼らは石橋へ向かって勇壮な攻撃を行った。
一方、村の南、果樹園のさらに向こうでは、もっと静かな戦争が始まっていた。
夏場だけ地元の農民が使う浅瀬を、ベルヴァーニュの猟兵と工兵が膝上まで水に浸かりながら渡っていく。
浅瀬は道ではなく、水の低い場所にすぎない。
一人が倒れれば後続が止まり、銃を濡らせばただの重い棒になり、弾薬箱を落とせば小隊ごと火力を失う。
それでもベルヴァーニュ兵は進んだ。
強い軍というものは、乱れても進める軍である。
一人が倒れ、後続が川の中で詰まっても、それでも渡る。
ノルトマルク側も、もちろんそれを見ていた。
南浅瀬は無警戒ではなかった。
砲兵は渡河中の敵も、渡河後の敵も撃った。
それでも少しずつ、ベルヴァーニュは対岸に足場を築いていった。
何より、警戒する場所が多すぎた。
高地正面にも敵影が見えた。
北の渡河点付近にも小さな動きがあった。
村西口では砲弾が屋根を割り、橋上には煙が流れ、敵工兵が橋の欄干へ近づいている。
ベルヴァーニュ軍は数の優位を一か所へ積まなかった。
複数の場所に、同時に「無視できないもの」を置いた。
それは、実に正しい使い方だった。
◆
クラウスは軍団前進司令部の作戦室で、戦況を少しずつ理解していた。
彼の前にあるのは、戦場図と、伝令紙と、半分乾いた泥のついた報告板だった。
地図を見れば、戦況はまだ秩序を保っているように見える。
だが次々に届く報告は、その秩序を少しずつ歪ませていった。
「南浅瀬、敵第一波、東岸へ進出!」
「北浅瀬、敵軽歩兵小部隊を確認」
「村東口、教会塔被弾。鐘楼、半壊しました!」
鐘楼、半壊。
その報告を聞いた瞬間、第二師団の副官が顔を上げた。
教会塔は第二師団重砲隊の前進観測点の一つだった。
もちろん、観測点は一つではない。
高地前縁にも測距班があり、村東側の石倉にも観測哨がある。
だが教会塔は、石橋と村西口と南側の果樹園の縁を同時に見られる都合のよい目だった。
次の砲弾が塔ではなく塔の足元を叩いた。
石が崩れ、煙が上がり、鐘楼の上部が村の内側へ斜めに落ちた。
しばらくして観測線断という報告が来た。
見えない砲兵ほど不機嫌で慎重な兵科はない。
砲兵は撃てばよいというものではない。敵に当てなければならないのだ。
外れるだけならいいが、見えないまま撃てば敵より先に味方を殺すかもしれない。
高地背面の重砲列は、急に「強いが鈍い」存在になった。
砲兵将校が紙をめくる音が少し速くなり、ハルトゥング少佐の鉛筆が地図上の石橋正面へ一度止まり、メルテンス大佐が何も言わずに伝令紙を一枚横へ置いた。
クラウスは悪い予感を覚えていた。だいたいこういう状況では、それは当たる。
「石橋正面、橋西詰に増援!」
「村西口、味方火点二つ沈黙!」
ハルトゥング少佐が伝令を睨んだが、もちろん内容は変わらなかった。
ヴァルテンベルク上級大将は、机に両手を置いた。
「メルテンス」
メルテンス大佐が答えた。
「敵第一波は果樹園縁に止まっています。第二波が浅瀬西岸で待機。しかし、足場は作られました」
「正面は持たんか」
「持っています。ですが重砲観測が一時的に死んだことで、敵の圧力が増しています。高地の観測所も圧力を受けています」
「では、ヴォルクマンを頼るしかないということか。……お前の見立てではどのくらい出せる?」
「…一個大隊なら石橋正面へ回せます。それに軽砲を随伴させれば、かなり圧力はマシになるかと」
「ふむ……一個大隊か、南への影響は?」
「主予備は動かしません。一個大隊だけです。南浅瀬へは第一師団主力と騎兵を保持……ハルトゥング少佐殿はどう見ますか?」
「妥当かと思われます。ここで石橋がすぐに落ちれば、南を見ながら正面の穴まで塞ぐことになります。橋を落としても、一時しのぎにしかなりません」
室内に短い沈黙が落ちた。
メルテンス大佐は、地図上の石橋東詰を鉛筆で叩いた。
「今なら一個大隊と軽砲中隊で足ります。遅れれば、支援ではなく奪回になります。奪回にはこの規模では足りません」
「…わかった、すぐに第一師団司令部に予備を回すように送れ」
しかしその命令を送ろうとした電信手が、耳を押さえながら振り返った。
「第一師団司令部への電信線、応答ありません。途中断線の可能性」
室内がわずかに止まった。
「旗は」
とメルテンス大佐。
「煙で見えません。高地南肩の中継旗も、先ほどから確認できず」
クラウスは、嫌な予感が的中しつつあることを理解した。
ヴァルテンベルク上級大将の視線が、彼へ向いた。
「ライフェンベルク大尉」
「は」
「君が第一師団司令部へ命令を直接伝えに行け」
クラウスは一瞬だけ黙った。それを誰も責めなかった。
なぜなら、外では砲弾が落ちていたからである。
「……通常の伝令では」
「足りません」
メルテンス大佐が、即座に言った。
「命令書だけを持たせれば、文面しか届きません」
「ヴォルクマン少将は『一個大隊を石橋正面へ』と読む。それで動きはする。ですがなぜ主予備を割かぬのか、なぜ南を依然第一師団主力で押さえているのか、そこまでは書けません。書く時間がない」
遠くで砲声が二発。窓硝子が短く震えた。
「線は切れています。旗も死んでいる。次にヴォルクマン少将が判断を下す時、こちらの意図を口で説明できる人間が傍にいなければ、彼は手元の地図だけで考えるしかありませんから。つまり命令を届けるだけでは足りない。意図を説明し、受領させ、第一師団司令部の反応を見て戻る者が要ります」
メルテンス大佐の声は低かった。
「そして何より、向こうには向こうの考えがあります。その上でこの判断を納得させなければならない。ただの兵士にはできません」
命令を運ぶだけなら脚の速い伝令でいい。
だが言葉の順序を間違えると、命令の意味が壊れる。
つまり自分の出番なのだ。
ハルトゥング少佐が、命令紙をすでに書き始めていた。
その字は速く、細く、いつも通り読みにくいほど正確だった。
「大尉殿」
少佐は紙から目を離さずに言った。
「伝えるべきは四つです。一個大隊。軽砲二門。石橋正面崩壊阻止。南浅瀬方面主予備保持」
「はい。一個大隊。軽砲二門。石橋正面崩壊阻止。南浅瀬方面主予備保持。……あの、迂回路はありますか?」
とクラウスは、ほとんど復唱と同時に反射で訊いていた。
訊いてから、訊かなければよかったと思った。
あるのなら多分、最初から説明している。
メルテンス大佐が地図の東側を指した。
「あります。高地背面の旧羊道を回り、東の窪地から果樹園裏へ入る道です。ただし、砲車、弾薬車、担架列で詰まっている。馬でも半分は歩かざるをえない。最短で三十分。悪ければ四十分以上かかるでしょうね」
ハルトゥング少佐が補足するように続けた。
「その道を使えば、命令は安全に届くでしょう。ですが届いた時には、石橋正面がもう別の状態になっている可能性が高い」
「では、最短路は」
「高地南肩を抜ける連絡道です。敵砲がいま叩いている道です」
ひどく明快だった。
砲弾が飛んでこない場所があり、そこが同じ時間で着く道なら誰だってそこを通る。
だが、この戦場にはそういう都合のよい道はなかった。
ヴァルテンベルク上級大将は、短く言った。
「行け」
「はっ」
クラウスは命令書を受け取り、内ポケットへ入れた。
◆
馬は前進司令部の裏手に繋がれていた。
葦毛の馬だった。
名前は聞かなかった。
こういう時、名前を知ると余計に嫌になる。
相手が物ではなくなるからだ。
鐙へ足を掛けた瞬間、砲声が近くで鳴った。
馬が首を振り、クラウスの身体もわずかに揺れる。
怖い。
砲弾というものは、本当に礼儀がない。
彼は馬の腹を軽く蹴り、司令部裏の窪地から高地背面の道へ出た。
最初の百歩はまだ道だった。
次の百歩で、道は道というより踏まれ続けた泥の帯になった。
砲車の轍が深く、負傷兵を運ぶ担架が横切り、砲弾の破片で折れた枝が散っている。
左を見ると、確かにメルテンス大佐の言うように砲弾のない道はあった。
そこには弾薬車が車輪を泥に沈めて止まっており、担架列が逆方向へ伸び、後方へ下げる負傷馬まで混じっている。
馬を進めても駆けるどころか人の歩みより遅くなるだろう。
遅い伝令は後日の報告である。
クラウスは正面の連絡道を選んだ。
正確には、そうしないとどうなるかがわかっていただけだ。
唇を噛み、馬を前へ出した。
クラウスは馬上で姿勢を崩さなかった。
それはもちろん勇敢だからではない。
そう考えた瞬間、内側で古い記憶が少しだけ動いた。
ライフェンベルクの名がそうさせたことを思い出したのだ。
父エルンストは生前、あまり怒鳴る人ではなかった。
馬上で背を丸めても、手綱を強く引きすぎても、鐙の上で身体が浮いても、父は怒鳴らなかった。
ただ静かに見て、それから言う。
『もう一度』
それは静かな言葉で、だからこそずっと嫌だった。
怒鳴られるよりある意味では逃げ場がなかった。
父の言葉は、ただ自分がまだできていないという事実だけを目の前に置くからだ。
そして父は、まだクラウスが少年であるときに戦死した。
連邦が華々しい勝利を遂げた北方戦役でのことだった。
その死は名誉や家の誇りではなく、もっと嫌なものと結びついていた。
誰かが廊下で怒鳴った。
誰かが扉の向こうで言い返した。
誰が判断を誤ったのか。
どの連絡が遅れたのか。
何をすれば父は死なずに済んだのか。
子供だったクラウスに細部は分からなかった。
ただ大人たちの声が急に大きくなり、その大きさの中に責任を誰かへ押しつけようとする気配があったことだけを覚えている。
それ以来だ。怒鳴られることがどうしても怖くなったのは。
父の跡を継いで馬術を教えてくれた訓練官は、戦場をそのまま持ち込んだような老人だった。
『膝で馬を潰すな!』
『手で釣るな、腰で受けろ!』
『馬が怯えた時に、人間まで怯えた顔をするな!』
その結果、クラウスは馬にはひどく上手に乗れるようになった。
とはいえ、騎兵突撃も敵陣へ槍を構えて突っ込むこともできない。
ただ馬術競技であればかなりの腕だと自分でも思う。
少なくとも砲声で馬が横へ流れた時、反射的に鐙を踏み、腰を残し、手綱を殺さずに立て直すくらいには。
砲弾が右前方に落ちた。
音より先に、土が跳ねた。
次に風が来た。
馬が一瞬だけ横へ流れ、クラウスは鐙を踏んだ。
膝を締めすぎず、腰を残し、手綱を引き切らない。
記憶の奥でまた怒鳴り声がした。
『腰で受けろ!』
思わず受けてしまった。
人間とは不愉快なもので、嫌だった訓練ほど身体に残る。
そしてそれが役に立っている。
石橋正面からは断続的な銃声が上がり、南の果樹園方向では別の砲声が鳴る。
世界がいくつもの音に分かれすぎていて、どれが自分に関係する音なのか判別できない。
こういう場所で戦況を判断できる人間は、たぶん根本的に別の生き物なのだろう。
だから、クラウスが考えなければならないことは一つ。
最短で目的地へ着くことだけだ。
◆
第一師団司令部は、村南東の低い果樹園裏に置かれていた。
古い石造りの農家で、屋根の半分はすでに枝と土で覆われ、入口にはルーデン邦の青い縁取りの軍旗が小さく立っていた。
彼が馬を止めると、番兵が一瞬だけ銃を上げかけ、それから参謀服を見て敬礼した。
「軍団司令部より伝令!」
その声が思ったよりも軍人らしくて、クラウスは自分でも驚いた。
ヴォルクマン少将は、農家の奥の低い部屋にいた。
会戦が始まっても、髭はきちんと整えられていた。
それは賞賛すべき軍紀なのか、単にこの人の性格なのか、クラウスには分からない。
少将は地図の上から顔を上げた。
「電信線が切れたせいかね、ずいぶん派手な来訪だな」
「できれば、もっと静かに伺いたかったのですが」
短い応酬のあと、クラウスは命令書を差し出した。
「軍団司令部より。第一師団予備より一個大隊を抽出、石橋正面支援へ即時投入。軽砲二門を随伴。南浅瀬方面の主予備は保持。任務は、石橋正面の崩壊阻止」
ヴォルクマン少将は命令書を読み、すぐに顔を上げた。
「…南の圧力も増している。大隊一個と軽砲だけなら喜んで、とはいかん」
「もちろん承知しております。しかし、重砲の観測点がいくつか潰されたことで正面の火力が不足しています」
「……なるほど。砲兵という奴は実に不便だな」
「はい。今なら正面に予備を回していただければ前線が持ちますが、遅れると次は奪回になります」
「利息の安いうちに支払え、ということか。…わかった、すぐに橋の救援に向かわせる」
クラウスはそこで、一拍だけ置いた。
「ただ、橋を救え、ではありません」
ヴォルクマン少将の眉が少し動いた。
「では?」
「橋正面を崩すな、です。そこだけはご留意いただきたい」
部屋の中がわずかに静かになった。
クラウスは続けた。
「南浅瀬方面の主予備は保持します。軍団司令部は南を本命の可能性としてなお見ています。ですが橋正面が今崩れれば村守備が二方向化し、第二師団が先に割れます。ゆえに一個大隊と軽砲二門だけを出す。それが南を見る余裕を残しつつ、正面を壊さないギリギリの戦力とのことです」
これはクラウスの言葉ではない。
メルテンス大佐とハルトゥング少佐が組んだ意図を、自分がなるべく壊さずに運んでいるだけだ。
だが運ぶ以上、壊さないことには意味がある。
ヴォルクマン少将はしばらく命令書を見ていた。
それから、隣の副官へ短く命じた。
「第三大隊を出せ。軽砲二門は第二中隊から」
「はっ」
副官が出ていく。
ヴォルクマン少将はクラウスへ向き直った。
「もう橋自体は保持できんと見たか。…ベルヴァーニュめ、相変わらず戦だけは巧い」
「おそらく、その理解でよろしいかと」
「おそらく?」
「命令書にないことまで断言すると、後で叱られますので」
「ふ、そうか…そうだな。だから君が遣わされたのだろう。復命は?」
「即時、持ち帰ります」
クラウスとしては、見ないふりをしていたその事実を指摘しないで欲しかった。
復命が遅れれば、軍団司令部は命令が届いたかどうかを知らない。
知らなければ二重の命令を出すかもしれない。南の予備まで動かすかもしれない。第二師団へ無理を命じるかもしれない。
つまり、戦場では届いた命令と同じくらい届いたことを知らせる報告が必要になる。
そしてその事実は、もう一度砲弾の下を走れという意味であったからだ。
けれどヴォルクマン少将は、その即答をむしろ面白がっていた。
「……うむ。いや、ライフェンベルクだ。もちろん君を侮っていたわけではない。それでも、机上と戦場は別のものだと思っていた」
その評価は多分クラウスの思いと正反対だと気付いたが、それでも否定はできなかった。
「武運を祈る」
「恐縮です」
この言葉は、こんな時まで便利だった。
◆
サン=ブリウ村の石垣の陰にいたシェルナー伍長は、朝からただ村を守っていた。
煙と土と瓦礫の中で銃を抱え、命令された場所に伏せ、時々撃ち、時々頭を下げ、なるべく死なないようにしていた。
その横を葦毛の馬が駆け抜けた。
砲弾が近くで破裂し、馬が一度横へ流れた。
だが乗っていた若い将校は落ちなかった。
背は伸び、腰は残り、手綱は乱れず、泥と煙の中でも馬上の姿勢は妙に立派だった。
参謀飾緒が揺れていた。
顔まではよく見えなかった。
兵士は一瞬撃つことも伏せることも忘れて、その背中を見送った。
そして遅れて、隣の兵へ叫んだ。




