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第二十六話 役割

八月七日、昼。


日差しに耐えながら、クラウスは高地に設けられた観測所に立っていた。

サン=ブリウ村落は、河の東岸にあった。


古い石橋を渡ったすぐ先に村の西口があり、屋根の低い家々と納屋と石垣が街道に沿って不規則に並んでいる。

村の南には果樹園と低い石垣の畑が広がっていた。

クラウスはこの景色が好きだった。

もちろん兵と喧騒が無ければであるが。


それにしても統帥府の参謀正式軍装は、夏に弱すぎる。

しかもしばらく着替えておらず、暑い臭い不快の三重苦を平気で強いてくる。

戦争という奴は本当にどうかしていると思った。


「……ずいぶん、見通しがよいですね」


彼は仮設司令所から西を眺めながら言った。

隣にいたハルトゥング少佐は、地図から顔を上げずに答えた。


「ええ、ここに防衛側が布陣した時点で、軍学院の机上演習であれば満点が取れる地形でしょう」

「……そうですね」

「敵は兵力に勝るとはいえ、こちらは地形が固い。おまけに敵に渡河を強いる」

「負ける筋が無いように思えますが」

「皆、そう思って戦争を始めるのでしょうな」


少佐はそう言って、ようやく地図から顔を上げた。

灰色の目が、河岸の方を一度だけ撫でる。

クラウスは何も言わなかった。

返すべき言葉が見当たらなかったのが半分。

残りは湿った襟の内側が皮膚に貼りついていて、それを少しでも引き剥がしたかったからだ。

少佐はこんな日差しの下でも襟の線がきれいに立っていた。


「暑くないのですか」

「暑いですよ」

「……そうは見えませんが」

「見せても涼しくなりませんので」


実に少佐らしい答えだった。

クラウスは少しだけ自分の襟元を恨み、それから眼下の村へ視線を戻した。

村は地図で見た時よりずっと小さかった。


西岸からの最も有効な渡河点である石橋は狭い。

橋を渡った敵は、村西口で道幅を絞られる。

村内の集落はそれだけで防衛用の遮蔽になる。

見れば見るほど、負ける見込みが見当たらない場所だった。





軍議は高地背面の古い農家で開かれた。


どうやら村内の富農の家だったらしい。

厚い石壁で覆われ、庭には空になった鶏小屋が残っている。

司令部として立派とは言い難いが、砲弾片と日差しには強そうだった。


中央の机の上にはサン=ブリウ周辺の戦場図が広げられていた。

クラウスは一目見て、これは自分が口を挟む場所ではないと判断した。

数字が多すぎる。

しかも、ただの数字ではない。

砲の重量、馬の数、弾薬箱の位置、車輪の通れる道幅、退避路、予備弾薬の置き場、負傷馬をどこへ下げるかまでが絡んでいる。

これはもはや戦術図というより引っ越しの予定表に近い。

敵の砲弾と喊声を浴びながらやる作業、という条件を除けば。


「敵はどう来ると思うか」

ヴァルテンベルク上級大将は、会議の冒頭でそう言った。

どちらかと言えば確認のような言葉だった。


メルテンス大佐がまず時程表を机の中央へ滑らせた。

「敵は急ぎます」

彼は短く言った。

「願望ではなく、制約としてです。ロガリア仲介使節の到着が迫っている。ベルヴァーニュは、サン・ルネ前面へ出る前に仲介が入ることを恐れている。ゆえに、大きな迂回は避けたい」


ヴォルクマン少将が腕を組んだ。

「迂回すれば、こちらの高地を避けられるのではないか」

「避けられます」

メルテンスは即答した。

「ただし時間を失います。彼らはすでにヴァルモンで日数を削られている。ここでまた二日、三日を失う選択は取れない。そもそも、この規模の軍団を前にして迂回運動で側面を見せるのは自殺に近い」

「では、正面しかないと」


「はい。しかし正面にも種類があります」

そう答えたのは、ハルトゥング少佐だった。

少佐は地図上の石橋を鉛筆で叩いた。

「ラーエ川に架かる石橋は狭い。渡った後も村の西口で絞られる。高地からも村内火点からも撃たれる。ここへ最初から主力を積めば損害の割に進まない」

ブレンナー少将が頷いた。

「では、高地正面強襲は?」

「さらに悪いでしょう」

ハルトゥングは地図上で高地西縁をなぞった。

「攻撃前進路が見えすぎます。砲を置くにも、歩兵を上げるにも、相手に余裕を与える。ベルヴァーニュがいくら焦っているとはいえ、敵がそこまで粗いとは思えません」


「よろしい。ならば、どこを使うか」

ヴァルテンベルク上級大将が訊いた。

今度は完全に確認の色だった。

つまり、これまでの話は自分以外のこの場にとって認識の共有なのだとクラウスは思った。


ハルトゥングは少しだけ間を置き、村の南を指した。

「南浅瀬です」


室内の視線がそこへ集まった。

サン=ブリウ村落の南、果樹園のさらに向こう。

夏場だけ農民が使う浅瀬。


「歩兵なら渡れます。馬も渡れなくはありませんが、部隊として渡れば隊列を失う。砲と弾薬車はそのままでは無理です。ただ、渡河後の東岸は石垣の組まれた果樹園が広がっています。橋頭堡は築きやすい」

「主攻には向かんな」

ヴォルクマンが言った。

「その通りです」

ハルトゥングは返した。

「しかし、ベルヴァーニュなら分散させるでしょう。高地も石橋も南浅瀬も見せながら、どこが主攻かだけは悟らせない」


少佐は赤鉛筆で三本の線を引いた。


一本目は石橋正面。

二本目は南浅瀬。

三本目は高地の真下、北の浅瀬。


「石橋正面は、おそらく見せる攻撃です。ただし完全な虚偽ではありません。南の状況次第でいつでも本物へ変えられる」


メルテンスが頷いて説明を続けた。

「攻勢を石橋正面へ見せ村西口と橋頭へ軍を拘束する。こちらとしても対応しないわけにはいきませんから。同時に南浅瀬へ圧力をかける。南よりも渡るのに向いていないとはいえ、北浅瀬には覗く姿勢だけを見せれば、こちらも気にしないわけにはいかない。数で勝るベルヴァーニュならその三つを同時にやれます」

「つまり、石橋正面を拘束攻撃。南浅瀬を主攻。北浅瀬を陽動。おそらく第一日の目標は高地占領ではなく、東岸足場と村南東出口への圧力というのが見立てです」


「初日で全てを終わらせられるという傲慢は無い、と」

ヴァルテンベルク上級大将が言った。

「ええ、まともな指揮官ならそう考えるでしょう」

メルテンスは皮肉を隠さずにそう答えた。

「ただし進み具合によっては二日目に無理をする可能性はあります」

「こちらが想定通り防衛できるなら、か」

「ええ」


ヴォルクマンが即座に言った。

「なら、そのためにも第一師団を南へ寄せるべきでは。敵が南浅瀬を使うなら、騎兵と軽砲を村南東の畑道へ出せる位置に置く。南浅瀬を渡った後の遮蔽物である果樹園を抜けた敵を、開けた地形で逃がさず叩くのがよい」


それにブレンナーがすぐに反論した。

「寄せすぎれば高地背後が痩せる。敵が石橋正面を本物に変えた時、村西口を支える予備がなくなるではないか」

「村落南側が落ちてはこちらの動きが制限される」

「正面から村に切り込まれても状況は変わらん」


クラウスには、両方が正しいように聞こえた。

ヴォルクマン少将は、敵が渡河後に東岸で乱れた瞬間を逃す危険を知っている。

ブレンナー少将は、防御体系を崩してまで反撃の形を作る危険を知っている。


メルテンスが地図を一枚引き寄せた。

「…第一師団は南東へ寄せます」

ヴォルクマンの目が少し動いた。

「ただし、南浅瀬そのものへ向かわせる位置ではありません」

今度はブレンナーが少しだけ顔を上げた。


「果樹園と石垣線の出口、村南東の畑道へ入れる位置です。敵が渡河直後に騎兵を入れるのは考えにくい。果樹と石垣で機動力が死にます。敵が果樹園から出て再編しようとする瞬間、軽砲で出口を塞ぎ、歩兵で固定し、騎兵を退路へ入れる」


ヴォルクマンは鼻を鳴らして口髭を撫でた。

「騎兵突撃というより、敵が逃げたい場所へ嫌がらせをする仕事だな」

「名誉はともかく、かなり重要な嫌がらせです」

ブレンナーは地図上の高地西縁を指した。

「それなら重砲は動かさずに済む」

「しかし、敵が想定通りに動かなかった場合は」

「もちろん、外れるかもしれません。ですが外れた場合でも、この配置なら石橋正面、高地正面、南北浅瀬のいずれにも即応できます」

メルテンスはそう言い切った。


「そもそも、石橋は落とさないのか」

ヴォルクマンが言った。

メルテンスは、工兵からの報告紙を見た。

「発破準備は済んでいます。橋脚基部に火薬。点火索二系統。東詰の石倉から点火可能。退避線も確保済み」

「橋は落とせるだけ落としているのにここだけ惜しむのか。渡河点を潰せるだろう」


問いは素朴だった。

そしてクラウスが心の中で思っていたことでもあった。

どうしてこの橋は落とさないのだろう、という疑問である。

今まで工兵は橋と鉄路を落としてきた。

敵の前進を遅らせるために壊せるものを壊した。

ならば、なぜここだけ残すのか。


だが、大佐は何のよどみもなく答えた。

「今までの橋とこの橋は身分が違います」

「身分?」

ヴォルクマンが眉を上げる。

「破壊してきた橋梁は敵前進路上の遅滞対象です。落とせば敵の時程が壊れる。橋そのものを使って戦う必要はありません」

そして地図上のサン=ブリウ石橋を指した。

「ですがこの橋は会戦場の中にある。落としても渡河点は消えません。むしろ別の渡河点になります」

「…橋がないのにか?」

「石橋が残っている限り、敵は橋上へ兵を乗せます」

「当たり前だろう」

「ええ、当たり前なのです。ですが橋上の敵は測りやすい。目標も立てやすい。橋上を目掛けた火点は事前にいくつも準備可能で、どの方面からも撃てる。敵は橋の上で広がれず、止まれば後ろが詰まる」

「…なるほど、橋そのものが射撃目標になるということか」

「ええ」

メルテンスは頷いた。

「ところが落とせばそうはいきません。石造橋は綺麗に消えませんから。崩れた橋の残骸は川底に残る。橋の上下流は古い街道の取り付きで川底も比較的固い。敵歩兵は、瓦礫と橋脚の陰に取りつきます」

「……ふむ」

そこまで言われて、ヴォルクマンは言わんとすることを理解したようだった。

クラウス自身もやっとわかった。


「重砲も馬も通れません。弾薬車も無理です。ですが歩兵は隠れながら寄れる。橋を落とした結果、橋東詰のすぐ前に半遮蔽の足場を与えることになります」

「だから、橋を残す方が撃ちやすいと」


「はい」

メルテンスの答えは短かった。

「橋を落とさないのは、橋を惜しむからではありません。敵を撃ちやすい形で渡らせるためです」


「ですが、落とす条件も存在します」

ハルトゥング少佐が補足した。


「敵が橋を通じて重量物を通せる状態になった場合です」

彼は地図上の東詰を叩いた。

「敵が石橋東詰に完全に橋頭を確保する。南からの圧力で村の障害線が破られ、村内への侵入が避けられない。このどちらかの条件で落橋します」


部屋の人間が皆頷いた。

クラウスは、そのやり取りをずっと聞いていた。

今日の会議に関して、彼が口を挟む余地は全くなかった。


そして求められても困るとはいえ、誰にも意見を求められなかった。


この部屋には、敵がどう来るかを読む者がいる。

地図を眺めるだけで砲の配置を決められる者がいる。

騎兵をどこで使えば馬が死なずに済むかを知る者がいる。

この会議の結論を命令文へ落とせる者がいる。


そして自分は、そのどれもができないのだ。





軍議が終わったのは、夕刻に近かった。


命令は決まった。

第二師団は、サン=ブリウ村落、石橋東詰、コルヴィエール高地を一体として保持する。

重砲は高地に据え、歩兵防御を支援する。

軽砲は渡河点警戒と暫時防衛に充て、敵砲兵に捕捉される前に退避する。

石橋は障害化し、落橋準備を保つが、初手で落とさない。

第一師団は高地背後から村南東へかけて機動予備として置かれる。

騎兵は敵が果樹園・石垣線から出た時に側面へ入る。

追撃は軍団司令官の明令による。


どれも派手ではないが、よく整っていた。


クラウスは、農家の外を歩いていた。

日差しは傾いていたが、暑さはまだ地面に残っている。

襟の内側は相変わらず湿っていた。


少し離れた場所で、少佐が命令書の写しを確認していた。

紙束の角はいつものようにきっちり揃っている。

クラウスはしばらく迷ってから、口を開いた。


「少佐殿」

「はい」

「僕は何も役に立ちませんね、こういうところでは」


言ってから、少しだけ後悔した。

愚痴に聞こえたかもしれない、というかまさしく愚痴だった。


少佐はすぐには答えなかった。


命令書の一枚をめくり誤字を確認し、角を揃える。

それからようやく、クラウスを見た。

「……大尉殿。我々の軍は予定通りに集結しました。いくつかの遅れはありましたが、全体で大きなズレは起こらなかったそうです」


「……ええ」

クラウスは少し首を傾げた。

「それがどうしたのでしょう」


「貴方が演習で規定した様式に基づいた動員です」

クラウスは一瞬、言葉を失った。

少佐の言葉をどう受け取ればいいのか分からなかったからだ。

「……別にあの様式でなくても、集まっていたのでは」

「かもしれませんね」


少佐はあっさり認めた。

その認め方が、かえってクラウスにはありがたかった。

ここで「いいえ、貴方のおかげなんです」などと言われたらたぶん全身が痒くなる。

恐縮ですとも言えないかもしれない。


「ですが、貴方の様式が無ければ、兵が一割減ったかもしれない」

「…………」

「明朝撃てる砲一個中隊、騎兵一個連隊か、弾薬縦列二本」


少佐は淡々と続けた。

「それが足りなければ、今日の軍議は別のものになっていた」

その声は賞賛や慰めというよりも、説明に近かった。


「会戦場で砲をどこに置くかは砲兵の仕事です。機動予備をどこに置くかは騎兵の仕事です。鉄道と到着時刻は軍団参謀の仕事です。それらを命令文へ落とすのは、私の仕事です。そして大尉殿の仕事はその前にありました」

「前に…ですか?」

「ええ。軍が軍としてこの場所へ来るための紙を整えた」

「僕がしたのは、欄を分けただけです」

「ええ」

「その分けた欄で、師団が運ばれる」

「大げさでは」

「大げさです」

少佐はそこでわずかに苦い顔をした。

「ですが、完全な嘘でもありません」

クラウスは少しだけ黙り、それから小さく息を吐いた。

「とはいえ、軍議では黙っているしかありません」

「それは正しい」

少佐は当然のように言った。

「喋る余地のない時に喋らないことは美徳です。軍人にはそれができない者が多い、私を含めて」

「……褒めていますか」

「職務評価ですな。人事評価でもいい」

「なるほど」


少佐は命令書の束をもう一度揃え、農家の中へ戻りかけた。

だが扉の前で少しだけ足を止めた。


「ベルヴァーニュは強い軍です」

「ええ」

「兵も強い。士気も高い。師団が整えば、正面から受けるのは厄介です」

少佐は続けた。

「我々は少なくとも、歩兵の練度や野戦砲兵の腕で単純に勝っているわけではありません。ですが今日ここにいる兵士は、偶然集まったのではない。諸邦ごとに建前があり、名誉があり、時刻表の読み方も違う。それでも敵に先んじて有利な場所へ、戦える形で集まった」


そこでクラウスの方を見た。

「大尉殿がしたのは、そういうことです」


クラウスは村を見た。

兵がおり、砲があり、馬がいる。

そのすべてが、勝手にここへ来たわけではない。

その事実を、初めて少しだけ別の角度から見た。


「……もしかして、元気づけてくださっているのでしょうか」

少佐はその言葉に、本気で嫌そうな顔をした。

「…………名目上、直接の上官ですからね。まあ、そういうことでも構いません」

それがあまりにもらしくない言葉だったので、クラウスは少し笑った。

少佐はもう足を止めることなく、農家の中へ戻っていった。


クラウスはしばらくその場に残った。


自分は、砲を置けない。

橋を落とす時も決められない。

騎兵をいつ出すべきかも分からない。


だが砲と橋と騎兵が今日ここに間に合っている理由の一部は、自分であるらしい。


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