第二十四話 時程の破壊
八月二日、未明。
エーリヒ・アーレンス中佐率いる工兵大隊はルサント西部セルヴィエール一帯で、四個中隊を分隊ごとに散開させ、遅滞作業に入っていた。
工兵の仕事は成功しても褒められず、失敗すれば確実に怒鳴られる。
アーレンスにそう教えてくれたのは士官学校時代の教官ではなく、最初に配属された工兵中隊の下士官長だった。
あの時はよくわからず頷いたが、今ではそれが少々理解できるようになった。
教官の言葉は試験で点になるが、下士官長の言葉は尻を叩かれて覚える。
どちらをよく覚えているかと言えば後者の方である。
その事を思い出しながら、目標の一つである小さな石橋の前で懐中時計を見た。
午前三時四十二分。
設置作業は、既に別紙の予定より七分遅れている。
火薬箱の一つが、貨車から降ろす時に取っ手ごと外れたのだ。
箱そのものは無事だった。
だが作業員の指が一本、軽く切れた。
もちろん、それで済めば上等の部類である。
今作業をしている石橋はラーエ河本流に架かるものではなく、支流の一つに架かる石造の小さな鉄道橋である。
橋そのものは地味で、普段は週に二度の軽貨物列車と季節ごとの農産物貨車くらいしか用がない。
しかし今夜、この橋は南から来る師団の一部を半日遅らせるための橋として名誉ある立場を獲得していた。
「火薬配置、完了」
工兵下士が短く報告した。
アーレンスは、橋脚の根元を一つずつ目で追った。
二本の橋脚の基部に、それぞれ二箱。
橋桁の接合部に一箱。
合計五箱。
教本通りの配置である。
もっと少ない量でも落とせると言う士官もいる。
もっと多い方が確実だと言う士官もいる。
場合によってどちらも正しい。
彼自身の経験から、もしかしたら最適な量をこの場で出すこともできるかもしれない。
それでも、教本通りに過不足のない量を配置する。
アーレンスにとっては、それが一番大事なことだった。
「点火索」
「確認済みです」
「退避線」
「河岸沿いに百二十歩、土手陰」
「よし。現在時刻、四時二分。点火」
点火索に火が走った。
少しして、橋脚の下で夜の空気が一度だけ鈍く震えた。
派手な音ではない。
それでも橋は、鉄路ごと河床へ沈んだ。
◆
アーレンスは手元の用紙を見た。
随分と内容の薄い命令書である。
"ヴァルモン方面の鉄路及び橋梁を、可能な限り切断し、敵の前進を遅滞せしめよ。
敵前で持ちこたえる必要はない。接敵時は退避することを認む。詳細、別紙参考のこと。"
本文はそれだけである。
意図は分かりやすい。
現場が動けるように上がわざと短くしているのである。
もっとも、その分だけ責任は下へ落ちてくる。
「裁量」という言葉はうまくいけば現場の判断、失敗すれば現場の責任という意味である。
軍は往々にしてこういった言葉を好む。
もちろん、ヴァルテンベルク上級大将が露骨に責任を押しつけてくるとは思わない。
だからといって、すべて引き受けてくれるとも信じてはいなかった。
ただ、一緒に添付された別紙は厚かった。
切断推奨地点一覧。
推奨作業時刻表。
橋梁構造の概略。
退却路候補。
使用火薬量の目安。
敵先鋒到達予測。
電信仮設点。
復旧困難度見積。
専門工兵からすればやや過剰な好意である。
むしろ、個人的にはここまで押しつけがましい案内は気に食わなかった。
とはいえ、メルテンス中佐―いや、大佐になったか―の好みそうな内容ではあった。
あれは昔から、自分以外の知性を芯から信用していない質の人間である。
実に参謀向きだ、と言ってやったこともあるが、大して気にもしていなかった。
「なんです、それ。やたらと分厚いですな」
曹長が怪訝そうに紙の束を眺めて言った。
「教本みたいなものだよ。正しいことが書いてある」
「つまり我々は信用されていないと」
「それが、どうも違うらしい」
アーレンスは別紙の厚みを確かめるように持ち上げた。
「信用しているから全部を書いてきた。信用しているから、この通りにしろとは書かなかった」
「…なるほど、近くの料理屋の品書きみたいなものですな。あくまで選ぶのはこちらだと」
「そうだな。だいたい頼むものは一緒でも、勝手に決められると気に食わん」
「では、今日の腹具合は?」
「今のところ、だいたい向こうの想定通りだよ。癪だがな」
◆
その後も工兵大隊はセルヴィエールを起点に、ヴァルモン方面へ伸びる鉄路沿いを北東から南西へ逆に辿っていった。
木造の短い桁橋二つ。
鉄路切断四箇所。
道路障害二箇所。
作業はどれも地味だった。
火薬箱を置く。
点火索を引く。
爆発音を聞く。
退避する。
次の現場へ移動する。
馬車の車輪が泥を噛み、鉄梃が荷台で鳴り、誰かが小声で時刻を確認する。
工兵の戦争には英雄譚の匂いがない。
しかし、それがアーレンスの好みでもあった。
第四の切断地点である小村プレセリの手前で、初めて敵の気配があった。
察知したのは、前衛の斥候騎兵小隊である。
ベルヴァーニュ側の竜騎兵先遣隊らしき影が南の丘陵を流れていった、と報告が上がってきた。
アーレンスは報告を聞き、時計を見た。
午前五時二十三分。
別紙の予想より一時間半ほど早い接触であった。
敵の先鋒は思ったより足が速いらしかった。
つまり敵が無理をしているか、敵の道路状況が予想より良好だったか、そのどちらかである。
「プレセリ手前の鉄路切断は予定通り実施する」
アーレンスは言った。
「ただし作業時間短縮のため、火薬量は標準の七割でいい。列車の運行を不能にする程度で足りる」
下士が怪訝な顔をした。
「完全切断にしないのですか」
「完全に落とすのは、もう一つ先のバレーヌ橋でやる。ここは半壊で十分だ」
「ですが、敵工兵の復旧が容易になります」
「容易だろうが難儀だろうがどうせ復旧させるさ。それが工兵の仕事だからな」
鉄路の先を見る。
夜が少しずつ薄くなっていた。
「だから、復旧の手間が一番重い場所だけは完全に落とす。ここで完璧にやって時間を食えば、バレーヌで間に合わなくなる」
下士はしばらく考えてから、頷いた。
気持ちはわからなくもなかった。
軍人は命令を完遂できないと妙な気分になる習性がある、ということだろう。
プレセリの鉄路は、計画通り半壊で済まされた。
枕木が五本。
レール二本分。
路盤の一部陥没。
これだけで、軍用列車は通れない。
参謀の計算は紙の上では正確だった。
ただし現場で計算するのとでは、同じ算術でも重みが違う。
敵の先鋒が予想より一時間半早く到達するという今夜の偶発を知らないからだ。
その差分を埋めるのは現場の仕事である。
それがあのどこか曖昧な命令書の意味だとアーレンスは都合よく解釈した。
もっとも、これが"必ず落とせ"であればこうはいかない。
前進司令部が作戦開始前に完璧に算出した計画に沿って仕事をすることになる。
どちらが自分に向いているかと言えば、多分こちらの形である。
少なくともその程度には、自分の判断をアーレンスは信じていた。
◆
バレーヌ橋の前に立ったのは、午前七時過ぎだった。
朝霧はまだ谷に残っていて、橋の向こう岸は白い。
この川に架かる石橋は、全長三十メートルほどの頑丈な三連アーチだった。
今夜最後の、そして最も重要な一仕事である。
作業は、ここまでの五箇所より慎重に行われた。
三連アーチ橋は、一本の橋脚だけを落としても、残りのアーチで半端に持つ場合がある。
完全に落とすには、三本の橋脚を同時に崩す必要がある。
点火索の長さを揃えることが肝心だった。
そのあいだに、斥候からまた報告が入った。
「敵竜騎兵の先遣、南の尾根線を東進中。距離約三キロ。推定中隊規模と思われます」
「本隊は」
「見えません。ほとんどはまだヴァルモンで集結中のはずですが、先遣が本隊から離れすぎているようです」
アーレンスは考えた。
敵先遣の竜騎兵は、おそらく橋の破壊を阻止するために急行している。
距離三キロ。
山道の速歩なら、十五分で着く。
こちらの作業完了予定は、点火索の調整と退避を含めてあと二十分。
この五分をどう作るか。
「斥候騎兵小隊に伝えろ、敵に見える位置まで上がれ」
「撃ち合う必要は無い。土を上げて敵にこちらの本数を多く見せればいい」
「はっ」
その命令を受けて、工兵隊に随伴していた騎兵小隊が尾根へ向かった。
こういう仕事は騎兵に向いている。
彼らは勇敢に戦うためではなく、勇敢に見えるために送られたからだ。
騎兵は見栄えに関しては大体の兵科に勝つ。工兵とは真逆の兵科である。
同時に、アーレンスは農道にある荷車二台を橋の向こうへ出させた。
「車輪を外せ。横倒しにしろ」
「壊してよろしいのですか」
「あとで弁償表へ載る。払うのはノルトマルクだ」
「持ち主は怒るでしょうな」
「せいぜい高く吹っ掛けてくれることを祈るさ」
工兵たちは無駄口を続けながら、手は止めなかった。
荷車が倒され、道が狭められ、騎兵がわざと姿を見せる。
ベルヴァーニュ竜騎兵はそれに警戒して速度を落とした。
その結果、間に合わなかったはずの五分が産まれた。
「点火索、調整完了!」
「退避線、確認!」
「全員、下がれ」
アーレンスは懐中時計を見た。
午前七時二十四分。
別紙から見れば予定はそう遅れていない。
これが演習であれば「優なり」と書かれるくらいの時間だ。
しかし、今日の現場から見れば紙一重だった。
「点火」
三本の点火索に火が走った。
最初の爆発は低かった。
二本目が遅れた。
三本目は、ほぼ同時だった。
三連アーチの中央が一度だけ膨らむように持ち上がり、それから石が内側へ崩れた。
橋そのものが、自分の重みに耐えきれなくなって落ちていく。
水柱が上がり、石粉が混じり、朝の谷は灰色になった。
しばらくして、ベルヴァーニュ竜騎兵の先頭が尾根を越えた。
たった数分の差だったが、橋はもう落ちていた。
敵の騎兵の一人が、馬上で何かを叫んでいる。
何を言ったかまでは聞こえなかったが、たぶんひどく正しい罵倒だったのだろう。
橋を目前で落とされた騎兵が上品な詩を読むとは思えない。
◆
撤収路で、アーレンスは短い報告の文面を口述した。
電信手は馬車の揺れに悪態をつきながら、それでも几帳面に書き取っていく。
セルヴィエール鉄路橋、午前四時過ぎ破壊。
プレセリ手前鉄路、午前五時半、半壊処置。運行不能。
バレーヌ橋、午前七時二十四分、完全使用不能。
敵竜騎兵先遣と接触。戦闘継続せず。
我が方軽傷一。
書き取り終えた電信手が、短く確認した。
「以上でしょうか」
「それで十分だ」
長く書くほどのことでもない。
見たこと。やったこと。起きたこと。
それだけを書いて、余計なものは添えない。
報告としては、それが正しい。
長く書けば読む側が疲れるし、疲れた読み手は肝心なところを読み落とすからだ。
今夜の仕事は、命令書の短文と別紙一束のあいだに置かれていた。
本文は、現場に動けと言っていた。
別紙は、参考までにと構造と時刻と火薬量を並べていた。
どちらにも「必ずこうせよ」とは書かれていなかった。
その分を現場で判断した。
プレセリを七割で済ませた。
バレーヌに倍量を載せた。
荷車を横倒しにして、騎兵を出させた。
どれも別紙通りではない。
だが、本文にも反していない。
そう考えると、今夜の命令の出し方はなかなか悪くなかった。
アーレンスは、馬車の荷台に背を預けた。
既に朝の光が撤収路の並木の間から差し込んでいた。




