第二十三話 越境
完成していなかった戦争は、八月一日の未明、律儀に電信で届いた。
サン・ルネ、旧税関庁舎。
夜のあいだに届いた湿気が、石壁と紙の両方へ薄く張りついていた。
二階の大部屋では、長机の上に王都西方の地図と鉄路時程表と宿舎割当の控えが、まるで最初から同じ戦争の一部であったかのような顔で並んでいる。
クラウスは、そのうちの一つを見ていた。
正確に言えば、王都西区の空き宿舎一覧である。
保全評議の使者だの、王都警備の増員だの、外務省の連絡官だのが行き来するたびに書き換わる、ひどく面倒な紙だった。
戦争が始まると聞いた時、人は銃声を思い浮かべる。
だが実際に最初に増えるのは、だいたい紙だ。
そこへ、電信手が駆け込んできた。
顔色が悪い。
走ったからではない、読んだ文面が悪いからだ。
内容は短かった。そして逃げ道がなかった。
"ベルヴァーニュ第三師団、未明、西部国境越境。王女殿下より要請ありし保護出動。
先頭、ヴァルモン線へ前進中。"
ついに来たか、と彼は思った。
自分でも、たいして気の利かない感想だと思った。
だが他に言いようもない。
本物の戦争だとは理解している。
死者も出るし、国境も動く。
だが、それでもなお最初に浮かんだのは「面倒が増えたな」である。
自分はやはりあまり立派な軍人ではないのだろう、とクラウスは思った。
◆
ハルトゥング少佐は、すでに別の電信紙を二枚並べていた。
相変わらず机の上の整え方がきっちりしている。
世界が崩れる時ほど、こういう人は紙の角を揃える。
几帳面というよりも、これが自然体なのだ。
「ベルソール発の軍用列車に異常な優先枠が出ています。ルサント西部国境に張り付いていた第三師団が先行、そこに第二師団が続きます。おそらく二十四時間以内には動くでしょう」
「他にはいるのですか」
とクラウスが訊いた。
「おそらく。しかしベルヴァーニュの鉄道容量を考えれば、まだ積み込み前でしょう。ですが、既に十分に戦争です」
その言い方は、少しだけいつもより乾いていた。
少佐は、もう一枚の紙をクラウスへ寄越した。
ベルヴァーニュ側がルサント国内へ流した公報の写しだった。
“請願に従い、王都秩序及び王女殿下の安寧を守るため、ベルヴァーニュ軍は暫定保護出動を開始す。”
「王女殿下は、請願されたのですか」
とクラウスは言った。
「ええ。実情が脅しであろうと虚偽であろうと、紙の上ではそうなりました。言葉の方は、最後まで綺麗にしてくるつもりでしょう」
そこへ、階下で急ぎ足の音が重なった。
ヴァルテンベルク上級大将とメルテンス中佐が、ほとんど同時に部屋へ入ってきた。
少し遅れて、ヴィルマー中将も続いた。
上級大将の顔つきは、怒っているというより整理されていた。
予想していた悪い知らせを、やはり聞いたような顔である。
一方のメルテンス中佐は駅からそのまま来たらしく、外套に煤が薄くついていた。
「戦争だ」
とヴァルテンベルク上級大将が言った。
それだけだった。
宣言文も、大げさな比喩もない。
だがその一語で十分だった。
部屋の空気が変わる。
さっきまで旧税関庁舎の一室でしかなかった場所が、その瞬間から、別の顔を取り始めた。
「今この時より、旧税関庁舎二階大部屋を西部臨時軍団司令部前室とする。書記官は関税書類を半刻以内に片づけろ。電信線は軍務省系統を優先。外務省の照会は別卓へ分ける」
他国の関税机が軍団司令部になる。
国家とは、そういう少し乱暴な改装の連続で出来ているのかもしれない。
◆
書記官たちが関税書類を抱えて走り始める頃、ヴァルテンベルク上級大将は、机の縁へ体重を預けながら言った。
「編成を伝える」
部屋の中央に、作りかけの地図がすでに広げられていた。
地図の角は二つの文鎮で押さえられている。
人間はこういう時、紙まで逃がさぬように押さえる癖がある。
「軍団司令官はそのまま私だ」
上級大将は短く言った。
「臨時軍団幕僚長、メルテンス大佐」
メルテンス中佐が、わずかに顔を上げた。
その目は驚きと諦めの中間にあった。
「喜びたまえ」
上級大将はその顔を見て、ほとんど感情を入れずに続けた。
「戦時昇進だ。お前は優秀なのにその皮肉癖で各所からの評判がよくなかったからな、こういう時でもないと昇進辞令は出せない」
「……は」
中佐は短く答えた。
それ以上は言わなかった。
祝辞を言う空気ではなかった。
祝われる側も、祝う側も、いまここで昇進を祝うほど状況に余裕がない。
そしてクラウスも、その昇進は軍隊という組織にとって厄介事のさらなる押し付けであると理解していた。
「作戦課、ハルトゥング少佐。統帥府派遣参謀を待つ余裕はない。君は西部総監府の一時預かりとさせてもらう」
上級大将は続けた。
「命令書の起案、鉄道時程、作戦計画の文面は君がやれ。メルテンス大佐の下だ」
「は」
少佐の返事は短かった。
よほど以前から、そう言われるのを待っていたような短さだった。
というか、たぶん実際に待っていたのだろう。
少佐にとっては、この配置はようやく本業に戻るという意味の方が近いからだ。
「司令官付幕僚、ライフェンベルク大尉」
上級大将の視線が、ここで短く向けられた。
「連絡、観察、雑務。つまり、私の手足だ」
「…承知いたしました」
正直な所、こうなった以上自分は帰れるのではないか、という甘い願望は一挙に打ち砕かれた。
もっともクラウスには、唱える種類の異論がなかった。
ただ面倒が一段深くなったという感想だけが浮かんだ。
「西部第一師団長、ヴォルクマン少将。ルーデン邦軍、騎兵と軽砲基幹」
「西部第二師団長、ブレンナー少将。ハルツ邦軍、重砲と工兵基幹」
その言葉で、地図の上に軍団が書き込まれていく。
クラウスは、春の演習を思い出していた。
「両師団は鉄道輸送。起点はそれぞれルーデンおよびハルツ邦内より即時。ルサント境界までは計画通りの通常線だ。その先は、メルテンス大佐が差配する」
「集結予定地はサン・ルネより南西四十キロ、コルヴィエール高地北縁。先遣工兵は本日午後より南下し、ヴァルモン方面にて遅滞戦。鉄路破壊だ。指揮はアーレンス中佐が行う」
「我が軍団主力の集結完了、推定で最速第七日」
これで編成の骨格だけは出た。
紙に書けば三行で済む。
しかし、実際には諸邦の面目と、鉄道の容量と、兵站の重量と、師団長二人の気性とが、全てこの三行の下に収まっている。
「ヴィルマーはサン・ルネに残す」
上級大将は続けた。
「外務省、保全評議、ベルヴァーニュ出先、それにロガリア仲介団。着いた順に政治で扱わせる。殿下への連絡も便宜上は中将の所管だ」
「つまり」
とハルトゥング少佐が静かに言った。
「軍団司令部と政治連絡部は、ここを一棟の中で併置するということですか」
「そうだ」
上級大将は、地図から目を離して一度だけ部屋を見渡した。
「ここは王都の西の端にあり、鉄路門に近く、王宮からは徒歩で半時間、北営舎には目を配れる距離にある。連邦軍団司令部としての条件を満たす建物は、少なくとも今この王都に、ここ以外にない」
「外務省と軍務が同じ屋根の下にいると、いずれ摩擦が起きます」
とメルテンス大佐が言った。
「起きるだろう」
と上級大将は答えた。
「だが、外にいて片方を切るよりはましだ。今日以降、政治と軍事はどうせ同じ机で扱うしかない。屋根は一枚で足りる」
屋根は一枚で足りる、とクラウスは心の中で反芻した。
粗い言い方だが、たぶん正しい。
ルサント王国の屋根が一枚ではなくなりつつある以上、せめてノルトマルク側の屋根くらいは一枚に保っておいた方がよい。
「ただし、軍団司令部の前室はここに置くが、私自身と作戦課は、必要に応じて前進する。国境まで全てをこの部屋から指揮するつもりはない」
「前進の起点はどちらに」
メルテンス大佐が尋ねる。
「南西のヴァイデン駅だ。まずはそこへ移る」
前室という語の輪郭が、そこで少しだけ見えた。
この旧税関庁舎は、軍団の脳そのものではない。
脳のうち、政治と連絡と後方とを預かる部分である。
作戦の中核は、事態が進めば別の机へ移る。その時に、ここが空になるわけでもない。
要するに、半ば本部、半ば支部、といった中間の場所になるのだ。
少し曖昧で、だからこそ壊れにくい構造だった。
ヴァルテンベルク上級大将は、地図の上に置かれた鉛筆を取った。
その動作だけで、部屋の中の書記官が一人、反射的に新しい紙を用意する。
「方針を再度通達する」
上級大将は言った。
「第一。サン・ルネは保つ。ただし、王都内のベルヴァーニュ北営舎へ先に手を出すな。あれを撃てば、こちらから王都内戦を始めたことになる。西区の私兵騒ぎは、もはや大きく動く余力を失っている。あれは王都警備で足りる。」
誰も異論を挟まなかった。
「第二。ベルヴァーニュ第三師団の前進は、ヴァルモン方面で遅らせる。主力決戦の場はこちらで選ぶ」
ハルトゥング少佐が、もう書き始めている。
「第三。ロガリアの使節が着くまで、ルサントがまだルサントである形を残す。これを忘れるな。敵を叩くことと、目的を満たすことは同じではない。我らがベルヴァーニュの真似をするわけではない」
その最後の一文だけ、部屋の空気に少し重く落ちた。
勝つだけでは足りない。
勝ちすぎても困る。
負ければ当然困る。
戦争とは、思ったよりもずいぶん不親切な試験だった。
「我々の戦場は、地図の上だけではない。ロガリア人の議事録の第一行も戦場だ」
クラウスはその言葉を聞きながら、少しだけ嫌な気分になった。
議事録の第一行。
戦争まで書類の都合で動くのか、と。
「メルテンス大佐」
「はい」
「第一師団、第二師団、軍団直轄部隊。到着順は君に任せる。ただし工兵と電信隊を先に出せ。重砲は遅れてよいが、切るな」
「承知しました」
「ハルトゥング少佐」
「はっ」
「第一号命令は君が起こせ。軍団編成、輸送順、集結地、先遣工兵の任務。文面は短くしろ。長い命令は、読まれる前に状況が変わる」
「承知いたしました」
「ライフェンベルク大尉」
「は」
来た、とクラウスは思った。
来てほしくはなかったが、もちろんその希望に意味はない。
「軍団司令官付幕僚として、前進司令部へ同行せよ。王都側の前室と前進司令部の間の連絡、伝令路、宿舎、関係部局の照会整理。必要なら外務省の机も動かせ」
「……は」
「返事が鈍いな」
「失礼いたしました。ライフェンベルク大尉、命令を拝受いたします」
返事が遅れたのは、クラウスは自分だけ王都に残って書類を分けていればよいのではないかと、ほんの少しだけ期待していたからだ。
死刑囚が処刑台の階段で「もしかするとここから帰れるのでは」と考える程度の、理性に乏しい期待である。
「ヴィルマー」
「は」
「君はサン・ルネに残れ。保全評議、外務省、王宮、北営舎、公使館。全部ここへ持ち込まれる。面倒だが、誰かが持たねばならん」
ヴィルマー中将は疲れたように頷いた。
「政治の泥水をこちらで受けるわけですな」
「そうだ」
「軍人にしては、ずいぶん湿っぽいですが」
「好きな連隊歌でも歌って盛り上げればいい」
「それはいいですな。めっきり歌う機会も減りましたので」
◆
命令は、そこから紙になった。
第一号命令。
西部臨時軍団編成に関する件。
第二号命令。
鉄道輸送及び集結順序に関する件。
第三号命令。
先遣工兵大隊の出動及び遅滞作業に関する件。
名称が整うと、事態が少しだけ片づいたように見える。
旧税関庁舎の二階大部屋は、夜になる前にまったく別の建物になった。
関税台帳は壁際へ積まれ、代わりに軍用地図が張られる。
窓際には電信机が増え、廊下には伝令の待機線が白墨で引かれた。
外務省駐在官の机は、最初こそ入口近くに置かれていたが、三度邪魔になった後で階段横へ動かされた。
「外務省を階段横に置くのは失礼ではありませんか」
書記官の一人が小声で言った。
「失礼ですが、通れないよりはましです」
クラウスは答えた。
「それに、あそこなら伝令が必ず横を通ります。照会には早く気づけます」
これは半分は本当で、半分は方便だった。
本音を言えば、外務省の机が通路の中央にあると、軍務の伝令が毎回紙束にぶつかる。
戦争を始めた最初の数時間で、外交照会の紙束が床に散るところなど見たくない。
縁起が悪いし、拾うのが面倒だ。
「大尉殿」
声をかけたのはハルトゥング少佐だった。
腕には命令書の清書束を抱えている。
「第一号命令の写しです。軍団司令官、幕僚長、第一師団、第二師団、西方総監府、王都前室、外務省控え。七部」
「七部ですか」
「今のところは」
「では増えますね、もう少し多めに写しましょうか」
「ええ。それがいいでしょう。どこかは必ず“うちにも一部”と言い出します」
少佐は当然のことのように言った。
実際、その十分後には八部になった。
二十分後には九部になった。
人間の欲望は食欲と権限関係と書類の写しにおいて特にしぶとい。
そしてたいてい、余分に刷った書類はそのまま忘れられる。
「大尉殿も今夜出発です」
「…前線ですか」
「後方をお望みでしたか」
「望むだけなら自由かと思いまして」
「ええ。叶わない自由ですが」
◆
日没後、正式な辞令が届いた。
上質な紙ではない。
ありあわせの在庫から急いで抜かれたらしい、少し黄ばんだ紙だった。
だがこの種の紙は、見た目が安いほど逃げ場がない。
“クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉を、西部臨時軍団司令官付幕僚に任ず。即時、軍団前進司令部へ出頭すべし。”
たったそれだけだったが、人の生活を壊すには十分すぎる長さである。
クラウスは辞令を折り、内ポケットへしまった。
しまった瞬間、返せない紙になったと自覚した。
この数か月で、その感覚だけはかなり鋭くなっている。
それを成長と言ってよいのかは不明だが。
西駅へ向かう頃には、王都の空は暗くなっていた。
駅前広場には、工兵隊の列がすでに集まっている。
火薬箱。鉄工具。枕木。巻線。
戦争の先頭に立つものは軍旗や騎兵ではなく、こういう無愛想な木箱なのだとクラウスは思った。
ホームには、アーレンス工兵中佐が立っていた。
春の演習で一度見た工兵中佐である。
「アーレンス中佐」
メルテンス大佐が声をかけた。
「先遣工兵大隊は、第二便でヴァルモン方面へ出ます。任務は鉄路切断、橋梁爆破、道路障害。敵前で持ちこたえる必要はありません。遅らせるだけでいい」
「承知しました」
中佐は短く答えた。
「橋を落としたら、後で王都の商人から恨まれそうですな」
「誰にも恨まれずに戦争ができるなら、そちらを採用していますが」
メルテンス大佐は即答した。
穏やかな笑顔にも見えるが、普段とはやはり声の質は違った。
「ではなるべく綺麗に落とします」
「工兵は橋にまで礼儀を払うのですか」
「後で架け直す相手になるかもしれませんので」
アーレンス中佐は、クラウスにも短く礼をした。
「ライフェンベルク大尉。お久しぶりです。春はお世話になりました」
「いえ、あの時は規程を読んだだけです」
「そうですな。しかしそれを納得させられるのは大尉だからこそです」
「今回は規程も条文も必要なさそうですね」
「ええ、それで済む話だけなら、随分楽だったのですが」
笑いもせずにそう言って、中佐は列へ戻っていった。
同じ工兵が、春には橋を架け、今は橋を壊しに行く。
職能というものは、使い方次第で本当にひどいことになる。
◆
軍団前進司令部へ向かう列車は、夜遅くにサン・ルネを出た。
客車ではなく、半ば貨車のような車両だった。
座席は固く、窓は煤け、灯火は少し揺れる。
軍用列車に快適さを期待する方が間違っている。
軍という組織は、人間の尻の権利について驚くほど冷淡だ。
向かいの席には、ハルトゥング少佐がいた。
列車は王都の灯を後ろへ流し、南西へ進んでいった。
窓の外は暗い。
時折、小さな駅の灯と、側線に置かれた貨車の影だけが見える。
クラウスは、しばらくその暗さを眺めていた。
戦争が始まったという実感は、まだ薄い。
越境の電信は見た。
軍団編成も見た。
辞令も受けた。
今まさに軍用列車へ乗っている。
それでも、自分の手の中にあるのは地図と宿舎表と連絡先一覧である。
人が死ぬ戦争が、相変わらず紙の形をしている。
「大尉殿」
「はい」
「昨夜から、あまり喋りませんね」
「喋ると、仕事が増えそうなので」
「それは賢明です」
少佐は少しだけ視線を落とした。
「ですが、前進司令部では喋っていただく場面もあります」
「嫌な予告ですね」
「現実では嫌な予告だけは当たりますから」
その後、少しだけ沈黙があった。
車輪の音が、規則正しく床下を叩く。
「今度の戦争は」
少佐が低く言った。
「勝てばよい、という種類ではありません」
「閣下もそう仰っていました」
「ええ。ベルヴァーニュ軍を押し返すだけならまだ分かりやすい。可能かどうかは抜きにして。問題は、そのあとです」
「勝ちすぎないこと、ですか」
「そうです」
少佐は窓の外を見た。
「敵を王都から遠ざけ、なお自分たちも侵入者に見えない。勝った後で止まる。軍事的には不自然ですが、政治的には必須です」
クラウスは少しだけ考えた。
「では、戦場でも欄を分けるわけですね」
「何をです」
「勝ったことと、進んでよいことを」
少佐はしばらく黙った。
それから、ほんの少しだけ口元を動かした。
「それを誰もが分けられるのであれば、歴史は随分と変わっていたでしょう」
それは褒めているのかどうか、最後まで判別できなかった。
◆
前進司令部予定地のヴァイデン駅へ着いたのは、夜明け前だった。
ヴァイデンはサン・ルネから南西へ下った小駅で、普段なら羊毛と麦袋と郵便馬車くらいしか扱わない場所らしい。
だが、今は違った。
駅舎の横には軍用電信線が増設され、貨物倉庫の壁には地図が張られ、駅前の宿屋はすでに軍団司令部要員で埋まっていた。
何より、側線がひどく混んでいる。
兵員車。
砲車。
馬車。
弾薬貨車。
工兵資材。
野戦炊事車。
戦争とは、やはり移動する倉庫なのだな、とクラウスは思った。
英雄譚の表紙に描かれるべきなのは、勇ましい騎兵ではなく貨車の連結器かもしれない。
まあ、もちろん売れないだろうが。
駅舎の仮会議室では、すでに二人の少将が待っていた。
一人はヴォルクマン少将。
ルーデン邦軍。騎兵と軽砲の人。
髭の手入れに相変わらず余念がない。戦争が始まっても髭は軍紀を保っているらしい。
もう一人はブレンナー少将。
ハルツ邦軍。重砲と工兵の人。
こちらは以前よりさらに乾いて見えた。
机の上に置かれた砲兵配置表を見ている顔が、神学者より真剣である。
「ライフェンベルク大尉」
ヴォルクマン少将が声を上げた。
「久しぶりだな」
「またお会いしました」
クラウスは敬礼した。
「今度は右翼の名誉ではなく、本物の戦争だな」
「できれば、どちらも遠慮したかったのですが」
ヴォルクマン少将はその言葉に笑った。
笑える人はまだ少し余裕がある。
ただし、その余裕が突撃へ変わる場合があるので油断はできない。
ブレンナー少将も、静かにこちらを見た。
「大尉殿。今回は欄を分ければ済む話ではなさそうですな」
「済んでくれるなら助かります」
「では無理でしょうな」
そして書類に視線を戻した。話は終わったという合図である。
この人は本当に遠慮がない。
全員が揃ったところで、メルテンス大佐が地図に指を置いた。
「状況を確認します。ベルヴァーニュ第三師団は国境を越え、ヴァルモン線へ向けて前進中。第二師団は後続。第七師団は準備中ですが、会戦には間に合わない可能性が高い」
ハルトゥング少佐が地図へ赤線を入れる。
「我が軍団は第一師団、第二師団を順次集結。集結予定地はコルヴィエール高地北縁。敵がヴァルモンを越えて王都方面へ進むなら、ラーエ河を渡らざるをえません。ここで迎え撃つことを第一義とします」
ブレンナー少将が短く言った。
「高地から見下ろせる」
「ええ」
少佐は頷いた。
「ただし、こちらの主力が揃うまで時間が要ります。したがって、本日よりアーレンス中佐の先遣工兵隊がヴァルモン方面へ出ます。橋梁爆破、鉄路切断、道路障害。任務は敵撃破ではなく、敵時程の破壊」
敵時程の破壊。
その言い方は、少佐らしかった。
人間の軍隊も、突き詰めれば時刻表にされる。
そして時刻表を壊せば、人間も遅れる。
「アーレンスはどこまでやれる」
とヴォルクマン少将。
メルテンス大佐が答えた。
「戦闘を避けられれば二日。騎兵先遣隊に噛まれれば一日半。橋の落ち方次第で、もう半日というところです」
「半日は大きい」
ブレンナー少将が言った。
「重砲列の展開に半日あれば、戦場が変わる」
その声には、砲兵の人間だけが持つ奇妙な実感があった。
半日を、半日ではなく砲列の数で見ている。
ヴァルテンベルク上級大将が遅れて部屋へ入ってきた。
全員が立つ。
「いい。座れ」
上級大将は短く言った。
「今から我々が買うのは勝利ではない。時間だ。時間を買い、場所を選び、王都へ軍を入れさせぬ。覚えておけ」
その言葉に、ヴォルクマン少将もブレンナー少将も頷いた。
軍団の骨格が、そこで初めて生き物のように見えた。
ルーデンの騎兵と軽砲。
ハルツの重砲と工兵。
メルテンス大佐の鉄道。
ハルトゥング少佐の命令書。
ヴァルテンベルク上級大将の政治的限界線。
そして、自分はなんなのだろう。
クラウスは机の端に置かれた連絡一覧を見た。
それをうまく定義できないこと自体が、やはりこの場にそぐわない気がした。
◆
会議の後、ヴァイデン駅はさらに忙しくなった。
王都から届く電信は一時間ごとに増えた。
ルサント評議会の照会。
外務省からの確認。
西方諸邦軍の到着見込み。
補給列車の遅れ。
弾薬貨車の編成変更。
どれも一つ一つはただの紙である。
だが束になると、人間を簡単に押し潰す。紙のくせにずいぶん偉そうだ。
クラウスは仮会議室の隅に机を一つ与えられた。
良い席ではなかった。
窓からは貨物倉庫の壁しか見えず、床は少し傾いている。
だが、伝令が必ず通る位置だった。
「ライフェンベルク大尉」
駅務官が一人、帽子を握りしめて立っていた。
「宿舎割当の件ですが、第一師団先頭部の連絡将校が宿屋を二軒押さえたいと」
「二軒もですか」
「将軍閣下の副官用と、騎兵旅団司令部用だそうです」
「では、片方は倉庫事務所へ」
「宿屋でなくてよろしいので」
「寝るだけなら床はあります。指揮するなら机が要ります。騎兵旅団には、机の方を差し上げてください」
駅務官は、よく分からないが助かったという顔で去っていった。
礼を言うより先に走る。正しい態度だと思う。
次に来たのは外務省の連絡官だった。
「王都前室からの問い合わせです。ベルヴァーニュ出先への照会文について、軍団司令部側の表現を統一したいと」
「表現ですか」
「越境と書くか、保護出動と書くか」
「両方書いてください」
「両方?」
「本文ではベルヴァーニュ軍越境。相手の主張としては保護出動と称する。欄を分ければ済みます」
「……なるほど」
連絡官は感心したような顔をした。
クラウスとしては、感心されるようなことを言ったつもりはない。
片方だけを書くと揉めるから、両方を書けと言っただけである。
しかし人間は、揉めない形を見つけるとすぐに知恵と呼ぶ。
たまには怠惰と呼んでほしい。そちらの方が実情に近い。そして評価もされない。
夕刻近く、メルテンス大佐がクラウスの机の前を通りかかった。
「よく詰まっていますか」
「はい。詰まっています」
「結構です。詰まっているところに君を置いたので」
「喜んでいいのでしょうか」
「君にしかできない、という意味では」
大佐はそう言って、時程表を一枚置いた。
「明日朝までに、王都前室、ヴァイデン前進司令部、コルヴィエール集結予定地の連絡経路を二系統にしてください。電信が切れた場合の伝令路も。ついでに、外務省の照会が作戦課に直接刺さらないように机を分けること」
「…ついでの量が多いですね」
「戦時ですので。まあ、それでもできない人間には最初から求めません」
と大佐はいかにも面白そうに言った。
戦時。
便利な言葉である。
不便も無茶も寝不足も、だいたいこの一語で片づく。
人類は自分で作った悲惨に名前を付け、それで納得した顔をする。たいした生き物だと思う。
◆
その日の午後遅く、アーレンス工兵中佐の先遣列車がヴァイデン駅を出た。
機関車の煙突から黒い煙が上がり、火花が昼の薄い雲の中へ散る。
貨車には橋材ではなく、橋を壊すための道具が積まれていた。
火薬箱。鉄梃。枕木を外すための工具。巻線。携帯電信機。
クラウスはホームの端で、その列車を見送った。
列車はゆっくりと曲線へ入り、やがて貨車の最後尾だけが見えなくなった。
その向こうに、コルヴィエールがあり、ヴァルモンがあり、ベルヴァーニュ第三師団がいる。
戦争は電信で届いて、鉄道で伸びていく。
クラウスは、内ポケットの辞令を指先で軽く押さえた。
紙はまだそこにある。
軽く、薄く、そしてどうしようもなく重かった。




