第十三話 国境へ向かう列車
国境は、いつも少し早く政治になる。
王都グランツェルであれば、危機というものはまず紙の上で発生する。
外務省の照会、軍務省の補足、統帥府の査閲命令、新聞の見出し。
だが西へ近づくにつれて、それは紙のままではいなくなる。列車の順番になり、駅の側線になり、国境警備隊の帽章になり、そして最後には――誰が先に弔意を示したことに見えるか、という、ひどく曖昧で、ひどく危険な問題へ変わる。
クラウスが西行きの列車に乗ったのは、七月の初め、曇った朝だった。
王都東駅の屋根はいつもどおり煤けている。出発番線には軍用車輌と郵便車が混じって停められ、足元には小ぶりな革鞄が一つ、網棚には統帥府支給の文書筒が一つ。
派手な旅装ではない。派手なものは、たいてい後で面倒になる。
向かいの席には、ハルトゥング少佐がすでに座っていた。膝の上には資料束が三つ。いつものように、角がきっちり揃っている。
「三つですか」
「ええ」
少佐は窓の外を見たまま答えた。
「一つは演習査閲の正式資料。一つはルサント王家弔問関連の外務省連絡。もう一つは、実際に列車を走らせるための時刻表です」
三つ。
演習と弔問と時刻表。全部が同じ路線に乗る。
「つまり、同じ路線に三種類の建前が乗るわけですね」
ハルトゥング少佐は、ほんのわずかに口元を動かした。
春先なら「不謹慎だ」と切り捨てたかもしれない。今はそうしない。
「建前というより、見え方です」
「見え方の方が面倒です」
「ええ。計算より面倒だ」
列車が動き出した。
駅舎のガラスがゆっくり後ろへ流れ、王都の尖塔と煙突が曇り空の下で遠ざかる。
しばらくの間、二人は黙っていた。
黙っていても差し支えない相手と旅をするのは、かなり好ましいことだった。
春には、この少佐と同じ車室で黙っているだけでも空気が少し痛かった。
今は違う。説明を要しない沈黙が成立している。
これは、人間関係の最も上等な形の一つだとクラウスは思う。
やがて少佐が、資料束の二つ目を開いた。
「ルサントの件ですが」
「はい」
「現地評議会はまだ王位継承を正式承認していません。ベルヴァーニュは第一王女エレオノーラ殿下を軸に摂政体制を支持している。こちらは傍系のアドル伯寄りだが、公にはそこまで露骨には言えない」
エレオノーラ王女。あの王女殿下だ。
継承権を持たない王女を旗印に介入しようとしている。
上品で、かなり図々しい構図だな、とクラウスは思った。
「弔問ですから」
と彼は言った。
「そう。弔問ですから」
少佐はその一語に、薄く皮肉を混ぜた。
「問題は、ベルヴァーニュの弔問使節列車が、儀仗兵と供奉車をかなり積んで来ることです。連中は“弔意”と言うでしょうが、西部諸邦は“示威”と読みます。しかもベルヴァーニュ側は、弔問の名目で王女殿下との接触機会を最大化するつもりだ。葬儀が終わっても帰らぬ理由を作りたいわけです」
クラウスは少佐の資料を覗いた。
ベルヴァーニュ弔問使節団の編成案。
使節団長の名前。随行する儀仗兵の規模。そして末尾に一行。
ルサント王家側の葬儀主催は、エレオノーラ第一王女殿下の名義にて行われる見込み。
王位は継げないのに、葬儀は仕切る。
面倒そうな立場だな、と思った。
「こちらは?」
「こちらは西方大演習の査閲班と、形式上はそれに付随するルサント弔問補助団です」
「つまり、こちらも別に潔白ではない」
「むろんです。潔白な国家など、国境線の近くではほとんど見ません」
少佐はそう言って、路線図を広げた。
ルサント王国へ入る西方線は二つ。
北の山間線と南の河谷線。
だが王都サン・ルネへ儀仗列車を通せる長さと橋梁強度を持つのは、実質的に河谷線だけだ。
しかもその河谷線は、ノルトマルク西方軍の秋季大演習でも、補給と査閲の基幹路線として使う予定になっている。
「一つの線路に」
クラウスは図面を見ながら言った。
「弔問、査閲、示威、それに実際の兵站が全部乗っている」
「ええ」
「綺麗に破綻していますね」
「まだ破綻はしていません。まだ、ですが」
◆
列車は昼過ぎにシュタインフェルトへ着いた。
西部総監府のあるこの町は、春に来た時より明らかに緊張していた。
駅舎にはルサント国王崩御を悼む黒布が下がっている一方で、ホームの端には西方諸邦軍の伝令馬が並び、側線には砲車を積んだ貨車が二本、布で覆われたまま留め置かれている。
喪と準備が、同じ景色の中であまりにも自然に共存していた。
迎えに来たのは、メルテンス中佐だった。
相変わらず痩せていて、相変わらず襟元に乱れがない。
「ようこそ」
握手しながら言った。
「春より少しだけ賑やかになっております」
「葬儀のせいですか」
「新聞、諸邦政府、ベルヴァーニュ、ルサント評議会、そして我々自身です。賑やかさというのは、たいてい複数の愚かしさの合算で生まれます」
この中佐のことは、相変わらず好きだ。
状況をちゃんと見ていて、しかも皮肉を言う余裕がある。
少なくとも怒鳴りはしない。
馬車の中で、メルテンス中佐が事情を手短に説明した。
ルサント国王の葬儀は十日後。
ベルヴァーニュの弔問使節団は、エレオノーラ第一王女殿下への目配せを込めて、儀仗兵一個中隊と騎兵護衛を同行させたい意向。
西方諸邦は、それを「葬列への弔意」ではなく「ルサント王都への先行駐兵」と読んで反発。
ベルヴァーニュ側はあくまで「親族の葬儀」という建前を押し通し、
ノルトマルク側も、西方大演習の査閲をルサント国境からあまり引き離すつもりはなく、査閲列車と補給試験列車の動きをどう見せるかで揉めていた。
「要するに」
とメルテンス中佐が言った。
「皆が“弔問”という同じ言葉を使いながら、やりたいことは別々です」
ルーデン邦とハルツ邦が「右翼」を奪い合っていた時と、構造は同じである。
一つの語に違う意味を詰め込んで、全員が自分の意味だけを正当だと思っている。
「いつも通りですね」
とクラウスは言った。
「その通りです。残念ながら、国境でも人間は急には賢くなりません」
規模が大きくなっただけで、やることは変わらない。
……変わらないのだと、いいのだが。
◆
総監府本館へ着くと、すぐに会議へ通された。
ヴァルテンベルク上級大将、ヴィルマー中将、西方諸邦の連絡将校たち、外務省の駐在官、そしてルサント評議会から派遣されたという黒い喪章をつけた痩せた書記官までいる。
部屋の空気は、まるで全員が一つの悲しみを分かち合っているようでいて、実際には一つの線路を奪い合っている時のそれだった。
会議の争点は明快だった。
ベルヴァーニュ弔問使節列車を、ルサント王都サン・ルネまでどのような資格で通すか。
彼らが儀仗兵を連れて入るなら、それは単なる弔問か、武装護衛か。
もし護衛なら、こちらの査閲列車にも同等の形式を付すべきか。
だがそうすれば、弔問と査閲と示威の境界はますます曖昧になる。
「ベルヴァーニュ側は、“儀礼的随伴兵”との表現を使っています」
外務省駐在官が言った。
「砲を持たず、王都内での駐留も行わない。ただし制服着用、式典参加、武器帯行は保持する、と」
「武器帯行した儀礼兵を、こちらの新聞がどう書くかは分かりきっている」
ヴァルテンベルク上級大将が不機嫌に言った。
「“ベルヴァーニュ軍、ルサント入城”だ」
ルサント評議会の書記官が、疲れ切った声で口を挟んだ。
「評議会としては、いずれの大国の軍旗も王都内で目立たせたくありません。葬儀そのものが継承問題の舞台に化けるのを避けたいのです」
「ならば儀仗兵を断ればよい」
と西方の一将軍が言った。
「門を閉じれば済む話だ」
ルサント書記官は、そこで苦い顔をした。
「閉じれば、ベルヴァーニュは“正統なる弔意への侮辱”と書くでしょう。開けば、こちらは“影響下に入った”と書かれる」
「つまり、門を閉じても開いても新聞が勝つわけだ」
メルテンス中佐が低く言った。
議論はしばらくその場で足踏みした。
儀礼と警備。
弔意と駐兵。
査閲と威圧。
またしても、複数の意味が一つの語へ押し込まれようとしている。
ハルトゥング少佐は、しばらく黙って資料を読んでいたが、やがて口を開いた。
「河谷線の容量から言えば、ベルヴァーニュ使節列車の長大編成をそのまま通すのは非合理です。護衛騎兵車と供奉荷李車を外し、王都入りは最小編成に絞らせるべきでしょう。儀仗兵も半数以下に減じる。そうすればこちらの査閲列車と時間的干渉は抑えられます」
内容としては正しい。
そして正しすぎた。
西方諸邦の将軍は「減じさせる」という語に頷いたが、外務省駐在官とルサント書記官の顔は硬くなった。
ベルヴァーニュがそれを呑めば、彼らは面子を失ったことになる。
呑まなければ、対立だけが表面へ出る。
ヴィルマー中将が、そこでいつものように視線を横へ流した。
「ライフェンベルク大尉。君はどう思う」
クラウスは手元の書類を見た。
ベルヴァーニュ側の希望。
ルサント評議会の要請。
西方演習の査閲時程。
そして河谷線の容量表。
内容そのものは、すでに少佐が言った通りである。
長すぎるのだ。多すぎるのだ。見せたいものが。
問題は、それをどういう名で減らすかだった。
「……一つの列車として入れようとなさるから、難しいのでしょう」
クラウスは静かに言った。
誰も口を挟まない。
彼は続けた。
「ベルヴァーニュの弔問使節を、王都入りする“弔意列車”と、国境止まりの“儀礼随伴列車”に分けるのです。
王都へ入るのは、使節団本体と最低限の儀仗だけ。
護衛騎兵と供奉車は、ルサント評議会の要請に基づき、国境駅で待機する“随伴儀礼部”とする。
つまり、拒絶ではなく、役割の分離です」
外務省駐在官が、すぐにその意味を取った。
「王都入りを禁じるのではなく、王都内で必要な部分だけを本体と認める、と」
「はい」
クラウスは言った。
「ベルヴァーニュ側の公報では、“弔問使節、ルサント王都に入る”と書ける。
ルサント評議会側の公報では、“外国武装部隊の王都常駐を認めず”と書ける。
西方諸邦に対しては、“儀礼随伴列車は国境駅待機”と説明できる。
……同じ顔をしたまま、別の場所へ置いておくのです」
会議室の空気が、そこで少し動いた。
ハルトゥング少佐は、すぐに河谷線の図面へ目を落とした。
「本体を七両以下に切れば、王都側北留置線へ収まります。随伴儀礼部を国境駅ヴァルモンで切り離せば、査閲列車との干渉もかなり減る」
書記官の顔にも、初めて安堵らしいものが浮かんだ。
「それなら、評議会としては“王都内の秩序維持”の名目で受け入れやすい」
外務省駐在官は、すでに文面を考えている顔になっていた。
「“王都の安寧を損なわぬため、各国使節の王都入りは本体に限る”……まあ、単に減らせと書くよりはマシでしょう」
西方諸邦の将軍も、不満を完全には消していないにせよ、反対する理由は減ったようだった。
武装護衛が王都へ入らぬなら、少なくとも見出しは少し穏やかになる。
ヴァルテンベルク上級大将が、椅子の背に体を預けて言った。
「よし。ベルヴァーニュ使節列車を、“弔意列車”と“儀礼随伴列車”に分ける。
王都入りは本体のみ。
随伴儀礼部はヴァルモン待機。
こちらの査閲列車についても、王都近傍では軍事色を減ずる。
演習と弔問を、一つの景色に混ぜすぎぬように」
決まってしまえば、あとは事務だった。
本体編成の上限。
切り離し駅。
王都入り可能な儀仗人数。
国境駅待機中の補給負担をどちらが持つか。
◆
会議後、総監府の廊下で、ハルトゥング少佐はクラウスに言った。
「私は“減らせ”と言った。あなたは“分けろ”と言った」
「だいたいそうですね」
少佐は小さく息を吐いた。
「いつか本当に腹が立たなくなる日が来るのか、自分でも分かりません」
クラウスは少し考えた。
「僕は、少佐殿が最初に“減らせ”と言ってくださらないと、何を分けるか分かりません」
それは慰めではなく、たぶん事実だった。
少佐はそこで、ほんの少しだけ笑った。
苦いが、前よりは柔らかい笑いだった。
◆
その日の夕方、ベルヴァーニュ側へ送る非公式打診文が起草され、ルサント評議会用の説明文が別に作られ、西方諸邦軍向けにはさらに別の通達案が回された。
同じ事態。
だが三枚の紙。
クラウスはもう、その分裂を当然のこととして処理していた。
春には場が止まってから裂いていたものを、いまは最初から裂け目ごと設計していた。
夜、シュタインフェルトの宿舎で、クラウスは窓の外を見ていた。
駅の方角にはまだ灯があり、側線では貨車の連結音が乾いて響く。
西は、やはり演習だけの場所ではなくなりつつあった。
まだ発砲はない。
だが、誰がどの列車でどこまで入るかという話を、皆がこれほど真面目にしている時点で、平和もまたかなり紙の薄いものになっている。
机の上には、三つの書類束があった。
ベルヴァーニュ向け。
ルサント向け。
西方諸邦向け。
彼はそれを見て、ふと祖父の手紙の一文を思い出した。
立派に見えぬよう努めても、見たい者は勝手に見る。
まったくその通りだった。
だが今のところ、自分にできるのはせいぜい、見たい者ごとに紙を分けてやることくらいである。
それで少しでも列車が詰まらず、人が怒鳴らず、国境が一日長く静かなら、それで十分だと彼は思っていた。
もちろん、世界はそういう慎ましい願いだけでは済まない。
翌朝には、ベルヴァーニュ側から最初の返答が届く。
そしてその返答は、弔意より少しだけ多くの意味を積んでいるだろう。




