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第十一話 総覧日の王女殿下

夏季統合動員演習の総覧日、クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉は、朝からすでに疲れていた。


まだ何も起きていないのに疲れている。

その言い方が、たぶん一番正しい。


総覧日というのはだいたいそういう日だ。演習そのものより、誰がどこに立つか、誰にどこで敬礼するか、誰をどの高さから見下ろすことになるか、そういう人間の上下関係が、朝から煮立っている。

砲声より先に席順が鳴る。

軍隊とは、そういう妙なところがある。


王都郊外の閲兵場には、各邦軍の旗が風に鳴り、砲列は朝日に金具を光らせ、騎兵の馬具はやけに丁寧に磨かれていた。兵たちは暑く、将軍たちは重く、書記官たちは早足だった。


そしてクラウスは、自分が今日やるはずではなかった仕事を押し付けられようとしていた。





事の起こりは昨夜だった。


ルサント王国からの親善使節は、当初は王の名代である宮内卿だけが来る予定だった。

だが昨夜遅く、急な変更が入った。現王の一人娘、エレオノーラ第一王女殿下が親臨されるというのである。


これだけならまだよい。

問題は、彼女がただの王女ではないことだった。


ルサント王国は、小さい国だ。


地図の上では、ノルトマルク連邦とベルヴァーニュ第二帝政に挟まれた細い帯にすぎない。人口は少なく、軍はほとんど儀礼用で、産業は河沿いの鍛冶と葡萄畑くらい。

大国の間に残った、古い王家の、古い小国。


だが、小さいことと、どうでもいいことは違う。


ルサントの河谷を通る鉄路は、ノルトマルクの西部軍が展開する際の幹線になりうる。

同時に、ベルヴァーニュが東へ圧力をかける際にも、その鉄路を使いたがる。

つまりルサントという国の価値は、国そのものよりも、その場所自体にある。


そしてその線路の通過権は、王家との条約で決まっている。

王が変われば、条約も変わりうる。


だから継承問題は、宮廷の揉め事ではなく、鉄路局の問題でもある。

さらに問題は、そのルサントの第一王女が、ただの王女ではないことだった。


ルサントの継承法では、女子に王位継承権がない。

だが男系の継承者は弱く、傍系ばかりだ。

現王の子で生きているのは唯一エレオノーラだけなのである。

しかもベルヴァーニュはエレオノーラ殿下の母がベルヴァーニュ皇族の傍流出身であることを理由に「王女殿下を軸にした摂政体制」だの「近親国としての保護」だのと、いかにも上品で図々しい理屈を用意している。


つまり彼女はまだ何も継いでいないのに、すでに政治の顔になっている。


そしてその政治的に厄介な王女殿下を、閲兵場で誰がエスコートするかという問題が今朝になって突然降ってきた。


外務省は「我々の管轄ではない、軍の行事だ」と逃げ、

儀典係は「格式の判断が済んでいない」と逃げ、

西方の将軍は「自邦の部隊を見るのに忙しい」と逃げた。


要するに、誰もやりたくない。


王女殿下の扱いを間違えれば、ベルヴァーニュとの関係にもルサントの継承問題にも影響が出る。

正しく扱っても褒められないが、間違えれば怒られる。

典型的な「損しかない仕事」だった。


そして損しかない仕事は、たいてい若くて断れない人間に回ってくる。


「ライフェンベルク大尉」

とヴィルマー中将がそう言った時、クラウスの嫌な予感は確信に変わった。


「君、今日の王女殿下のお相手を頼む」


「……私ですか」


「君しかおらん。家名がある。若すぎず、だが老人ほど重くもない。王族の前に出しても恥ずかしくない程度には育ちがよい」


それは褒め言葉なのだろうか。

「恥ずかしくない程度」というのは、かなり微妙な評価に聞こえる。


「それに」


とヴィルマー中将は続けた。


「君は人を怒らせない。今日のような日に、それは非常に大事だ」


またそれか。

「人を怒らせない」が褒め言葉として使われるのは、もう何度目か分からない。


「何をすればよいのでしょう」


「到着時の出迎え、観閲塔への案内、閲兵中の説明、散会後のお見送り。つまり、今日一日お側にいて、失礼がないようにするだけだ」


だけ。

「だけ」と言われる仕事ほど、面倒なものはない。


「他に適任の方は」


「外務官は格式が決まらないと動けんと言うし、将官を出せばそれ自体が政治的意味を持つ。君なら大尉だ。低すぎず高すぎない。しかもライフェンベルク家だから、向こうも軽く扱われたとは思わない。実に都合がいい」


都合がいい。

自分の存在意義が「都合がいい」に要約された。


「承知しました」


断れるわけがなかった。





正午近く、ルサント王国の車列が到着した。


王家の紋章をつけた四輪馬車が、土煙を抑えるようゆっくり閲兵場へ入る。護衛は最小限で、儀礼のためにだけ磨かれた銀具が陽に光っていた。


クラウスは出迎え位置に立った。制服を正し、手袋を直し、敬礼の角度を確認する。

こういう作法だけは、家名のおかげで叩き込まれている。

ライフェンベルク家に生まれてよかったと思う瞬間は少ないが、敬礼の角度だけは感謝している。


馬車の扉が開いた。


エレオノーラ王女が降りてきた。


若かった。

思っていたより、ずっと。


自分と同年代か、少し下か。

喪でも祝でもない銀灰色のドレスに、肘までの黒手袋。

首元にだけルサント王家の色が細く入っている。派手ではない。だが、目を引く人だった。


そして――少し疲れていそうだった。


王女を見て最初にそれを思うのはどうかとも思ったが、本当にそう見えたのだから仕方がない。

目元に、寝不足とは違う張りがある。

ずっと人前に立っている人間の顔だ。


「エレオノーラ殿下。ノルトマルク連邦統帥府、ライフェンベルク大尉でございます。本日のご案内を仰せつかりました」


定型句だ。

定型句はありがたい。何も考えなくていい。


エレオノーラは軽く頷いた。


「ライフェンベルク。存じております。本日はよろしくお願いいたしますね」

家名を知っている、という意味だろう。

統帥府創設に関わった家だ。ルサントの宮廷でも名前くらいは通っている。


「お気遣いいただき、光栄です」


「いいえ。こちらこそ、急な変更でご迷惑をおかけしました」

声は静かで、よく通った。

そして礼儀正しさの奥に、こちらを測っている気配があった。


王族というのは、初対面の人間を値踏みする訓練でも受けているのだろうか。

それとも、この人が個人的にそういう性質なのか。


どちらにしても、少し緊張する。

この人の前でうっかり変なことを言うと、面倒なことになりそうだ。


いつも以上に黙っていよう。

そう思った。





閲兵そのものは滞りなく進んだ。


各邦軍の縦列が通り、騎兵が槍旗を揺らし、砲兵が車輪をきしませた。

エレオノーラ王女は王族観礼席に静かに座ってそれを見ていた。

感嘆もしないし、退屈そうでもない。


クラウスは横で控えていた。


閲兵の進行についていくつか説明を求められたが、どれも形式的な質問だった。


「あの旗は何邦ですか」

「砲兵は何門ですか」


答えるのは簡単だ。

暗記は得意である。


だが一つだけ、形式的ではない質問が来た。


「ライフェンベルク大尉」


「はい」


「あの行軍序列は、今年新しく組まれたものですか」


クラウスは少し驚いた。

行軍序列の変更に気づく人間は、軍人以外ではあまりいない。


「はい。春の西部合同演習の結果を受けて、一部調整しました」


「調整というのは、揉めた末に妥協した、という意味でしょうか」


……鋭い。


「おおむね、そういうことです」


エレオノーラはそこで少しだけ笑った。


「どこの国も同じなのですね」


それだけだった。

それ以上は踏み込まなかった。

だが「行軍序列が政治の産物である」ことを、この人は理解している。閲兵の見た目ではなく、その裏にある調整の痕跡を読んでいる。


軍事の専門家ではない。

だが、儀礼と政治が交差する場所を読む目は持っている。

それは、かなり厄介な知性だ。





閲兵が終わり、各国使節への儀礼的な挨拶が一巡した。


クラウスはエレオノーラ殿下を馬車まで見送る任務が残っていた。観閲塔から降り、控えの通路を歩く。侍女が少し離れてついてくる。


「大尉」


とエレオノーラが、歩きながら言った。


「はい」


「今日は退屈させず、かといって過度に気を遣いすぎもしない、ちょうどよいご案内でした」


それは褒め言葉なのだろう。

たぶん。


「恐縮です」


「その言葉、今日は何度も聞いたわ。あなたは、よく恐縮なさるのね」


少し、笑いが混じっていた。

やはり観察する目だ。


「癖です。気に障ったようでしたら改めます」


「いいえ。面白かったわ。…あなたは今日、必要なこと以外、ほとんど何も仰らなかった」


「……はい」


「それは、私に対して何を言うべきか分からなかったから? それとも、何か言うと面倒になるからお黙りだったの?」


クラウスは一瞬だけ返事を失った。


この人は、沈黙の理由を二つに分けて訊いてきた。

しかもどちらも正確だ。


「……後者です。たぶん」


正直に答えた。

正直に答えた方が、この人の前では安全だという直感があった。


エレオノーラは少しだけ肩の力を抜いた。


「ええ。そういう人を、私は信用できます」


そして馬車の前で立ち止まり、振り返った。


「皆さまは、私に何かを仰ろうとなさいます。支持とか、保護とか。でもあなたは、何も仰らなかった。それが今日、一番ありがたいことでした」


それは、かなり率直な言葉だった。


王女としてではなく、一人の人間として、「何も言わないでくれてありがとう」と言っている。

この人は、言葉を向けられることに疲れているのだ。

全員が「保護」や「支持」という名の何かを差し出してくる。

その全部が、少しずつ彼女の立場を利用しようとしている。

黙っていてくれる人間が、むしろ珍しいのだろう。


……自分は、ただ面倒だから黙っていただけなのだが。

ある意味相性がいいのかもしれない。


「では」


と彼女は言った。


「また何かの折に。ライフェンベルク大尉」


侍女に導かれ、馬車に乗り込んでいった。

最後に一度だけこちらを見た。

値踏みが終わった人間の目だった。


合格したのか不合格なのかは分からない。

だが少なくとも、「使えない」とは判定されていない。

それだけは分かった。


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