第42話 音を吸う階
4階は、入口からもう違った。
断層喰いを越え、偏軸鉱蛇を落とし、灰石坑道の3階までを通したあと。
結人はようやく、その先へ足を入れる。
岩の匂いが、途中から薄くなる。
代わりに、湿った土と、切ったばかりの木の皮みたいな青い匂いが混じり始める。
足を止める前に、まずそれが違った。
灰石坑道では、壁が近く、音が返り、線が多かった。
4階の入口は、逆だ。
暗い。
だが狭くはない。
広いのに、見通しが悪い。
天井の岩肌を突き破るように白い根が何本も垂れ、黒い幹みたいな柱が乱立している。
床は石ではなく、湿った繊維の層だった。
落ち葉ではない。
木の皮でもない。
根がほどけたものと腐葉土が混ざったような、踏むと少し沈む床だ。
そして、何より。
音が返らない。
結人はそこで、入口から少し入っただけで足を止めた。
岩の階層では、足音が壁に当たって返ってきた。
ここは違う。
靴底が繊維層に沈み、そのまま吸われる。
呼吸も、服の擦れる音も、少し先で消える。
静かというより、音が生き残らない感じだった。
端末を固定し、配信を始める。
「天城結人です。今日は4階に入ります。灰石坑道の先です。かなり別の場所です」
同接は13。
昨日より少しだけ落ちている。
でも、それは結人にとって悪いことではなかった。
今日はまず、持ち帰る日だ。
コメント欄が流れる。
炭酸:きた
通り雨:雰囲気違うな
澪:お願いします
迷子の斥候:森?
凪:前の見方を持ち込みすぎるな
結人は、その最後の1行に小さく頷いた。
「はい。今日はそこです。前の階の見方がどこで通らなくなるかも見ます」
⸻
政府ギルド前の売店で買った物は、いつも通りだった。
水。
回復薬2本。
保存食。
塩飴。
ゼリー。
だが今日は、それを鞄へ入れる手つきまで少し違う。
3階までの手順がひと区切りついたからか、気持ちが少しだけ軽い。
そのかわり、まったく別の場所へ入る前の慎重さがあった。
窓口の相良環は、結人が4階へ行くと告げた時、少しだけ目を上げて言った。
「4階は、音の報告が変わります」
「変わる」
「はい。
返るのではなく、消える。
そういう報告が多いです」
結人はその言葉を頭に置いたまま、入口へ向かった。
⸻
坂城迅、真壁遼真、三枝透は、今日も同じ時間に揃っていた。
ただ、3人とも入口の奥を見たまま、いつもより少しだけ口数が少なかった。
坂城が最初に言う。
「別の場所だな」
「はい」
真壁が繊維層の床を一度だけ踏んで、低く続ける。
「踏み込みが死ぬ」
三枝は前を見たまま、小さく言った。
「音も死ぬ」
かなり短かった。
でも、それで十分だった。
結人は頷く。
「3階までみたいに、線と反響で取る階じゃなさそうです。
今日はまず、何が消えるかを見たいです」
坂城が即答する。
「見る場所が変わるな」
真壁も頷く。
「押し返しと足場の感触が大事になるかもしれん」
三枝が続ける。
「揺れ。沈み。葉擦れ。
音が返らないなら、その代わりを拾うしかない」
かなり良い。
かなり話が早い。
今日は、後ろにつく探索者は2人だけだった。
3階後半より明らかに少ない。
それも自然だった。
4階はまだ、何を覚える場所かが誰にも分かっていない。
⸻
入口を越えた瞬間、空気が変わる。
湿っている。
重いわけではない。
だが、皮膚に薄く貼りつく感じがある。
黒い幹は、木のようで木ではない。
岩の天井から生えた巨大な根が、途中で太くなって幹に見えているだけかもしれない。
表面はざらついていて、剥がれた皮の下に白い筋が走っている。
ところどころに薄い青緑の苔があり、暗いのに完全には見失わない。
床はもっと厄介だった。
見た目はただの湿った繊維層だ。
だが、踏むと少し沈んで、戻りが遅い。
石床みたいに踏み返してくれない。
だから、思ったより次の一歩が重い。
結人はその場で、配信へ向けて短く言った。
「4階は、音が返りません。
床も少し沈みます。
3階までみたいに、見えている線に足を置く感じではないです」
コメント欄が流れる。
炭酸:かなり違うな
通り雨:もう別ダンジョンじゃん
澪:大きく変わりましたね
迷子の斥候:線じゃなくて沈みか
凪:見えるものより、消えるものを見ろ
その言い方は、かなり近かった。
見えるものより、消えるもの。
4階は、たぶんそういう場所だ。
⸻
最初に出たのは、音ではなく揺れだった。
前方の黒い幹の根元、白い根が床へ潜っている場所が、ほんの少しだけ横へ流れた。
音はない。
葉擦れもほとんどない。
ただ、繊維層の表面が一瞬だけ波打った。
結人の背中が少し冷える。
「……来ます」
その声の直後、根元の影から灰黒い獣が滑り出した。
根這い犬。
犬に似ている。
だが、脚が長くない。
胴が低い。
肩から背中にかけて、白い根みたいな筋が何本も浮いている。
毛ではなく、湿った繊維をまとっているように見える。
目は小さく、口は横に裂け、歯が細い。
実用的に言えば、
足音ではなく、床の沈みと繊維の流れで来る位置を読む相手だ。
走る音がない。
だから、見てからでは少し遅い。
前にいた探索者が、一拍遅れて槍を上げる。
坂城が低く言う。
「音じゃない、床だ!」
結人も同時に言った。
「白い筋じゃなく、沈んだ場所です!」
根這い犬が、白い背筋を見せながら右へ流れる。
だが、本当に通るのはその少し手前、床が重く沈んだ方だった。
真壁が肩を引き、坂城の剣が沈んだ場所へ斜めに入る。
根這い犬が軌道を変え、黒い幹の裏へ逃げる。
かなり浅い。
だが、今の1回で十分大きい。
3階の下なら、線を見る。
4階は違う。
足元の沈みを見る。
結人は配信へ向けて短く整理した。
「今のかなり大きいです。
4階は音より床です。
見える白い筋より、沈んだ方が本当に通ります」
コメント欄が流れる。
炭酸:うわ嫌だ
通り雨:4階の教材きたな
澪:かなり重要です
迷子の斥候:沈みで取るのか
凪:前の階と逆だ
かなりその通りだった。
3階は減らして見る階だった。
4階は、消えた音の代わりに沈みを拾う階かもしれない。
⸻
少し進んだところで、今度は上から来た。
頭上の白い根の束が、風もないのにわずかに揺れる。
だが音はない。
葉擦れのような軽い擦れも、すぐに吸われて消える。
三枝が最初に目を上げた。
「上」
その直後、黒い幹の表面から何かが剥がれた。
幹皮猿。
猿に似ている。
だが腕が長すぎる。
指も異様に細く長い。
体毛はなく、黒い幹皮そのものを貼りつけたみたいな皮膚をしている。
腹だけが白く、そこが根の影とよく似た色になる。
じっと張りついていると、本当に幹の剥がれ目にしか見えない。
実用的に言えば、
見える姿ではなく、幹の揺れと剥がれ方で来る角度を読む相手だ。
4階の遮蔽と音の吸われ方を、そのまま使ってくる。
幹皮猿が落ちる。
前の探索者が、見えてから槍を上げる。
だが落下が速い。
結人が短く言う。
「本体じゃなく、揺れた根元です!」
坂城がすぐに角度を変える。
真壁が盾を上げる。
幹皮猿の爪が盾を擦り、そのまま横へ流れて黒い幹の裏へ消える。
今もまた、かなり浅かった。
でも、何を見るべきかははっきりした。
4階は、見えた本体を追うと遅い。
揺れが始まった場所を見る方が早い。
配信へ向けて結人は短く言う。
「4階は、見えてからだと少し遅いです。
根や幹がどこから揺れたかを先に見た方がいいです」
コメント欄が流れる。
炭酸:なるほど
通り雨:揺れの始点か
澪:かなり良いです
迷子の斥候:4階は隠れ方が嫌だな
凪:見えた本体は遅い
そうだ。
4階は、見えた本体を信じすぎると遅れる。
⸻
そこから先、結人たちは4階で少しずつ経験を積んだ。
根這い犬は、白い筋を見せながら床の沈んだ方を通る。
3階の名残で線を見たくなる。
でも、それでは少し遅い。
幹皮猿は、姿そのものより、張りついていた幹の皮がどう剥がれたかを見た方が早い。
見えてからだと、もう下りてきている。
それはかなり4階らしかった。
3階までで強かった「最後まで追わない」は、ここでも少し通る。
だが、それだけでは足りない。
4階はそもそも、何かを最後まで見る前に、先に消えるものが多い。
だから必要なのは、
•音が消えた場所
•揺れが始まった場所
•床が重く沈んだ場所
そういう「本体ではないけれど、本体に近いもの」だった。
1度、根這い犬が2匹同時に来た。
白い背筋は左右へ散る。
だが、床の沈みは真ん中寄りに重なる。
結人はそこでかなりはっきり言った。
「白い筋じゃないです! 重く沈んだ方!」
前の探索者の目が、ようやく床へ落ちる。
坂城がその沈みに剣を入れる。
2匹の根這い犬が軌道を変え、黒い幹の裏へ逃げる。
かなり良かった。
かなり、4階の見方として残り始めている。
真壁が低く言う。
「音も線も、かなり信用しにくいな」
三枝も続ける。
「4階は揺れと沈みだ」
結人はその言い方がかなり近いと思った。
⸻
今日は深追いしなかった。
4階に入ったばかりで、まだ「何が完成形か」は見えない。
だが、何を学ぶ階かはかなり見えた。
根這い犬。
幹皮猿。
どちらも、4階の環境そのものを使ってくる。
結人は配信へ向けて短く整理する。
「今日は4階の入口でかなり見えました」
少し呼吸を置く。
「ここは、音が返りません。
床が沈みます。
見えた本体より、揺れや沈みの始まった場所の方が大事です」
コメント欄が流れる。
炭酸:めっちゃ変わったな
通り雨:ちゃんと別の階だ
澪:かなり大きいです
迷子の斥候:4階の学ぶこと分かってきた
凪:今日はそれでいい
そうだ。
今日はそれでいい。
⸻
政府ギルドへ戻ると、換金列にはまだ4階の話はほとんどない。
それでも、2人ほどが「上、森みたいらしいぞ」と小さく話していた。
相良環の窓口で袋を渡す。
今日は量は少ない。
根這い犬の根骨片。
幹皮猿の皮片。
どちらも高くはない。
だが、新しい階の匂いがちゃんとついている素材だった。
相良は根骨片を見て言った。
「新しいですね」
「はい。4階の下の敵です」
「どういう嫌さでしたか」
結人は短く答える。
「音が返らないので、床の沈みと揺れの始まりを見る感じです」
相良の手が少しだけ止まる。
「……3階までとかなり違いますね」
「はい。
見えているものを減らすというより、見えない代わりに何を拾うかの階です」
相良はすぐに打ち込む。
「かなり大きいです」
その一言は、4階の入口としてかなり重かった。
「窓口でも次には揃うかもしれません」
「はい」
結人も頷く。
「その前に、もう少し4階で見ます」
相良は小さく頷いた。
「その方がいいと思います。
4階は、3階の延長だと思うとかなり危なそうなので」
かなりその通りだった。
⸻
帰り道、結人は普通の弁当と、小さいヨーグルト、それから薄いタオルを1枚買った。
4階は湿気が高い。
首元や手が前より湿る。
そういう小さい違いが、買う物にも少しずつ出始めていた。
部屋へ戻る。
机の上に弁当、ヨーグルト、タオル、換金票、ノートを並べる。
前より、探索と生活の境目が少しずつなくなってきている。
ノートを開く。
•4階
•音が返らない
•床が沈む
•揺れが始まる
•根這い犬
•白い筋より沈み
•幹皮猿
•姿より剥がれた根元
•見えた本体は少し遅い
そこまで書いて、少しだけ止まる。
それから、最後に1行だけ足した。
•4階は、消えた音の代わりに揺れと沈みを読む階
書いてから、結人はしばらくその文字を見ていた。
今日はかなり大きかった。
偏軸鉱蛇を落としたあと、ちゃんと次の階が別物だと分かる日だった。
そして、別物だからこそ、また下から覚え直す必要があるとも分かった。
端末を見る。
コメント欄にも同じ熱が流れている。
4階めっちゃ雰囲気変わってていい
音が消えるの嫌すぎる
次は4階の中位とか見えてきそう
結人は、その最後の一言で少しだけ目を細めた。
そうだ。
次は、4階の下の敵をもう少し通していく。
結人は端末を閉じる。
灰石坑道は終わった。
だから次は、地下樹林の見方を作る。
今日はその、最初の日だった。




