第18話 壁を信用しない
レベル2になったからといって、断層喰いが勝手に弱くなるわけではない。
そのことは、結人にもよく分かっていた。
昨日休んだことで、体は軽い。
頭も前より静かだ。
手袋の内布を替えたせいか、短槍の柄も少しだけ滑りにくい。
そういう小さい変化はある。
でも、3階層手前の壁が口になる嫌さは変わらない。
だから今日やることは1つだった。
前半の型を持ったまま、断層喰いに噛まれない並びを作る。
朝、机の上のノートを開く。
昨日のページの次に、結人は短く書いた。
•断層喰い
•逃げ場に見える線を食う
•前半の型は必要
•でも、壁を信用しない並びが要る
そこまで書いて、ペンを置く。
今日は長く考えない。
現場で確かめる。
それでいい。
⸻
政府ギルド前の空気は、昨日より少しだけ軽かった。
休んだからか。
測って数字を見たからか。
それとも、今日やることが前よりはっきりしているからか。
結人は売店で回復薬を2本と、予備の包帯を1つ買った。
会計の時、店員が何も言わずに少し良い方の包帯を差し出す。
「こっち、最近のあんたなら使うだろ」
結人は一瞬だけ目を上げた。
「……分かりますか」
「前より、安さだけで選ばなくなった顔してる」
店員はそれだけ言って会計を打つ。
結人は少しだけ迷ったが、その包帯をそのまま買った。
前なら、こういう一言で余計に安い方へ戻していたかもしれない。
今は戻さない。
それだけで、朝の気分が少し違った。
窓口の相良環に会うと、彼女は端末を整えながら言った。
「今日は行く顔ですね」
「はい」
「3階層手前」
「はい」
相良は短く頷いた。
「昨日の休み、顔色は良くなってます。
その方がいいです。断層喰いは、疲れている時ほど“そこなら逃げていい”と思わせるので」
結人はそこで少しだけ目を上げる。
「窓口でも、そういう報告が」
「あります」
相良は淡々と続ける。
「焦った人ほど壁際へ寄る。
寄った先が開く。
昨日まででそこはかなり揃いました」
結人は、小さく息を吐いた。
窓口でももう、断層喰いの嫌さは同じ形で集まり始めている。
それはかなり大きい。
「ありがとうございます」
「いってらっしゃい」
その一言が、前より少しだけ自然に聞こえた。
⸻
灰石坑道の入口前には、坂城迅、真壁遼真、三枝透がすでに揃っていた。
坂城は片手剣の柄に手を乗せたまま、人の流れではなく立ち位置を見ている。
真壁は大盾の位置を確認し、三枝は人の視線の流れを追っていた。
結人が近づくと、坂城が短く言う。
「今日は3階だけだ」
「はい」
真壁が続ける。
「前半で消耗しない。そこはもう流す」
三枝も小さく言う。
「断層喰いだけ見る」
かなり良い。
かなり早い。
結人は頷いた。
「前半の型で止めるのは今まで通りです。
でも3階手前では、壁際へ逃げないことを先に共有したいです」
坂城が即答する。
「中央寄りで持つ」
真壁も頷く。
「壁を背にして安心しない」
三枝が補う。
「線が死んだのを見てから動く」
そこで結人ははっきり思った。
今日は前よりかなりいける。
入口前で、見知らぬ探索者がこちらへ寄ってくる。
昨日、結人に話しかけた男だった。
今日は1人ではなく、後ろに2人いる。
「今日、俺たちも3階手前まで行きます」
結人は頷く。
「短く言うなら、前半は今まで通りです。
3階手前だけ、壁を信用しないでください」
男はすぐに繰り返した。
「壁を信用しない」
後ろの1人が言う。
「前半は終わった入りと向き戻し。
3階は壁が口になる」
かなり良かった。
かなり通っている。
坂城が低く言う。
「それでいい。今日はそこだけ持て」
それだけで、全員の空気が少し締まった。
⸻
1階層は本当に速かった。
灰鼠。
鉱屑トカゲ。
必要な声だけが飛ぶ。
「終わった入りするな」
「向くな」
それで止まる。
もう、結人が毎回言う必要はない。
2階層手前も同じだった。
荷喰い虫。
岩層猪。
前半の核で十分に浅く止まる。
「向き戻しするな」
「手戻しするな」
「足戻しするな」
言葉は短く、場は速い。
ここはもう、攻略の前提になり始めている。
その流れのまま、3階層手前へ入る。
空気が変わる。
人が減る。
壁が近い。
継ぎ目が多い。
退避できそうな凹みや陰が、逆に全部怪しく見える。
結人はそこで、前回より少しだけ冷静だった。
レベル2になったからではない。
休んで、整えて、自分が何を見るべきかが前よりはっきりしているからだ。
前方で、断層喰いが開く。
岩壁に走る斜めの線。
その線がそのまま顎になる。
前の探索者が反射で壁際へ逃げようとする。
「壁行くな!」
結人の声で、男の足が止まる。
そのすぐ横の窪みが裂ける。
口になる。
空振る。
前回と同じ。
だが、今日は前回より一歩早く止められた。
坂城が前へ出る。
「中央寄り維持! 壁、見えてても寄るな!」
真壁が大盾を少しだけ前へ出し、中央の細い安全帯を持たせる。
「下がるならこっちだ。横へ逃げるな!」
三枝は壁の線から目を切らずに言う。
「左の線、まだ死んでない。そこ開く」
かなり速い。
かなり良い。
結人はその流れを見ながら、前回との差をはっきり感じていた。
前回は、断層喰いが何を食うかを見た。
今日は、何を信用しないかが共有されている。
それだけで、生存線が1本太くなる。
前方の探索者が短く息を吐く。
「中央寄り、か」
「はい」
結人が答える。
「ここは壁が安全じゃないです。
一度中央寄りで持って、線が死んだのを見てから動いた方がいいです」
真壁が続ける。
「逃げ場を探すより、逃げ場じゃない場所を切った方が早い」
その言い方はかなり良かった。
断層喰いに対して必要なのは、まさにそれだった。
⸻
少し位置をずらしながら進む。
断層喰いは、前回より数が多く感じた。
だが実際にはそうではないのかもしれない。
ただ、今日は全員が「壁に線がある」という事実を前より気にしているせいで、全部が開きそうに見えるのだ。
それでも、進み方は前回より明らかにいい。
前で岩層猪が1体出る。
終わった入りは出ない。
向き戻しも止まる。
足戻しも坂城が止める。
そこからの断層喰いだ。
前の探索者が、猪の突進を避けたあと反射で右壁へ寄りそうになる。
だが、今日はその前に後ろの別の探索者が言った。
「壁行くな!」
男の足が止まる。
その瞬間、右壁の裂け目が遅れて開く。
空振る。
今の声は結人でも坂城でも真壁でも三枝でもなかった。
さっき入口前で話した、見知らぬ探索者のものだった。
結人の胸に静かな熱が入る。
もう、持っていかれている。
「今の助かった」
前の探索者が荒く息を吐く。
声を出した男も、少しだけ顔をこわばらせながら頷いた。
「壁が口になるって言われてたから」
それだけで十分だった。
コメント欄も流れる。
炭酸:でかい
通り雨:もう共有されてる
澪:かなり大きいです
迷子の斥候:前半の核が次の壁でも効いてるな
そうだ。
前半の核は、断層喰いを直接倒すためのものではない。
でも、そこへ辿り着くための土台にはなっている。
それがかなり大きい。
⸻
断層喰い本体をしっかり見る機会が、ようやく来た。
壁の裂け目が大きく開き、岩そのものが噛みつくように前へ出る。
ただの口ではない。
岩盤の厚みごと動く。
顎というより、断層がそのまま食ってくる感じだ。
坂城が前へ出かける。
だが結人はそこで短く言った。
「深追いしないでください。まだ線が読めてないです」
坂城は即座に止まる。
それがかなりありがたかった。
この4人は、無理に格好をつけない。
見えていないものへは、ちゃんと止まる。
三枝が細い声で言う。
「口の前じゃなくて、開く前の線を見た方がいい」
真壁も低く続ける。
「噛んだ後の止まり方もあるな」
結人はその2つをすぐにノートへは書かなかった。
今はまだ、頭の中だけで並べる。
開く前の線。
噛んだ後の止まり方。
多分、これが攻略の入口だ。
今日はそこまでだった。
深く入って倒す日ではない。
でも、次に踏み込むための形は見え始めている。
結人はそこで短く言った。
「今日は引きます」
誰も異論を言わない。
その早さが、今日は何より良かった。
⸻
政府ギルドへ戻る道は、前回より少しだけ軽かった。
断層喰いはまだ倒していない。
換金額も大したことはない。
それでも、今日は明らかに前へ進んでいる。
換金列で、さっきの見知らぬ探索者が結人に軽く頭を下げた。
「壁行くな、助かりました」
「いえ」
「今日、初めて3階手前で戻って来られた気がします」
その一言は、かなり大きかった。
ただ助かった、ではなく。
初めて3階手前から戻って来られた。
つまり、今までそこは「届いても帰れない場所」だったのだ。
相良環の窓口で袋を渡す。
今日は量は少なめ。
だが、相良は査定票を送る前に先に言った。
「今日は前より顔色がいいですね」
結人は少しだけ苦笑する。
「休んだからかもしれません」
「それもあります」
相良は端末を見ながら続ける。
「でも、3階層手前の帰還者の報告で、今日初めて
『壁へ寄らないようにしたら戻れた』
という内容が入りました」
かなり静かな一言だった。
でも、重かった。
「戻れた」
結人は小さく復唱する。
「はい」
相良は頷く。
「突破ではありません。
でも、壁として見えて、帰還の仕方が変わった。
それはかなり大きいです」
その言い方が、今の結人にはぴったりだった。
突破ではない。
でも、壁として見えた。
そして戻り方が変わった。
十分前進だ。
「……次で行ける気がします」
結人がそう言うと、相良は短く頷いた。
「その感じなら、いいと思います」
⸻
帰り道、結人は今日は迷わず買い物をした。
安い弁当。
少し高い保存食。
それから、小さい栄養ゼリーを2つ。
3階層手前まで行く日は、すぐ食べられるものがある方がいい。
前なら、そこまで考えて買っていなかった。
今は、次の壁を越えるために何を揃えるかで物を選んでいる。
部屋へ戻る。
机の上に弁当、保存食、ゼリー、換金票、ノートを並べる。
前より、明らかに「生活」と「攻略」が同じ机の上にある。
結人はノートを開き、今日のことを書いた。
•3階層手前
•壁を信用しない
•中央寄りで持つ
•線が死んでから動く
•断層喰い
•開く前の線
•噛んだ後の止まり方
•前半の核は土台として通る
その下へ、短く1行足す。
•次で断層喰いに入る
書いてから、少しだけ息を吐く。
今回は迷いが少なかった。
たぶん本当に、次でいける。
端末を開くと、今日のアーカイブにはもう反応がついていた。
今日はかなり攻略回だった
壁行くな、もう言葉になってるな
次ボス戦いけそう
結人は、その最後の1行で少しだけ目を止めた。
そうだ。
次は、いく。
今日は見た。
持った。
共有した。
帰れた。
もう、次は壁を壁のまま置いておく日じゃない。
結人は端末を閉じる。
明日はまた潜る。
今度は断層喰いを、最初の壁として越えるために。




