太祖本紀 七
顕徳四(957)年春、趙匡胤は柴栄に従い寿春に遠征して,連珠砦を攻略し、さらに軍を進めて寿州を下した。
そして趙匡胤は都の開封に帰還後、義成軍節度使、検校太保を授かり、依然として殿前都指揮使の職務を担った。
同年冬,趙匡胤は柴栄に従って濠州、泗州に遠征し先鋒となった。
時に南唐軍は十八里灘(濠州城から東北十八里の淮河にある中洲)に砦を築いて立てこもったので、柴栄は即刻ラクダを用いて十八里灘に軍を渡らせることを主張し、それを受け趙匡胤は独り馬を躍らせ流れを横切って淮河を先に渡ったので、趙匡胤配下の騎兵は彼に続き、それによって十八里灘の砦を攻め落とした。
さらに続けて南唐軍から鹵獲し(分捕っ)た戦艦を用い勝ちに乗じて泗州を攻めこれを下した。
そして南唐軍の戦艦は退いて清口に駐屯したので、趙匡胤は柴栄の命令に従い淮河の片側に沿って東に下り、連夜南唐軍を追撃して山陽に至り、南唐の節度使・陳承昭を捕虜として柴栄に献上し、それにより(楚州の南唐軍が受けた打撃に乗じて)楚州を攻め落とした(陳承昭は南唐の濠(州)、泗(州)、楚(州)、海(州)水陸「都応援使」(総支援司令官)のため)
それにより勢いに乗った趙匡胤軍は前進して迎鑾江口で南唐軍を破り、真っ直ぐ長江の南岸に至って南唐軍の陣地を焼き払い,続けて瓜步(現・江蘇省南京市六合区)で南唐軍を破り淮南を平定した。
そこで南唐主の李璟は趙匡胤の名声を恐れ、柴栄に離間(趙匡胤と仲違いをさせる)の計を用いることを決定し、そのため使者を派遣して趙匡胤に書簡を送り、白金三千両を贈ったが、趙匡胤はその白金を全て宮中の倉庫に献納したため、柴栄と趙匡胤に不和は結局生じなかった。
そして顕徳五(958)年、趙匡胤は改めて忠武軍節度使を授与された。
訳者注
※宋代の一里は約562m