40話
翌朝。
私はいつもの時間に、西棟三階へ向かった。
長い廊下を歩く。
見慣れた窓。
見慣れた壁。
見慣れた扉。
その先にある、誰も使わない部屋。
私は扉の前で立ち止まった。
「……今日で最後か」
小さく呟く。
十年間。
毎朝、ここへ来た。
鍵を開ける。
扉を開く。
箒を持つ。
床を掃く。
机を拭く。
窓を確認する。
それが私の毎日だった。
でも、今日で終わる。
私は扉を開けた。
「おはようございます」
誰もいない部屋に、いつものように声をかける。
返事はない。
もちろん、今日もない。
私は道具を置いた。
まず、床から始める。
箒を動かす。
隅に溜まった埃を集める。
古い家具の脚。
壁際。
窓の下。
いつもと同じ場所を、いつもと同じように掃除する。
けれど、今日は少しだけ違った。
私は一つ一つの場所を、いつもより長く見ていた。
ここには、最初の血痕があった。
あそこには足跡があった。
机は何度も動かされた。
床には、見覚えのない傷が増えていた。
そして、紙が落ちていた。
『あの子は、生きている。』
あの一枚の紙から始まった。
私は机に手を置いた。
少しだけ動かす。
床に残っていた跡と位置を合わせる。
「……これでいい」
元の場所に戻った。
次に床を拭く。
最初の頃、何度掃除しても気になっていた場所。
私は布を水で濡らした。
床に膝をつく。
何度も拭いた。
汚れがなくなるまで。
最後に布を離す。
「きれいになった」
もう、何も残っていない。
血痕も。
足跡も。
紙も。
秘密の痕跡も。
私は立ち上がった。
部屋を見渡す。
古い家具がある。
机がある。
埃のない床がある。
それだけだった。
私は窓の前へ歩いた。
十年間、ほとんど開けなかった窓。
鍵に手をかける。
カチリ。
鍵が外れた。
窓を開ける。
冷たい朝の空気が入ってきた。
「……」
私は目を細めた。
風がカーテンを揺らす。
部屋の空気が少しずつ変わっていく。
閉じたままだった場所に、外の空気が入ってくる。
それを見ながら、私は思った。
もう、この部屋に秘密を閉じ込めておく必要はない。
セシリア様は、自分の人生を自分で選んだ。
王家の過去も明らかになった。
隠されていたものは、もう隠されたままではない。
だから。
この部屋も、もう閉じている必要はない。
私は窓をそのままにした。
道具を片付ける。
箒。
布。
バケツ。
いつも使っていたものを、決められた場所へ戻していく。
最後に、部屋の中央に立った。
十年前の私は、ここで何が起きているのか知らなかった。
ただ掃除をしていた。
昨日と違うものに気づいて。
気になったから、確かめた。
それだけだった。
私は苦笑する。
「本当に、それだけだったな」
王女になったわけでもない。
英雄になったわけでもない。
私は掃除婦のままだ。
それでいい。
私は扉へ向かった。
振り返る。
朝の光が、部屋の中に入っている。
昨日までとは違う。
でも、その違いは怖くなかった。
「……明日から、ここには来ないんだな」
少しだけ寂しい。
十年間、毎日いた場所だから。
それでも、後悔はなかった。
私は部屋を出た。
扉を閉めようとして、手を止める。
少し考えて。
手を離した。
扉は開いたままにした。
廊下へ出る。
いつものように、掃除道具を持って歩く。
今日は別の場所を掃除する。
明日も。
その先も。
きっと私は、変わらない。
昨日と違うものがあれば気づく。
汚れていれば掃除する。
それだけだ。
私は一度だけ振り返った。
開いた扉の向こう。
誰も使わなかった部屋に、朝の風が入っている。
もう、秘密を隠すための部屋ではない。
「……今日も、きれいになった」
私はそう呟いて、歩き出した。
今度は、振り返らなかった。




