仁志八雲の理由
蒼次郎が放った気の刃の一撃は盲打ちだった。
そもそも虚を用いた八雲の攻撃は、見てから対応できるものではない。だから見ずとも対応できるようにこの位置を得たのだ。
背後に陥没痕を置いた状態から左後方に退けば、八雲が回り込みをかけるのは左側からに限定できる。蒼次郎に左腕が無いのも八雲にその判断をさせる助けになっただろう。
「ぐ……そ、それは火の奥義、か……」
「そうだ、俺の切り札だったが、間合いの狭いのが難だった」
「それでこの場所に誘い込んだのか……」
八雲は激しく血を吐いていた。
「どうした……止めを刺さんのか……」
「随分と諦めがいいな」
「これで負けていないなどと言うつもりはない」
左脇から腹にかけてを深く裂いた傷は内臓にも達しているだろう。もはや止めを刺さなくても八雲は死ぬ。だから八雲が負けを認めつつもまだ息があるというこの状況では、止めを刺すよりも優先すべき事があった。
「もう一度聞こう。なぜあんたはあんなことをしたんだ? 勝負は俺の勝ちだ。もう話しても良いだろう?」
「話しても良いのだがな……その時間はもう無さそうだ……」
一際大きな血の塊を吐き、八雲の体から力が抜けていく。
「蒼次郎……風の……奥義書を見ろ……」
切れ切れに、それだけを言って仁志八雲は息絶えた。
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蒼次郎はまっさきに鮎の元に向かった。
縛られた鮎は気を失ってぐったりとしている。無理もないと蒼次郎は思う。平和に暮らしていた鮎にとって、剣客同士の戦いは凄惨で恐ろしかったに違いない。
縄を切り、猿轡を外して縁側に寝かせるのは片腕の蒼次郎にとって難行だったが、これをどうにか成功させて一息つく。倒れかかってきた鮎の体を抱き止めた時に左腿の傷に激しい痛みがはしり、蒼次郎は呻いた。
まずは足の傷に処置を施すことにする。身体操術で止血はしていても、それには限界がある。文字通り気を抜けば傷が開いてしまうからだ。八雲との戦いでぼろぼろになった着物を引き裂いて腿に巻き付け、止血帯の代わりにして間に合わせた。
「これで……終わったんだな……」
終わってしまったと言うべきかも知れない。あれほどに身を焦がしてきた仁志たち四人に対する憎悪は、復讐を果たしたことですっかりと抜け落ちてしまっている。そうして抜け落ちた後には、今の所何も無い。復讐を果たし終えた達成感など無いし、仇を討った喜びも無い。ぽっかりと大きな穴があいたままだった。
二年の間に膨れ上がった憎しみが大きかっただけに、無くなってしまえば一種の虚脱状態に陥ってしまいそうだ。
「そう言えば……風の奥義書を見ろと言っていたか……」
しばし呆然としていた蒼次郎は、八雲の最後の言葉を思い出し、縁側に積み上げられた奥義書に目をやった。
「何を当たり前な事を……いや、読め、ではなく見ろ、だと?」
取り戻した後に、奥義修得のために風の奥義書を読むのは、八雲に言われなくともすることだ。何故わざわざそんな事を言ったのか。しかも奥義書を「読め」ではなく「見ろ」である。これは奥義書そのものの内容とは無関係なのではないだろうか。
八雲の言に疑問を持った蒼次郎は風の奥義書を取り上げてみた。
「む? なんだ?」
ぱらぱらと捲ってみると、途中に一通の封書が挟まっていた。月明かりに透かすようにして見ると、表には蒼次郎の名が記されている。
「俺への手紙、か……まさか、仁志が?」
表書きの字に見覚えがあるような印象を受けつつ裏返し、そこにある差出人の名に蒼次郎は己の目を疑った。見覚えのある字で当然だ。二年前までは毎日のように目にしていた達筆で記されているのは「森白秋斉」という名だった。
「御祖父様! なんだ、これは……どういうことなんだ?」
疑問に駆られて八雲を見やるが、物言わぬ死体から答えがあるわけも無い。八雲が奥義書を見ろと言ったのはこの手紙を読めということだろう。
蒼次郎は封を開いて、過去からの手紙を読み始めた。
その書き出しはこうだった。
『蒼次郎よ、お前がこれを読んでいるということは、見事に仁志八雲を打ち負かしたのだな、だが、もしもまだ仁志が生きているのなら、殺さずに助けてやってくれ。お前は仁志を恨み、ここまで来たのだろうが、その恨みは全て儂が引き受ける。だから仁志がまだ生きているのなら、死なぬように最善の手を尽くして欲しい』
ここまで読んで蒼次郎はがばっと顔を上げた。見やる先には血溜まりに沈む八雲の死体がある。
この手紙は異常だ。
二年前、八雲達に殺された白秋斉が、今のこの状況を知っている。しかも仇である八雲を殺すな、生きているなら助けろとまで書いている。もしや八雲の罠かと疑ってみても、手紙の文字は疑い無く白秋斉の筆によるものだ。
この先を読んではいけない。読んでしまえばとんでもないことがあると、本能的に蒼次郎は感じ取っていた。
だが読まなければならない。これを読まなければ二年前に始まった一連の出来事は終わらないと、そう思えた。
そうして続きに目を通す蒼次郎だったが、読み進めるにつれて顔からは血の気が引き、手は小刻みに震えて手紙を読むために懸命に震えを抑える必要さえ出てくるほどだった。
『恨みは全て鷲が引き受ける。何故ならば、仁志は儂の願いを聞きいれただけであり、全ての事を始めたのは他ならぬ儂だからだ。仁志はけして悪人ではない。悪人を演じてくれるように儂が頼んだのだ。
これはお前のためだ。
といっても俄かには信じられまいから、順序立てて記すこととする。
世に訃流は最強と称され、儂はお前こそ最強の中の最強、訃流史上で最も強い男になれると信じた。お前の持つ剣の才は儂をさえ戦慄させるほどだったのだ。
だがお前が長じるにつれて儂の確信は揺らいだ。お前の心はどこまでも剣客に向いていない。人を斬る覚悟を持てないお前は、いかに訃流の奥義を極めても最強とはなれぬ。
斬るは刀によってではなく、斬るという意思による。意思が無ければどんな名刀もなまくら同然であり、訃流の奥義とて児戯に等しくなるだろう。
その意思を確かなものとするのが、いざとなれば人を斬れるという覚悟なのだ。
儂は考えた。いかにすればお前に覚悟させることができるのかと。人を殺すという、人にとっては越え難い一線をお前に越えさせるために、儂は仁志に殺されることにした。
お前はどうするであろうか。祖父たる儂が殺されて、それでも人を斬ることはできないままだろうか。もしもそうならば、所詮お前もそこまでなのかと諦めもつこうというもの。
だが復讐とは言えお前が剣を取り、そして仁志と戦うなら、その時こそお前は人を斬る覚悟が持てるだろう。剣客が持つ覚悟としては間違っているかも知れぬが、覚悟は覚悟だ。
これを読んでいるということは、お前はとうとうなれたのだろう。人を斬れる剣客に。そして訃流史上最強の男に。
残念なのは、今のお前を儂自身は見れぬということだけだ』
途中、何度読むのを止めようとしたか判らない。最後まで読むのは相当の精神力を要する手紙だった。
手紙を読み終えた蒼次郎はがっくりと項垂れていた。力なく投げ出された右手から、白秋斉の手紙が落ちるが、それにも気付かない。
「全て……俺のせいだったのか……」
呟きが漏れる。
かつて有馬康信は言った。「こうなったのも全て蒼次郎の不甲斐なさのためだ」と。康信が言った意図と意味とは異なるものの、やはり全ては蒼次郎の不甲斐なさのためだったのだ。
訃流宗家に生まれながら剣客としての覚悟を持てなかった蒼次郎のために、白秋斉は自らの命をすてて一芝居打ったのだ。
それを孫に対して独りよがりの夢を見た白秋斉の罪と断じることも、あるいはできるかもしれない。だが白秋斉にそうさせたのが自分に対する期待なのだから、期待に応えられなかった自分がやはり原因なのだと思えてしまう。
そして、と蒼次郎は思う。
これだけの事を起こし、全てが終わってみれば、そんな白秋斉の意図さえも無為になっている。
蒼次郎は片腕と片目を失っているのだ。目はまだ良い。止水の知覚力があれば片目が見えないくらいはさしたる問題にはならない、だが左腕を失ったのは大き過ぎる。
例えば山津波。本来なら全身の筋肉を連動させて放つ技だ。しかるに蒼次郎は片腕を失っている。片腕で放つ山津波では威力も数段下がってしまうだろう。蒼次郎にとって、訃流の奥義を完全に使いこなすのはもはや不可能事なのだった。
「なんてことだ……」
片方だけの手で蒼次郎は顔を覆った。
二年前、蒼次郎は全てを失った。祖父や妹を失い、奥義書を奪われ、自らは片目と片腕、そして宗家嫡男としての地位を奪われた。復讐の一念に駆られて剣鬼と化し、沢山の屍を積み上げるようにしてここまで来た。その最後になって、今度は復讐の意味その物を失ってしまったのだ。
「くっ……」
顔を覆った手の陰から、声が漏れた。弱々しかったその声は、やがて勢いを増し、止めどない慟哭となって夜の島崎郷に染み渡っていった。




