残り二人
島崎郷を貫く街道沿いに一軒に飯屋がある。
瀬田朱美が斬られてから一夜が明けて、有馬康信はその飯屋を訪れていた。
瀬田の屋敷には足を運んでいない。無駄だと判断したからだ。朱美を斬ったのが蒼次郎であるなら、瀬田の屋敷をいくら調べたところで火の奥義書は発見できない。だから事後の処理の為に家人を派遣しただけで、康信自身は行かなかったのだ。
だが仁志八雲は違う考えだったようだ。昼前に一度帰ってきた家人から八雲が早雲や家人を連れて瀬田の屋敷に現れたと聞いた。
その八雲から呼び出しがあり、康信は飯屋に来た。
飯屋の前には手持無沙汰の様子で仁志早雲が立っていた。早雲は康信を認めると飯屋の戸を引き開ける。
「お前達はここで待っていろ」
康信は連れてきた家人を店の表に待たせて暖簾を潜った。その背後で早雲は引き戸を閉める。
薄暗い店内の奥まった席に八雲が一人で座している以外に客はいなかった。島崎郷でも数少ない飯屋であり、常ならばそこそこに客も入るだろうに、どうやら店の前で早雲が睨みを効かせて貸し切りにしてしまったようだ。店の主にとっては迷惑な話だろう。
八雲の前の卓には銚子が数本並んでおり、ちょっとした酒の肴も用意されていた。
「良く来てくれたな」
透明な酒がなみなみと注がれた湯呑を掲げて八雲が言う。
「……飲んでいるのかい?」
仁志八雲という男と酒が結びつかず、意外の念に打たれて康信は問いかけていた。
酔えば感覚が鈍るとして酒を忌避する剣客もいるが、康信は違うと思う。酔った程度で鈍るようならば、元より剣客としては二流三流の輩だ。本当の剣客ならば例え泥酔していようとも体に染みついた技で戦えるものだ。
だから普段の八雲が酒を飲まないのも単に酒があまり好きでないという、ただそれだけの理由だったはずだ。
そんな八雲が酒を飲んでいるからこそ、康信は意外と思ったのだ。
「私だって飲みたいと思うことはある。どうだ、お前も飲むか?」
もう一つの湯呑を差し出され、しかし康信は首を横に振った。
勧めた酒を断られても気分を害した様子もなく、八雲は康信の分の湯呑を伏せた。
「そう言えば、あんた瀬田の屋敷に行ったんだってね。奥義書なんてあるはずないのにどうして行ったんだい?」
「瀬田の死に様を見届けるためだ。奥義書の件でぎくしゃくしていたとはいえ分家同士。そもそも遠い親戚筋だ。全くの放ったらかしともいかんだろう」
「……そんなものかな?」
放ったらかしにしていた康信は首を傾げた。
もともと仁志の家は分家筆頭だった。他の分家に対する捉え方も有馬の家とは違うのかもしれない。
「瀬田は……」
酒で口を湿らせ、八雲は瀬田朱美の死に様を語った。胸を断ち割られて絶命したであろう瀬田朱美は、それでいてひどく満足そうな満ち足りた笑みを浮かべたまま死んでいたそうだ。
「あれはもともと美しい女だったが、今までに見た事のない良い顔をして逝っていた。剣客として、蒼次郎との斬り合いは余程満足のいくものだったのだろうな」
「満足ねえ……」
康信の気の無い返事に八雲が眉を寄せる。が、康信の関心は別の方を向いていた。
「そんなことよりも、わざわざ僕を呼び出した理由はなんなんだい? 余程の話なんだろうね」
「そんなことか……まあいい。話というのは他でもない蒼次郎のことだ。源川が斬られた後、私は考えた。いかに蒼次郎であろうとも土の奥義を持つ源川を倒すのは容易ではない。あいつにそれを可能とさせたのは何か、とな。そうして思い出したのが風流の手引書だ」
「手引書だって? 奥義書の他にそんな物があるなんて聞いたことが無いけど」
「ん? ああ、音が同じだから混同しているな。私が言っているのは訃流の前身、風の文字を当てる方の風流だ。昔使われていた手引書が森家所縁の寺に奉納されていると白州斉から聞いていたのを思い出してな。早雲をやって調べさせた」
八雲が語る早雲が調べてきた内容を聞いて、康信は顔色を変えた。
蒼次郎が風流の手引書を手に入れ、風流の技を修得しているのは良いとして、その寺に二年もの間滞在していたのが問題だ。世間的に見れば蒼次郎は祖父殺害の罪を負っている。森家所縁の寺ともなればその辺りの事情を知らないはずが無い。それでいて届け出もせずに蒼次郎を匿っていたとなると、二年前の出来事の経緯を蒼次郎から聞き、しかもそれを信じている事になる。
そんな康信を落ち着かせるようにして八雲は手で制した。
「大丈夫だ。寺の和尚は他に口外していなかったし、これからも話さないように早雲が手を打ってきた」
だが、続いた八雲の言葉に、康信はまたも目を剥いた。
「手を打ってきたって……和尚を斬ったのか? いや、それよりも早雲は知っているのか!? 二年前の真実を知っているのは僕たち四人だけだったはずだろ!?」
「いろいろと手伝ってもらう手前、知らせておいた方が話が早いのでな、早雲には話してある。今回もそれで事無きを得た。和尚の口から初めて聞かされたのでは、早雲もああは動けなかっただろう」
「ふん、まあいいよ。それは認める」
康信の知る仁志早雲は、従兄である八雲に心酔している。が、敬愛する従兄が主家殺しの大罪を犯していると不意に知らされれば、どんな行動に出るかは予想できない。敬愛ゆえに正道に戻そうとして、歓迎できない行動に走ることも考えられる。であれば、八雲自身から話して聞かせていたのは正解なのだろう。
「……手引書の件、もう少し早ければ瀬田にも教えてやれたのだがな。少々間が悪かった」
「手引書ねぇ。訃流の前身と言えば大層に聞こえるけど、結局は僕達の使う奥義が成立する前の未熟な剣術なんだろう?」
小馬鹿にしたように康信は言う。それは事実であるのだが、その未熟な剣術をもって蒼次郎が源川玄蔵を倒したのもまた事実なのだ。
「侮るなよ。剣術として訃流に劣るだろうが、原型であるが故に四門の全てを内包している。もちろん我らの奥義とは違うだろうが、風や水の技をも蒼次郎は使うのだ。しかも今となっては土と火の奥義も所持している」
「関係ないよ、そんなことは」
「関係ない、だと?」
警告交じりの言葉を軽く一蹴され、八雲の眉がぴくりと動く。
「そうさ、関係ない。例えば仁志、仮に蒼次郎があんたを斬って風の奥義書も手に入れたとして、それでも僕には勝てないよ」
「……随分な自信だな」
八雲の言に、康信は「当然だね」と首肯する。
「仁志は四門の奥義、そのどれが一番強いと思う?」
「四門の奥義は全てを修めて初めて訃流を極めたとされる。どれが、という問いは無意味だ」
「今の状況ならあながち無意味でもないだろう。さあ、どれだと思う? 力を極限まで高める土かな? それとも練気能力を強化する火? いやいや、これは愚問だったかな。あんたは高速剣の風が最強だと考えて選んだんだろうからね」
思い起こせば二年前、白州斉を殺害して奪った四冊の奥義書を分配する段になって、誰がどの奥義書を手にするかについては全く揉めなかった。四人が四人とも見事に別々の奥義書を希望したからだ。元来力任せの剣術を得意としていた源川玄蔵が土を、女性として身体的に劣る瀬田朱美は火を。そして仁志八雲は風、有馬康信は水を選んだ。
「ならばお前はどうなんだ。お前も同じ理由で水を選んだのだろう」
「もちろん。僕に言わせれば防御力を極限まで高める水の奥義こそ四門の中で最強だ」
「ほう? できれば根拠を聞かせて欲しいところだな」
学者が新しい学説に興味を示すような、そんな態度で八雲は説明を求める。
前身である風流がそうであるように、訃流もまた攻撃に重点を置いた剣術と言える。そんな訃流の中にあって、防御技を中心に編纂された水の奥義書は異質である。攻撃は最大の防御などという俗な言葉はあっても、その逆は無い。防御力を高める水の奥義をして最強と言われれば、八雲ならずとも興味をそそられるだろう。
「簡単なことさ。水の奥義はどんな攻撃も完全に防ぎ得る。だったら僕が攻撃に普通の訃流を使っても相手より強い事になる。ほら、最強だろ」
「面白い説だが穴があるな」
「穴だって?」
「水の奥義は確かに防御力を高めるのだろうが、どんな攻撃も完全にとは言い過ぎだろう」
「それは水の奥義を知らないからだよ。それにその奥義を使いのはこの僕だよ」
ぐいっと親指で自分を指差して康信は言った。自信に溢れているが、その自信がどこから来るものなのかが八雲には判らない。
「蒼次郎の才能について前に言ってたよね。なるほど、蒼次郎は古臭い剣術で源川や瀬田に勝った。だからあいつの才能は認めるよ。だけど才能なら僕も負けないさ」
そうまで言われて八雲は「やれやれ」と首を振った。
「風流の件、私だけが知っているのは不公平と思い教えたが……お前には無用だったようだな。最強と言い、剣の才あるを自称するようでは」
「今は自称だけどね。蒼次郎を斬ればあんたも認めるだろうさ。まあ、情報としては有難く貰っておくよ」
「ならばついでにもう一つ。これは勘に過ぎないが、蒼次郎が次に狙うのはお前だろう」
「……出来れば根拠を聞かせて欲しいね。勘と言ったって、あんたが本当に勘だけで物を言うはずがない」
先ほどと立場を入れ替え、今度は康信が興味津々に問い掛けた。学者然とした風貌に似合って仁志八雲は思慮深く理路整然とした考え方をする男だ。力馬鹿の源川玄蔵や、感性で物事を捉える瀬田朱美とは違う。康信は八雲をそのように評価している。
しかし八雲は「それは買い被りだ」と自嘲的に言った。
「根拠というほどのものではない。蒼次郎にしてみれば二年前の件の首謀者である私をこそ確実に殺したいはずだ。だから私に挑む前に出来るだけ奥義書を集めようとするだろう。つまり私が持つ風意外の奥義書を、だ」
「それで次は僕だと? 逆も考えられるんじゃないかい? あんたを確実に殺したいからこそ、僕を避けて次があんたかもしれないじゃないか」
自分の所に来れば必ず返り討ちにできる。そんな自信のある康信は、やはり八雲の警告を一笑に付していた。




