有馬康信
夜の静寂の中を蒼次郎は歩んでいた。
空には雲一つなく、真円に近い月が白々とした光を投げかけ、驚くほどに明るい夜だった。
月光に生み出された影を踏みながら有馬の屋敷を目指す蒼次郎は、思い詰めたような表情を面に浮かべている。瀬田朱美との戦いから二十日余りが経過していた。それは焔を始めとする火の奥義を修得するのに要した期間でもあり、また思索を繰り返した期間でもある。
考え続けていたのは「このまま復讐を果たせるのか」ということだった。
残る仇は二人。二年前の首謀者である仁志八雲と、蒼次郎の左腕を斬った有馬康信。いずれも強敵に違いなく、どちらかとの戦いに敗れることもあり得る。
しかし蒼次郎が悩んだのは瀬田との戦いで覚えてしまった戦う事の悦びについてだった。
厳しい修練によって鍛え上げられた肉体の能力を極限まで絞り出し、磨き上げた技の数々を駆使する。一瞬の気の緩み、たった一つの失策が死に直結するぎりぎりの戦い。そんな中で怒りも憎しみも保ち続ける事はできない。それらが薄れ剣を振るい、代わりに浮かび上がったのは悦びだった。
それは笑いながら逝った瀬田朱美も同様だったのだろう。
これでは復讐は果たせない。
結果として瀬田朱美は死んだが、それは実際に「結果として」なのだ。自らの罪深さを思い知らせ、悔恨の中での死を与えてこその復讐だ。笑いながら死なれては復讐とは言えない。なにより蒼次郎自身が憎しみを忘れていたのでは。
有馬康信に相対した時、自分はどうなるのだろうかと蒼次郎は考える。
祖父が殺されたあの夜を思い出せば、蒼次郎の胸にはどす黒い憎悪が渦を巻く。だがそれを戦いの中で忘れずにいられるのか。
――仁志と戦う前に確かめなくてはならない。俺のこの憎しみが本物なのかを……。
決然として目を上げた蒼次郎の前にはぴたりと閉じられた門があった。
考えている間に有馬の屋敷に着いていたのだ。
屋敷はしんと静まり返っていた。真夜中を過ぎているのだから静まり返っていても当然なのだが、今の島崎郷の状況からすればおかしい。篝火を焚いて警戒していた源川や、腕の立つ家人を集めていた瀬田とは大いに違う。
命を狙われているにも関わらず、この無警戒振り。普通に考えれば罠だろうが、蒼次郎は康信の性格を思い出した。自信に満ち、その自信に見合う実力を持っていた。蒼次郎の左腕を落とした二年前、康信はまだ子供だった。そんな康信が奥義を手に入れたのだから、さらに自信は増大し、実力もまた高まっているだろう。
不意打ちさえ受けなければ必ず勝てる。そんな自信があり、しかも蒼次郎が不意打ちをするはずがないとの確信を持っている。相手に殺される意味を知らしめ、戦い、倒す。それが復讐であると蒼次郎は考えており、恐らく康信はそこまで読んでいるのだ。
だから康信は警戒の必要を感じていないのだろう。そう判断した蒼次郎は閉じられた門に向って抜きざまの一刀を振るった。
月光を反射して刀が縦に一閃し、門扉の向こうで重い物が落ちる音がした。門扉の僅かな隙間から内側の閂を切断したのである。押せば、門は意外なほど簡単に開いた。
同時に屋敷の中から鈴の鳴る音が微かに、しかし連続して聞こえてきて、蒼次郎は「む?」と眉を顰めた。見れば門扉には細い糸が仕掛けられ、月明かりの下で目を凝らせば、うっすらとした線が屋敷にまで繋がっているのが認められる。門扉の開放とともに糸が引かれて鈴が鳴る仕組みだ。
「全くの無防備というわけでもないか……」
蒼次郎は憮然と呟く。恐らくは同様の仕掛けが屋敷を囲む要所に配されているのだろう。
これで侵入は知られることとなったが、慌てる必要は無かった。元より不意打ちするつもりは無いのだし、だとすればかえって手間が省けるとも言える。
殊更ゆっくりと歩を進めれば、思った通り何カ所かで張り渡された糸が発見された。それらをわざと鳴らしながら進む。これほどの仕掛けをするならば、どの鈴がなるのかで侵入者の所在も判るようにしてあるはずだ。
「なんだってこんな時間に来るんだよ。もう少し考えてくれよなぁ」
内庭に入り込んだ蒼次郎の前に現れたのは、きちんと身支度を整えた有馬康信だった。しかし身支度を整えていても眠そうな顔をしている。「ふぁぁぁぁ」と大きな欠伸までしてみせた。
「……下手な演技はよせ。そんな事で俺が油断するとでも思うのか?」
苦々しげに蒼次郎は吐き捨てた。
剣術に限らず、武道の達人は完全に眠るということが無い。本人は熟睡しているつもりでも感覚の一部は常に覚醒しており、不意の事態にも即座に対応できるのだ。まして訃流には気功が組み込まれている。気力が充実すれば眠気など一瞬で消え去るのだ。
それを承知でなおも演技を続けるのは、油断を誘うというよりも蒼次郎を苛立たせるのが目的なのだろう。
「下手かな? まあ、どうでもいいんだけど」
本当にどうでもよさそうに言い、康信の顔から眠気が抜けた。年齢に相応しくまだ幼さの残る顔の中、目だけは鋭い光を放っていた。
「それにしても随分と雰囲気が変わったね。それだけ特徴的なのに別人かと目を疑っちゃったよ」
隻眼と隻腕。二年前、康信達が蒼次郎から奪ったものだ。その事実がありながら、やはり昔の蒼次郎との落差は激しく、にわかには同一人物とは信じられないくらいだ。
「んん?」
そんな蒼次郎の姿を見ていて、康信は首を傾げた。それというのも蒼次郎が腰に二本の刀を差していたからだ。
「まさか……二刀?」
呟きながら自分の左腰に手をやる。康信もまた二本差しをしている。ただしこちらは大小の二刀だが。
蒼次郎が差している二刀とは、瀬田の屋敷で拾ってきた物と、気の刃で斬られて半分になった物だ。壊れた刀は気の刃を使うために持ってきている。
火の奥義書を読んで判ったことだが、気の刃を生み出すには必ずしも刀を必要としない。習熟すれば素手の状態からでも気の刃は生み出せる。朱美もその域には達していたのだろうが、やはり普段と同じ感覚で扱えるようにと刀を芯にしていたのだろう。
蒼次郎の場合は事情が少々異なる。まだ憶えたての為に芯が無ければ使えない。そして気の刃は気の消耗が激し過ぎるために多用はできない。だから二本必要なのだ。
「いや、そんなわけはないか……片腕のあんたが二刀なんてね」
どんな結論を下したのか康信は一人で納得している。火の奥義を知らない限り、その結論は必ず外れているのだろう。説明する義理もないので蒼次郎は何も言わなかった。
「で、奥義書は持ってきているんだろうね?」
康信の問いに、蒼次郎は懐から二冊の奥義書を取り出した。紐で一括りにしたそれを自分の足元に落とす。
「貴様の……水の奥義書を出せ」
水の奥義書も本来なら蒼次郎の物になるはずだった。「貴様の」と所有権を認める言葉を口にする時、僅かに語調が乱れた理由がそれだ。
「嫌だと言ったら?」
康信が言った途端、蒼次郎の刀が鞘走って足元の奥義書を貫いていた。
「俺にはもう必要ない。このまま切り刻んでやろうか?」
「わかったわかった。ちょっとした冗談じゃないか」
「冗談などに付き合うつもりはない」
「嫌だね、余裕が無くてさ」
ぶつぶつと呟きながら康信も奥義書を取り出した。心理戦のつもりの挑発も度を過ぎれば逆効果だ。奥義書を紙屑に変えられては元も子もない。
康信がひょいと放った奥義書は母屋の縁側にばさりと落ちる。蒼次郎も刀を一振りして奥義書を放った。
「抜け、有馬。今こそ御祖父様とこの左腕の仇を討たせて貰う」
蒼次郎は剣尖を康信に向けた。柄を握る右腕がやや左に寄り、刀身は斜めに構えられている。防御を意識した構えだった。
これには康信も意外の表情を浮かべる。
「僕の奥義は水なのに、そう構えるのかい? 土と火の奥義、それに……風流まで持っているのに随分と弱気じゃないか」
「っ!? 貴様、何故俺が風流を使うと!」
「仁志が教えてくれたよ。早雲を件の寺にやって確かめさせたそうだ」
「なんだと! まさか……」
「まさか、なんだい? ああ、その寺の事が心配なのか。そういえば話が漏れないように早雲が手を打ったと言ってたな」
蒼次郎は息を飲んだ。当事者である蒼次郎達を除けば、唯一真相を知っているのが和尚だった。和尚は蒼次郎から全てを聞き、届け出ること無く蒼次郎を匿った。蒼次郎に復讐を果たさせてやるためである。
話が漏れないように手を打つ。つまりは口を封じられたとなると、和尚はもう生きてないのだろう。
「仁志……! 奴はどこまで!」
蒼次郎はぎりぎりと歯噛みした。朱美との戦いから沈静化していたたどす黒い思いが再び勢いを増す。
「やっぱりあんたが一番憎んでいるのは仁志なんだな。だとしたら僕のところに来たのは失敗だったね」
蒼次郎から吹き付ける鬼気迫る殺気にも、康信はどこ吹く風といった体だ。小馬鹿にしたような物言いを崩さず、そんな康信を蒼次郎は無言で睨みつけている。
「あんたじゃ僕に勝てない。僕のところに来たりするから、あんたは一番の仇も討てずに死ぬことになるんだ。だからと言って、仁志のところに行ってれば勝てたのかといえば、そんなのは僕の知ったことじゃないけれどね」
「……ふん、相変わらずの自信だな」
腹の中で煮えくりかえる何かをようやく飲み下して、蒼次郎は絞り出すように言った。
「俺は貴様を殺す。そして仁志も殺す。必ずだ!」
「復讐、復讐か。まったく、いかにも悲劇の主人公みたいだね。いい気なもんだよ。こんなことになってるのだって、あんたにも原因があるってのに」
冷水を浴びせるかの如く冷やかに、康信はそう言った。




