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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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8/81

第八話 


 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、薄い雲に覆われていた。


 雨が降るほどではない。

 けれど、昨日までの晴れた朝とは違う。


 白く濁った光が校舎の石壁を照らし、窓硝子に淡い影を落としている。

 中庭の芝は少し湿って見え、風はいつもより冷たかった。


 学園の朝は、今日も始まっている。


 鐘が鳴る。

 生徒たちが登校する。

 廊下に足音が満ちる。

 教本を抱えた者たちが、各々の教室へ向かう。


 ただ、声の質が少し違った。


「昨日、見た?」

「レオンが勝ったな」

「まあ、当然だろ」

「でもアルトもかなり粘ってたよな」

「三本取られて粘ったって言うのか?」

「いや、二本目見た? あれ、ちょっと崩してたぞ」

「でも勝ったのはレオンだ」

「そりゃ今はな」


 今は。


 その言葉が、何度か廊下を流れていった。


 たった二文字。


 けれど、そこには昨日までになかった含みがある。


 昨日の模擬戦で、レオン・ヴォルツはアルト・レイヴンに勝った。


 三本先取。

 内容も明確。

 実力差も示した。


 それでも、学園の空気は単純な勝利では終わらなかった。


 勝者レオン。

 敗者アルト。


 それは事実だ。


 だが同時に、敗者アルトは伸びると見られた。

 そして勝者レオンには、次も勝てるのかという視線が生まれた。


 勝ったはずなのに、終わらない。


 むしろ始まった。


 その空気が、朝の廊下に漂っていた。


    ◆


 東棟へ向かう回廊を、レオン・ヴォルツは歩いていた。


 灰色の制服。

 胸元の銀糸徽章。

 整えられた黒髪。

 いつも通りの姿勢。


 周囲の生徒たちは、昨日よりもはっきりと彼を見る。


 遠慮のない好奇心。

 評価。

 安堵。

 期待。

 そして少しの疑問。


 レオンはその視線を受けながら歩く。


 慣れている。


 そう思っていた。


 実際、注目されること自体には慣れている。


 伯爵家次男。

 上位クラス。

 実技上位。

 婚約者は公爵家令嬢。


 ずっと見られてきた。


 だが、今日の視線は少し違う。


 勝者を見る目ではある。


 だが、完全な安心ではない。


 “次も勝てるのか”という確認が混じっている。


 その違いが、足元に薄く絡みついてくるようだった。


「勝った翌朝にしては、すっきりしない顔だねぇ」


 隣を歩くユーリス・ベルクが言った。


 声は軽い。


 だが、今日も目はよく見ている。


「普通だ」


「出た」


「便利だからな」


「昨日勝ったんだから、もっと堂々としてればいいのに」


「堂々としていないように見えるか」


「見えるってほどじゃない」


 ユーリスは少し考えるように視線を上げた。


「ただ、勝ったのにまだ試合中みたいな顔してる」


 レオンは返事をしなかった。


 的外れではなかったからだ。


 昨日の試合は終わった。


 アルトに三本取って勝った。


 教師にも評価された。


 フィーネにも褒められた。

 ユーリスにも認められた。

 エリシアにも、きっと勝利は届いている。


 なのに、胸の奥に残っているのは完全な安堵ではない。


 次も勝つには、積む必要がある。


 昨夜、手帳に書いた一文。


 それがずっと残っている。


「昨日のアルト、どうだった?」


 ユーリスが聞く。


「昨日言っただろ」


「もう一回聞きたい」


「未熟だ。剣も遅い。魔法に身体が追いついていない」


「うん」


「だが、伸びている」


「そこだよな」


 ユーリスは小さく息を吐く。


「皆、そこを見ちゃった」


「だから騒ぐ」


「そう」


 一拍。


「で、お前もそこを見てる」


 レオンは横を見る。


「悪いか」


「悪くない。ただ、お前にしては珍しい」


「何が」


「勝った相手を、そこまで気にし続けるのが」


 レオンは少しだけ眉を寄せた。


 勝った相手。


 確かにそうだ。


 アルトは昨日、自分に負けた。


 本来なら、それで一区切りになるはずだった。


 評価するにしても、まだ先の話だ。


 だが実際には、昨日よりも強く彼のことを考えている。


 そのことが、少しだけ気に入らない。


「次に当たる可能性があるなら、考えるのは当然だ」


 レオンが言う。


「うん。そういうことにしておく」


「腹が立つな」


「今日も元気だ」


 ユーリスは笑った。


 その軽さが、少しだけありがたくもあった。


    ◆


 上位クラスの教室は、今日も静かだった。


 ただ、その静けさは昨日とは少し違う。


 昨日は、レオンとアルトが当たるかもしれないという期待の前の静けさだった。


 今日は、結果を見た後の静けさだ。


 レオンが勝った。


 それで上位クラスの面子は一応保たれた。


 だが、完全には保たれていない。


 アルトが負けても評価されたからだ。


 上位クラスの生徒たちは、それをどう受け止めるべきか測りかねている。


 だから静かだった。


 レオンが席へ着くと、何人かが声をかけてきた。


「昨日はさすがだったな、レオン」

「やっぱり安定感が違う」

「アルトも頑張ってたけど、まだ差があるな」


 言葉は称賛だ。


 だが、その奥に安堵がある。


 レオンが勝ってくれてよかった。


 上位クラス側が完全に崩されずに済んだ。


 そういう空気。


 レオンは軽く返す。


「ああ」

「ありがとう」

「まだ未熟なところもある」


 無難な返答。


 だが、言葉を返すたびに、少しだけ重くなる。


 自分は上位クラスの代表ではない。


 少なくとも、正式には。


 それなのに、いつの間にかそういう目で見られ始めている。


 アルトが現れたことで、レオンは上位クラス側の象徴のように扱われ始めている。


 それが、少し息苦しい。


「おはようございます」


 フィーネ・ルークが近づいてきた。


 今日は昨日より少し表情が柔らかい。


 けれど、目は慎重だった。


「ああ、おはよう」


「昨日、よく眠れました?」


 ユーリスと似たようなことを聞く。


 レオンは少しだけ目を細めた。


「皆、それを聞くな」


「皆?」


「ユーリスにも聞かれた」


「あ……」


 フィーネは少し気まずそうにする。


「すみません」


「別に謝ることじゃない」


「でも、気になったので」


「眠れた」


「本当ですか?」


「疑うのか」


「少し」


 レオンは小さく息を吐く。


「眠れた。ただ、考えた」


「アルトさんのことですか?」


「それもある」


「それだけじゃない?」


「ああ」


 フィーネは少し黙った。


 彼女は最近、レオンの言葉の隙間を読むようになっている。


 それが少し厄介で、少し不思議だった。


「昨日の二本目」


 フィーネが言う。


「レオンさん、崩れたのをちゃんと認めて動いてましたよね」


「昨日も言っていたな」


「はい。でも、今朝になっても思い出してました」


「なぜ」


「すごく良かったからです」


 まっすぐだった。


 褒める時、この少女は妙にまっすぐだ。


 レオンは少しだけ視線を逸らす。


「褒めすぎだ」


「褒めたい時に褒めてます」


「最近、遠慮がなくなったな」


「レオンさんも、少し受け取るようになりました」


「そうか?」


「はい」


 一拍。


「前なら、もっと流してました」


 そうかもしれない。


 以前なら、褒め言葉はほとんど事実確認のように受け取っていた。


 勝ったから褒められる。

 できたから評価される。


 それだけだった。


 今は、少し違う。


 フィーネの言葉は、ただの評価とは違う場所へ入ってくる。


「……悪くない」


 レオンが言う。


 フィーネの目が少し開く。


「何がですか?」


「褒められるのも」


 フィーネは一瞬固まった。


 それから、頬を少し赤くした。


「……朝からそういうこと言うの、ずるいです」


「自分で褒めたんだろ」


「そうですけど、返し方があります」


「難しいな」


「難しいんです」


 ユーリスが横で肩を震わせて笑っていた。


 レオンは睨む。


「何だ」


「いや、青春だなって」


「黙れ」


「はいはい」


 教室の空気が少しだけ和らぐ。


 だが、前方の席ではハルト・グレイナーがこちらを見ていた。


 表情は暗い。


 昨日のレオンの勝利で、彼は少し救われたはずだ。


 だが同時に、はっきり突きつけられた。


 自分とレオンの差。


 自分を倒したアルトを、レオンは倒した。


 その事実は、ハルトにとって慰めであり、屈辱でもある。


 彼は何も言わない。


 ただ、机の上で拳を握っていた。


    ◆


 一限目の魔法剣術理論では、昨日のレオンとアルトの模擬戦が題材にされた。


 教師は名前こそ出さなかったが、誰もがわかっていた。


 黒板には、三つの言葉が書かれている。


 複合属性。

 崩し。

 変化対応。


「昨日の実技確認で見られたように、複数属性を組み合わせる戦い方は、相手の判断を遅らせる効果がある」


 教師が言う。


 教室は静かだ。


「ただし、複数属性を扱えることと、複数属性を戦術として成立させることは別だ」


 それはアルトへの指摘だ。


 同時に、上位クラスに対する警告でもある。


「一方で、安定した剣士は、一度崩された後にどう変化するかが問われる」


 今度はレオンへの話だ。


 視線が集まる。


 レオンは前を見る。


「ヴォルツ」


「はい」


「昨日の二本目。お前は剣を流された後、元の構えへ戻さなかった。理由は」


 レオンは立ち上がる。


「戻そうとすると遅れると判断しました」


「なぜそう判断した」


「前日の訓練で、戻すことに固執すると一手目が硬くなると指摘されたからです」


 教室が少し静かになる。


 自分の弱点を口にした。


 以前なら、少し抵抗があったかもしれない。


 今もないわけではない。


 だが、言えた。


 教師は頷く。


「では、昨日の対応は偶然ではないな」


「はい」


「よろしい」


 教師は黒板へ向き直る。


「自分の弱点を認めた者は強い。認めなければ、修正できない」


 その言葉が、教室に落ちる。


 誰かが息を呑んだ。


 ハルトの方から、椅子が小さく軋む音がした。


 教師は続ける。


「勝った者も、負けた者も、次へ繋げられなければ意味がない」


 レオンは座る。


 胸の奥が少し熱い。


 弱点を認めた者は強い。


 その言葉は、今の自分にとって悪くなかった。


 だが同時に、アルトにも当てはまる。


 負けたアルトもまた、次へ繋げようとしている。


 そこが、また少し引っかかった。


    ◆


 昼休み。


 食堂は、少しだけ落ち着きを取り戻していた。


 昨日の模擬戦という大きな話題が一度消化されたことで、生徒たちの声には少し余裕が戻っている。


 ただし、話題が消えたわけではない。


「レオンはやっぱり強かった」

「アルトはまだまだだけど伸びる」

「次やったらどうなるかな」

「いや、さすがにしばらくはレオンだろ」

「でも半年後なら?」


 半年後。


 その言葉に、レオンは食器を持つ手をほんの少しだけ止めた。


 隣でユーリスが気づく。


「今のは気にした?」


「うるさい」


「図星か」


「黙れ」


 ユーリスは笑う。


 だが、その後少しだけ声を落とした。


「半年後なんて、誰にもわからないよ」


「当たり前だ」


「でも、お前は考えちゃうだろ」


「……少しな」


 今日は、否定する気になれなかった。


 ユーリスは少し驚いたように目を開く。


「素直だな」


「最近、そう言われる」


「いい傾向だ」


「教師みたいなことを言うな」


「褒めてるんだよ」


 レオンはスープを飲む。


 温かい。


 だが胸の奥の落ち着かなさは消えない。


 その時、食堂の入口にアルトが現れた。


 昨日ほどの騒ぎはない。


 だが視線は集まる。


 アルトはそれに少し慣れたのか、ぎこちなくも頭を下げながら席へ向かう。


 その途中で、レオンと目が合った。


 アルトは一瞬迷い、それからこちらへ歩いてきた。


 食堂の空気がまた少し変わる。


 ユーリスが小さく言う。


「来たよ」


「見ればわかる」


 アルトはレオンの席の少し前で立ち止まった。


「ヴォルツさん」


「何だ」


「昨日は、ありがとうございました」


「礼を言われることはしていない」


「でも、最後に色々言ってくれたので」


 アルトは少し照れたように笑う。


「剣が遅いって言われたので、今朝から走り込みしました」


「走り込みで剣はすぐ速くならない」


「えっ」


「だが足腰は必要だ」


「あ、はい!」


 周囲が少し笑う。


 馬鹿にした笑いではない。


 微笑ましい、という空気。


 アルトはそれを受けても、変にへこまない。


 素直に頷いている。


 レオンは少しだけ息を吐いた。


「焦るな」


 自然に言葉が出た。


 アルトが顔を上げる。


「え?」


「お前は今、周囲に見られている」


 食堂が静かになる。


 レオンの声は大きくない。


 だが、周囲は聞こうとしている。


「昨日負けたからといって、すぐ取り返そうとすると崩れる」


 それはアルトへの言葉であり、自分への言葉でもあった。


「積め」


 短く言う。


「それだけだ」


 アルトはしばらく黙っていた。


 やがて、深く頭を下げる。


「はい!」


 その声は、昨日よりも強かった。


 アルトは自分の席へ戻っていく。


 食堂のざわめきが少しずつ戻る。


 ユーリスがレオンを見る。


「今の、かなり良かったんじゃない?」


「何が」


「言い方」


「そうか」


「うん。刺すだけじゃなかった」


「俺はいつも刺しているのか」


「割と」


 レオンは眉を寄せる。


「腹が立つな」


「でも今日は少し柔らかかった」


 そう言われると、悪い気はしなかった。


 ただ、少しだけ気恥ずかしい。


    ◆


 午後は通常の剣術訓練だった。


 上位クラスのみ。


 昨日のような見学者はいない。


 だが、空気は少し違った。


 教師は昨日の模擬戦を引きずるなと言った。


 しかし、全員が完全に忘れられるはずもない。


 レオンは基礎型を繰り返す。


 踏み込み。

 斬り下ろし。

 切り返し。

 受け流し。

 戻し。

 変化。


 昨日の二本目を思い出す。


 剣を流され、戻さず半身へ変えた。


 あれはできた。


 なら、次はもっと自然にやる。


 崩れを認める。

 形を変える。

 そこから取る。


 何度も反復する。


 汗が滲む。


 呼吸が熱くなる。


 だが、悪い熱ではない。


 不安を消すためではなく、次へ行くための熱。


 そう思えた。


「ヴォルツ」


 教師が近づいてくる。


「はい」


「昨日から動きが少し変わったな」


「そうでしょうか」


「戻しに固執しなくなった」


 教師は短く言う。


「良い変化だ」


 その一言だけで去っていく。


 レオンは少しだけ立ち尽くした。


 良い変化。


 教師にそう言われるのは、素直に嬉しかった。


 だが、その変化のきっかけにはアルトがいる。


 それも認めざるを得ない。


 胸の奥で、誇りがまた小さく軋む。


 けれど今日は、それを完全に不快だとは思わなかった。


 軋むなら、直せばいい。


 少しずつ、そう思えるようになっていた。


    ◆


 訓練後。


 更衣棟へ向かう途中、エリシア・フォン・ローゼンベルクが待っていた。


 今日も姿勢は美しく、制服に乱れはない。


 周囲の生徒たちが自然と距離を取る。


「レオン様」


「エリシア様」


 レオンは足を止める。


 エリシアは微笑む。


「昨日の勝利、お見事でした」


「ありがとうございます」


「やはり、あなたは上位クラスにふさわしい方ですわ」


 その言葉は綺麗だった。


 だが、なぜか少しだけ胸に引っかかった。


 ふさわしい。


 それは称賛であると同時に、枠でもある。


 上位クラスにふさわしい自分でいなければならない。


 そう言われているようにも聞こえた。


「ですが」


 エリシアは続ける。


「今日、食堂でアルト様に助言をされていましたわね」


「聞いていたのですか」


「耳に入りました」


 笑顔は崩れない。


「あなたが誰に助言するかは自由です。けれど、彼は今、周囲に注目されています」


「だからこそ、焦るなと言いました」


「それは優しさですか?」


 少しだけ、鋭い問いだった。


 レオンはすぐには答えなかった。


 優しさ。


 そうだったのか。


 自分でもよくわからない。


 ただ、言うべきだと思った。


「必要だと思っただけです」


「そう」


 エリシアは少しだけ目を細める。


「あなたは、彼を随分と気になさっているのですね」


 その声には、わずかな棘があった。


 嫉妬ではない。


 もっと違う。


 序列を乱すものへの警戒。

 婚約者であるレオンが、平民特待生へ関心を向けることへの違和感。


 それが混じっている。


「実力を見るのは当然です」


「そうですわね」


 エリシアは微笑む。


「ただ、あなたにはあなたの立場があります」


「わかっています」


「本当に?」


 その問いは、思ったより深く入った。


 レオンは黙る。


 エリシアも黙る。


 周囲の風が、二人の間を通る。


「……失礼しました」


 先に口を開いたのはエリシアだった。


「少し、言い過ぎましたわ」


「いえ」


「あなたが勝利されたことは、誇らしく思っています」


「ありがとうございます」


「ですが、どうかお忘れなく」


 エリシアの声は柔らかい。


 それでも硬かった。


「あなたは、ヴォルツ伯爵家の方です。そして、わたくしの婚約者です」


 それだけ言って、彼女は去っていった。


 レオンはその場にしばらく立っていた。


 その言葉は、重かった。


 期待とは違う。


 役割の重さ。


 家の重さ。

 婚約の重さ。

 上位にいる者としての重さ。


 最近、いろいろな重さが増えている気がする。


    ◆


 その夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いていた。


 今日の記録は、昨日よりもさらに複雑だった。


 魔法剣術理論。

 教師の評価。

 アルトへの助言。

 剣術訓練での変化。

 エリシアの言葉。


 ペン先が止まる。


 あなたにはあなたの立場があります。


 あなたは、ヴォルツ伯爵家の方です。

 そして、わたくしの婚約者です。


 間違っていない。


 何一つ、間違っていない。


 レオンはヴォルツ伯爵家の次男だ。

 エリシアの婚約者だ。

 上位クラスの生徒だ。


 その立場を背負っている。


 背負っているからこそ、今の位置にいる。


 だが、立場とは支えであると同時に、鎖でもあるのかもしれない。


 そんな考えが浮かび、レオンはすぐに眉を寄せた。


 らしくない。


 最近、らしくないことばかり考えている。


 アルトが現れてから。


 いや、正確には、アルトを見てから。


 あの未完成な才能を。

 負けても折れない姿を。

 周囲に見られて戸惑いながらも進もうとする姿を。


 レオンはペンを取る。


 今日の最後に、一行書く。


 勝った者の席に座っていても、次を見なければ落ちる。


 書いてから、少しだけ苦笑した。


 まるで教師の言葉みたいだ。


 だが消さない。


 今の自分に必要な言葉だと思ったからだ。


 窓の外では、雲の隙間から月が見えていた。


 薄い光が部屋へ差し込む。


 灰色の制服が椅子の背に掛かっている。


 その胸元の銀糸徽章が、月明かりを受けてわずかに光った。


 勝った者の席。


 自分はまだ、そこにいる。


 けれど、心だけはもう昨日までと同じ場所には戻れない。


 アルトに勝った。


 それでも、アルトを見ている。


 上位クラスにいる。


 それでも、足元を意識している。


 婚約者がいる。


 それでも、その言葉の重さを初めて少し苦しいと思った。


 レオン・ヴォルツの日常は、まだ壊れていない。


 だが、同じ形ではなくなり始めている。


 その変化を、彼はまだ成長と呼ぶのか、危うさと呼ぶのか決められずにいた。


 ただ一つだけ、わかっていることがある。


 もう、何も知らなかった頃には戻れない。


 勝った者の席に座っていても。


 心だけはもう、同じ場所に戻れない。

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