表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/81

第七話 



 朝から、学園の空気は妙に軽かった。


 軽い、というより浮いていた。


 王立グランセル魔導学園の石造りの廊下には、いつものように朝日が差し込んでいる。

 窓辺の花瓶には淡い青の花が飾られ、壁の紋章旗は静かに垂れ、遠くの訓練場からは剣を振る音が規則正しく響いていた。


 何も変わっていない。


 けれど、生徒たちの声だけが少し違う。


 抑えきれない期待。

 誰かが何かを起こすのを待つような視線。

 昨日より少しだけ早く歩く足音。


 廊下の端で、二年生が一年生に声をかけている。


「今日、また合同確認あるって本当?」

「いや、上位クラス中心らしいぞ」

「でも例の特待生も呼ばれてるって聞いた」

「じゃあ、ついに当たるんじゃないか?」


 何が、とは言わない。


 だが誰のことかは、すぐにわかる。


 レオン・ヴォルツ。

 アルト・レイヴン。


 まだ一度も対戦していない二人。


 だが、学園の空気はもう勝手に二人を並べていた。


 上位クラスの安定した実力者。

 平民出身の全属性特待生。


 積み上げた剣と魔法。

 未完成だが眩しい才能。


 人は、わかりやすい対比を好む。


 誰かが勝手に比べる。

 誰かが勝手に期待する。

 誰かが勝手に舞台を作る。


 その舞台に立つ本人たちの気持ちなど、あまり関係ない。


 レオンは東棟へ続く回廊を歩きながら、そうした声を聞いていた。


 灰色の制服。

 胸元の銀糸徽章。

 整えた髪。

 いつも通りの歩幅。


 周囲の視線が、自分に触れているのがわかる。


 昨日より多い。


 そして、昨日より遠慮がない。


「完全に見られてるねぇ」


 隣を歩くユーリス・ベルクが言った。


 いつもの軽い声。


 だが、今日はその軽さの中にも少しだけ緊張が混じっている。


「暇な奴らだ」


 レオンが返す。


「そう言えるのがすごいよ」


「事実だろ」


「でも、お前も気づいてるだろ」


「何に」


「今日、組まれるかもしれないって」


 レオンは少しだけ沈黙した。


 歩幅は変えない。


 だが、その沈黙だけで答えになった。


 ユーリスは小さく息を吐く。


「やっぱりな」


「可能性はある」


「勝てる?」


「勝つ」


 即答だった。


 迷いはない。


 少なくとも、声には。


 ユーリスは横目でレオンを見る。


「その答えを聞くと安心するやつと、不安になるやつがいるだろうな」


「どういう意味だ」


「レオンらしいって安心する」

「でも、レオンらしすぎて不安になる」


 レオンは眉を寄せる。


「またそれか」


「最近、みんな言ってるだろ?」


「言われすぎて飽きてきた」


「じゃあ少し考えてる証拠だ」


「面倒な言い方だな」


 ユーリスは肩をすくめる。


「俺は、お前が勝つところを見たいよ」


 その声は、珍しくまっすぐだった。


 レオンは横を見る。


 ユーリスは笑っていた。


 けれど、その笑顔の奥は軽くない。


「そうか」


「ああ」


「なら見ていろ」


 レオンは前を見る。


 その答えは自然に出た。


 いつものように。


 だが、胸の奥では昨日書いた手帳の言葉が、まだ消えずに残っていた。


 崩れを認めるのが遅い。


 戻そうとしすぎる。


 崩れた形から、別の形へ。


 アルト・レイヴン――負けた後の修正が早い。見習う点あり。


 見習う点。


 その言葉を、自分は書いた。


 消さなかった。


 その事実が、朝からずっと胸の奥で小さく熱を持っている。


    ◆


 上位クラスの教室は、普段より早く生徒が揃っていた。


 それだけで、皆が今日を意識していることがわかる。


 机の上に教本を広げている者。

 魔法陣の確認をしている者。

 剣術の手順を空中で小さくなぞっている者。


 だが、集中しているようで、視線は時々入り口へ向かう。


 誰かを待っている。


 教師を。

 発表を。

 午後の予定を。


 そして、おそらくは対戦表を。


 レオンが席に座ると、少し離れた場所でハルト・グレイナーがこちらを見た。


 目が合う。


 ハルトの目には、まだ屈辱が残っている。


 だが昨日までより、少しだけ違う色もあった。


 期待。


 いや、願望に近い。


 レオンがアルトを倒せば、自分の敗北は少しだけ軽くなる。


 少なくとも、あれは相手が規格外だったのだと周囲に思わせられる。


 そういう感情が見える。


 レオンは、その視線が少し不快だった。


 自分は誰かの敗北を薄めるために戦うわけではない。


 勝つなら、自分のために勝つ。


 上位クラスの一員として。

 ヴォルツ伯爵家の次男として。

 積み上げてきたものを示すために。


 そう思った。


「おはようございます」


 フィーネ・ルークが近づいてくる。


 今日はいつもより少し緊張した顔だった。


「ああ」


「今日、何かありますよね」


「たぶんな」


「やっぱり……」


 フィーネは少しだけ声を落とす。


「みんな、レオンさんとアルトさんが当たるんじゃないかって話してます」


「廊下でも聞いた」


「嫌じゃないですか?」


「何が」


「勝手に期待されるの」


 レオンは少し考える。


「面倒ではある」


「嫌ではないんですか」


「期待されることには慣れている」


 フィーネは一瞬、返す言葉を失った。


 それは傲慢に聞こえる言葉だった。


 だが同時に、事実でもある。


 レオンはずっと期待されてきた。


 家から。

 教師から。

 同級生から。

 婚約者の家から。


 期待される側にいることが、彼にとっては普通だった。


 だからこそ、そこに疲れや恐怖があることに、まだ深く気づいていない。


「……レオンさんらしいです」


 フィーネが小さく言う。


「悪い意味か」


「半分です」


「もう半分は?」


「それでも、ちゃんと期待に応えようとするところはすごいと思います」


 レオンは少しだけ黙る。


 そう言われると、返しに困る。


「褒めているのか」


「はい」


「なら、受け取っておく」


 フィーネが少し笑った。


「最近、素直ですね」


「注意され続けているからな」


「私のせいですか?」


「一部は」


「じゃあ、今日も一つだけ」


「まだあるのか」


「あります」


 フィーネは真面目な顔になる。


「もしアルトさんと当たっても、周りの声で戦わないでください」


 その言葉に、レオンは視線を上げた。


「周りの声?」


「はい」


「俺がそんなふうに見えるか」


「普段は見えません」


 一拍。


「でも最近、少しだけ見えます」


 沈黙。


 教室のざわめきが、ほんの少し遠くなる。


 フィーネは続ける。


「みんなが勝手に比べて、勝手に期待して、勝手に盛り上がっています」

「でも、それに全部応えようとすると、たぶん苦しいです」


「……経験者みたいに言うな」


「経験はないです」


「ならなぜわかる」


「見ていて、そう思うからです」


 まっすぐだった。


 少し困るほどに。


 レオンは机の上に置いた手帳へ視線を落とす。


 開いてはいない。


 だが、昨日の文字がそこにある気がした。


 崩れた形から、別の形へ。


「覚えておく」


 レオンが言う。


 フィーネは小さく頷いた。


「はい」


 その短いやり取りを、ユーリスが隣で黙って聞いていた。


 今日は茶化さなかった。


 それが逆に、少しだけ重かった。


    ◆


 一限目の魔法実践理論。


 教師は、今日の午後の実技確認を前提にしたような授業を行った。


 題目は、対人戦における属性適性の読み違い。


 黒板には、火、水、風、土、雷、氷、光、闇といった属性名が並べられる。


「相手が一属性を使う場合、対応は比較的単純だ」


 教師が言う。


「火なら距離と防御。水なら足場と流れ。風なら軌道。土なら圧と遮蔽」


 生徒たちは真剣に聞いている。


「だが複数属性を扱う相手は、相手の一手目だけで判断すると遅れる」


 アルトのことだ。


 言葉にしなくても、全員がそう感じる。


 教師は続ける。


「特に未熟な複数属性者は、一見すると荒い。だが荒いがゆえに定石から外れる」


 教室が静まり返る。


「そこで必要なのは、相手の属性を読むことではない」


 一拍。


「相手の目的を読むことだ」


 レオンはペンを止めた。


 目的。


 属性ではなく目的。


 風を使うから風に対応するのではない。

 その風で何をしたいのかを見る。


 剣筋を流すのか。

 踏み込みを軽くするのか。

 視界を遮るのか。

 距離を取るのか。


 目的を読む。


 それは自分の得意分野でもある。


 だが同時に、アルトのような相手に対しては難しい。


 本人が感覚で動くなら、目的が途中で変わることもある。


 その不確かさが、厄介だ。


「ヴォルツ」


 教師が呼ぶ。


「はい」


「複数属性者と戦う場合、初手で最も避けるべき判断は何か」


 レオンは立つ。


「一手目の属性で相手の型を決めつけることです」


「理由は」


「次手で属性も目的も変わる可能性があるからです」


「では、どうする」


「まず相手の体の動きを見ます。魔法より先に、踏み込み、視線、握り、呼吸を確認します」


「魔法ではなく身体を見る、と?」


「はい。魔法は意図を隠せますが、身体の遅れは隠しきれません」


 教師は少しだけ頷いた。


「よろしい」


 レオンが座る。


 教室の視線が集まる。


 まただ。


 最近、この瞬間が増えた。


 教師に呼ばれ、答える。

 周囲が見る。

 そしてその答えが、アルトとの対比として受け取られる。


 自分はただ授業に答えているだけだ。


 だが、周囲はそう見ない。


 レオンは静かに息を吐く。


 フィーネの言葉を思い出す。


 周りの声で戦わないでください。


 簡単ではない。


 そう思った。


    ◆


 昼休みの食堂は、まるで試合前の観客席のようだった。


 まだ何も発表されていない。


 それなのに、生徒たちは勝手に予想し、勝手に盛り上がっている。


「今日こそレオンとアルトじゃない?」

「いや、さすがにまだ早いだろ」

「でも教師も見たいはずだよな」

「上位クラスの代表格と特待生だぞ」

「もしアルトが勝ったらどうなるんだ?」

「さすがにそれはないって」


 笑い声。


 否定。

 期待。

 好奇心。


 レオンは食堂の奥の席に座り、食事を進めていた。


 味はわかる。


 だが、いつもより少し薄い気がした。


 緊張しているのか。


 そう自分に問いかけて、すぐ否定する。


 緊張ではない。


 意識しているだけだ。


 そう思う。


「食が進んでないな」


 ユーリスが言う。


「普通だ」


「便利だねぇ」


「お前はよく食べるな」


「午後に何があるかわからないからね」


「食べすぎると動けないぞ」


「俺は出ないかもしれないし」


「その余裕は羨ましいな」


「お、珍しい」


 ユーリスが目を細める。


「今の本音?」


「忘れろ」


「無理だなぁ」


 その時、エリシア・フォン・ローゼンベルクが近づいてきた。


 周囲の空気が少し変わる。


 公爵令嬢であり、レオンの婚約者。


 彼女がレオンの席へ来るだけで、周囲は自然と視線を向ける。


「レオン様」


「エリシア様」


 レオンは席を立つ。


 周囲の会話が少し静まる。


 エリシアは穏やかな笑みを浮かべていた。


 だが、その目は少し硬い。


「午後の実技確認、出られるのですか?」


「組まれれば」


「皆、あなたとアルト様が当たることを期待しているようですわね」


「そのようです」


「あなたは?」


「勝つつもりです」


 即答。


 エリシアは一瞬だけ目を細め、それから微笑む。


「ええ。それでこそ、レオン様です」


 その言葉は、褒め言葉だった。


 周囲もそう受け取った。


 だが、レオンには少しだけ重く聞こえた。


 それでこそ。


 つまり、自分はそうでなければならない。


 上位クラスのレオン・ヴォルツ。

 ヴォルツ伯爵家の次男。

 ローゼンベルク公爵家令嬢の婚約者。


 平民特待生相手に揺らぐようでは困る。


 そういう意味も、少し混じっている気がした。


「ただ」


 エリシアは声を落とす。


「相手を必要以上に評価する姿勢は、控えた方がよろしいかと」


 ユーリスが黙る。


 レオンも少しだけ沈黙した。


「なぜです」


「あなたが評価すれば、周囲は彼をさらに持ち上げます」


「実力があるなら評価されるべきです」


「それは理屈ですわ」


 エリシアの声は柔らかい。


 だが、芯は硬い。


「世の中は、理屈だけでできていません」


 またその類の言葉だ。


 レオンは最近、何度も同じ場所へ戻ってきている気がした。


 正しさ。

 見え方。

 立場。

 周囲。


「覚えておきます」


 レオンは答える。


 エリシアは満足そうに頷いた。


「期待していますわ」


 そう言って、彼女は離れていく。


 周囲の会話が少しずつ戻る。


 ユーリスが小さく言った。


「大変だな」


「何が」


「期待されるって」


 レオンは答えなかった。


 さっき自分で言ったばかりだ。


 期待されることには慣れている。


 だが、慣れていることと、重くないことは違う。


 その違いを、今少しだけ感じていた。


    ◆


 午後。


 屋外訓練場には、昨日よりさらに多くの生徒が集まっていた。


 公式な試合ではない。


 ただの実技確認。


 それでも、石段には見学者が並んでいる。


 二年生。

 中位クラス。

 下位クラス。

 教師陣。


 風が強く、訓練場の土が時折薄く舞う。


 空は晴れている。


 晴れすぎていて、逃げ場がないような光だった。


 レオンは上位クラスの列に立つ。


 少し離れた場所に、アルトがいる。


 彼もこちらを見ていた。


 目が合う。


 アルトは緊張したように、しかし逃げずに頭を下げる。


 レオンも返す。


 それだけで、周囲がざわついた。


「見た?」

「今、挨拶したよな」

「やっぱり今日あるんじゃないか」


 教師が中央へ出る。


 ざわめきが少しずつ静まる。


「本日の実技確認は、昨日までの内容を踏まえた追加観察だ」


 声が響く。


「勝敗より内容を見る。だが、勝敗が出る以上、全力でやれ」


 教師は板を持った補助教師へ合図する。


 組み合わせが書かれていく。


 一組目。

 二組目。

 三組目。


 レオンの名前はまだない。


 アルトの名前もない。


 見学席がざわつく。


 生徒たちが待っているのがわかる。


 教師は淡々と進める。


 中位クラス同士。

 上位クラス対中位クラス。

 下位クラス特待枠対中位クラス。


 何戦かが行われる。


 それぞれ内容は悪くない。


 だが、訓練場全体の意識はどこか上滑りしている。


 待っている。


 誰もが。


 その名前が呼ばれるのを。


    ◆


 三戦目が終わった後。


 教師が少しだけ間を置いた。


 風が吹く。


 土が舞う。


 その間だけで、訓練場の空気が張り詰めた。


 補助教師が板へ新しい名前を書く。


 レオン・ヴォルツ。


 ざわめきが起こる。


 続いて、もう一つの名前。


 アルト・レイヴン。


 一瞬。


 訓練場から音が消えた。


 次の瞬間、ざわめきが爆発する。


「来た!」

「本当に組まれた!」

「レオン対アルト!」

「上位クラスと平民特待生だぞ!」


 声が重なる。


 興奮。

 期待。

 好奇心。

 不安。


 フィーネが息を呑む。


 ユーリスが小さく目を細める。


 エリシアは石段の上で、静かにこちらを見ている。


 ハルトは拳を握っている。


 アルトは名前を呼ばれた瞬間、明らかに緊張した。


 それでも、一歩前へ出た。


 レオンも前へ出る。


 足元の土が、いつもより少し柔らかく感じた。


 周囲の視線が重い。


 だが、レオンはフィーネの言葉を思い出す。


 周りの声で戦わないでください。


 そうだ。


 周囲は関係ない。


 見るべきは、相手の動き。


 そして自分の剣。


 それだけだ。


    ◆


 開始線。


 レオンとアルトが向かい合う。


 距離は十歩。


 アルトの手には木剣。


 握りはまだ少し硬い。


 だが、昨日よりはましだ。


 呼吸も浅いが、整えようとしている。


 目は逃げていない。


 レオンはそれを見て、静かに言う。


「昨日より落ち着いているな」


 アルトが驚いた顔をする。


「わかるんですか」


「見ればな」


「……ありがとうございます」


「褒めたわけじゃない」


「あ、はい」


 少しだけ周囲が笑った。


 緊張の中に、小さな人間らしさが混じる。


 アルトは木剣を構え直す。


「お願いします」


「ああ」


 レオンも構える。


 その瞬間、周囲の音が少し遠くなった。


 風の音。

 観客のざわめき。

 教師の足音。


 すべてが後ろへ下がる。


 目の前には、アルトだけがいる。


 未熟な剣。

 広い属性。

 修正の速さ。

 折れない目。


 評価は済んでいる。


 あとは、剣を交えるだけだ。


 教師が手を上げる。


 訓練場が静まる。


「始め!」


    ◆


 アルトはすぐには動かなかった。


 昨日までなら、緊張に押されて先に動いていたかもしれない。


 今日は違う。


 待っている。


 レオンの動きを見ようとしている。


 それだけで、少し成長している。


 レオンは半歩進む。


 アルトの肩がわずかに動く。


 反応は早い。


 だが、まだ体が先に固まる。


 レオンは一気に詰めない。


 まず見る。


 踏み込み。

 視線。

 握り。

 呼吸。


 魔法より先に身体を見る。


 授業で答えた通りに。


 アルトの手元に、薄い風が集まる。


 来る。


 剣筋を流すのか。

 踏み込みを軽くするのか。


 レオンは少しだけ角度を変える。


 次の瞬間、アルトが風を使った。


 だが、レオンの剣を流すためではない。


 自分の後退を速くするため。


 レオンの踏み込みを誘って、空振りさせる狙い。


 昨日の敗北から学んだ動きだ。


 見学席がどよめく。


「おっ」

「今の、昨日と違う!」


 レオンは踏み込みを途中で止めた。


 誘いに乗らない。


 そのまま剣先を下げ、間合いを保つ。


 アルトの目が少し開く。


 読まれた。


 そう思ったのだろう。


「悪くない」


 レオンが言う。


「でも遅い」


 次の瞬間、レオンが入る。


 速すぎるわけではない。


 だが、無駄がない。


 アルトは水の膜を出そうとする。


 遅い。


 木剣が肩口へ止まる。


「一本」


 教師の声。


 訓練場がざわつく。


「やっぱりレオンだ」

「速い……」

「今の、魔法出す前に入ったぞ」


 アルトは肩を押さえながら、息を吐いた。


 悔しそうだ。


 だが、折れてはいない。


「もう一本」


 教師が言う。


    ◆


 二本目。


 アルトの呼吸が少し変わった。


 悔しさを押し込んでいる。


 その顔を見て、レオンは少しだけ目を細める。


 悪くない。


 一本取られても、すぐに次を見る。


 レオンは構える。


 今度はアルトが先に動いた。


 風ではない。


 土。


 足元の土をわずかに盛り上げ、レオンの踏み込み位置を狂わせようとする。


 見学席が反応する。


「土も使った!」

「本当に色々出るな!」


 だが、盛り上がりが浅い。


 魔力制御が甘い。


 レオンは足を止めず、踏む位置を変える。


 一歩横。


 アルトの目が追う。


 そこへ火の小さな揺らぎ。


 視線を奪いに来た。


 昨日使った手。


 だが、今日は少しタイミングがいい。


 成長している。


 レオンは目を細める。


 火を見るのではなく、アルトの肩を見る。


 踏み込みが来る。


 木剣が振られる。


 粗いが、昨日より迷いが少ない。


 レオンは受ける。


 乾いた音。


 その瞬間、アルトの風が剣の横を滑った。


 受けたレオンの剣を、少しだけ外へ流そうとする。


 複合。


 まだ拙い。


 だが、発想は面白い。


「っ……!」


 ほんのわずか、レオンの剣が外へ流れた。


 周囲が沸く。


「流した!」

「今、レオンの剣が動いたぞ!」


 アルトが前へ出る。


 この瞬間だけなら、確かに隙がある。


 だが。


 レオンは崩れを認めた。


 昨日の訓練が頭をよぎる。


 戻そうとしすぎるな。


 崩れた形から、別の形へ。


 レオンは無理に元の形へ戻さない。


 流された剣をそのまま回し、体を半身にする。


 アルトの剣が空を切る。


 次の瞬間、レオンの木剣がアルトの手首へ軽く当たった。


「二本」


 静かな声。


 訓練場が大きくざわついた。


「今の何だ?」

「流されたのに、そのまま返した?」

「やっぱりレオン、対応が上手い」


 アルトは手首を見つめていた。


 今の一本は、彼にもわかったのだろう。


 自分が崩したと思った瞬間、その崩しを利用された。


 悔しさと驚きが顔に出ている。


 レオンは息を整える。


 胸の奥に、小さな熱があった。


 今のは、昨日の訓練がなければ少し遅れていたかもしれない。


 そう思った。


 崩れを認める。


 そこから変える。


 できた。


 それは、小さな手応えだった。


    ◆


 三本目。


 アルトは構えたまま、少し長く呼吸を整えた。


 周囲は静かになっている。


 もう誰も、軽い見世物として見ていなかった。


 レオンが二本取っている。


 実力差はある。


 だが、アルトもただ負けているわけではない。


 何かを試し、何かを学び、何かを変えようとしている。


 その姿が、訓練場の空気を変えていた。


 教師も黙っている。


 ハルトは歯を食いしばっている。


 フィーネは両手を胸の前で握っていた。


 ユーリスは表情を消して見ている。


 エリシアは、静かな微笑みのまま、しかし目だけは鋭い。


 全員が見ている。


 レオンは、それを意識から外した。


 目の前のアルトだけを見る。


「最後だ」


 レオンが言う。


「はい」


 アルトの返事は、震えていなかった。


「行きます」


 その言葉と同時に、アルトが踏み込む。


 風で加速。

 土で足場固定。

 火で視線誘導。


 同時ではない。


 順番に、だが速く。


 昨日より明らかにまとまっている。


 レオンは受けに回らない。


 前へ出る。


 アルトの魔法は、距離があるほど面倒だ。


 なら詰める。


 ただし、真正面ではない。


 半歩外。

 肩を見る。

 呼吸を見る。


 アルトは水を出そうとした。


 足元を滑らせるつもりか。


 レオンはそこで止まった。


 止まるとは思っていなかったのだろう。


 アルトの魔法が一瞬空を掴む。


 そこへレオンが入る。


 木剣が、アルトの胸元で止まった。


「三本。勝負あり」


 静寂。


 そして、歓声ではなく、大きなどよめきが起きた。


「レオンの勝ちだ」

「やっぱり強い」

「でもアルトもかなり粘ったぞ」

「三本取られたけど、動き変えてた」

「見応えあった……」


 勝敗は明確だった。


 レオンの勝ち。


 実力差はまだある。


 それは誰の目にも明らかだった。


 だが、アルトも価値を落とさなかった。


 むしろ、また評価を得た。


 それが訓練場の空気に滲んでいる。


 レオンは木剣を下ろす。


 アルトは息を切らしながら、深く頭を下げた。


「ありがとうございました!」


「ああ」


 レオンは頷く。


「昨日より良かった」


 アルトが顔を上げる。


「本当ですか?」


「嘘を言う理由がない」


 アルトの顔が少し明るくなる。


「ありがとうございます!」


「ただし、まだ剣が遅い。魔法を考えすぎると体が止まる」


「はい!」


「あと、最後の水は読めた」


「うっ……はい」


 周囲が少し笑った。


 緊張が解ける。


 だが、その笑いは馬鹿にするものではなかった。


 レオンはそれを感じ取る。


 この少年は、負けても人を惹きつける。


 それが少しだけ、胸に残った。


    ◆


 総評。


 教師が中央へ立つ。


「今の試合について言う」


 全員が静まる。


「勝者はヴォルツ。内容も安定していた」


 当然の評価。


 だが、教師は続けた。


「特に二本目。崩された形を戻すのではなく、別の形へ変えた点は良い」


 レオンは静かに聞く。


 昨日の課題が、評価された。


 それは確かに嬉しかった。


「レイヴン」


「はい!」


「負けだ」


「はい」


「だが、一戦の中で変えようとしていた。そこは評価する」


 アルトの顔が少し引き締まる。


「ただし、魔法に頼りすぎるな。剣が遅い。身体が魔法に追いついていない」


「はい!」


「以上」


 短い総評。


 だが、十分だった。


 見学席がざわつく。


 レオンは勝った。


 アルトは負けた。


 それなのに、どちらも評価された。


 それが、この試合の結論だった。


 ハルトにとっては面白くない結果だろう。


 エリシアにとっても、少し複雑かもしれない。


 ユーリスは、どこか納得した顔をしている。


 フィーネは、ほっとしたように息を吐いていた。


    ◆


 訓練後。


 レオンは木剣を返却していた。


 そこへフィーネが駆け寄ってくる。


「お疲れ様でした」


「ああ」


「勝ちましたね」


「勝ったな」


「……すごかったです」


「そうか」


「はい」


 フィーネは少しだけ息を整えてから言った。


「二本目、昨日の課題をちゃんと使ってましたよね」


「見えていたのか」


「はい」


 一拍。


「崩れたことを、ちゃんと認めた感じがしました」


 レオンは少しだけ驚いた。


 よく見ている。


 教師と同じところを、彼女も見ていた。


「そうだな」


 レオンは言う。


「少し、できた」


 フィーネの表情が明るくなる。


「それ、すごくいいと思います」


「褒めすぎだ」


「いいじゃないですか。勝ったんですから」


「勝っただけだ」


「その勝っただけが大事なんです」


 フィーネはまっすぐ言った。


「周りの声で戦わないでって言いましたけど……今日のレオンさんは、ちゃんと自分の剣で戦ってたと思います」


 その言葉は、胸に残った。


 周囲の声ではなく、自分の剣で。


 それができていたなら、今日の試合には意味がある。


「……ありがとう」


 レオンが言う。


 フィーネが少し目を丸くする。


「今、素直にお礼言いました?」


「言った」


「珍しいです」


「取り消すぞ」


「だめです。受け取りました」


 フィーネは小さく笑った。


 その笑いは、今日の緊張を少しだけ溶かした。


    ◆


 少し離れた場所で、エリシアがこちらを見ていた。


 目が合う。


 彼女は微笑む。


 レオンは軽く会釈を返す。


 その微笑みは美しい。


 だが、どこか読み取れないものがあった。


 勝利への安堵か。

 婚約者としての誇りか。

 それとも、アルトが負けても評価されたことへの不満か。


 わからない。


 今は考えないことにした。


 その代わり、ユーリスが近づいてくる。


「良かったな」


「ああ」


「二本目、ちゃんと昨日の課題使ってた」


「お前もそれか」


「見てたからね」


「見すぎだ」


「友人だから」


 軽く言った言葉だった。


 だが、レオンは少しだけ黙った。


 友人。


 ユーリスはそう言った。


 その言葉を、レオンは普段あまり意識しない。


 同じ上位クラスの生徒。

 よく話す相手。

 面倒な軽口を言う男。


 その程度だった。


 だが、友人と言われると、少し違って聞こえる。


「何だよ」


 ユーリスが苦笑する。


「そんな変な顔すること?」


「いや」


 レオンは短く返す。


「悪くない」


「何が」


「友人という言い方」


 ユーリスは一瞬きょとんとした後、笑った。


「ほんと、たまに変なところで素直だな」


「うるさい」


    ◆


 その夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いていた。


 今日は、ペンが止まらなかった。


 レオン対アルト。


 結果、三本勝利。


 一本目、魔法発動前に詰める。

 二本目、風による剣流し。崩れを認め、戻さず半身へ変化。

 三本目、複数属性連携。距離を潰して勝利。


 教師評価。


 崩れた形から別の形へ変えた点、良し。


 アルト評価。


 昨日より明確に成長。魔法の使い分け増加。剣は遅い。身体が追いついていない。負けても折れない。


 そこまで書いて、レオンはペンを止めた。


 勝った。


 自分は勝った。


 周囲もそれを見た。


 上位クラスのレオン・ヴォルツは、平民特待生アルト・レイヴンに勝った。


 それは、事実だ。


 胸の奥には安堵がある。


 認めたくないほど、確かにある。


 勝って当然だと思っていた。


 それでも、勝ったことで少し軽くなった。


 つまり、自分はそれだけ意識していたのだ。


 レオンは椅子にもたれた。


 窓の外は静かだった。


 夜の学園。

 遠くの灯り。

 風で揺れる木々。


 今日、自分は勝った。


 だが、完全に終わった気はしない。


 むしろ始まった気がする。


 アルトは負けても評価を落とさなかった。


 教師も見ていた。

 生徒たちも見ていた。

 彼が伸びることを、誰もが感じていた。


 今日の勝利は、現在の勝利だ。


 未来の勝利ではない。


 そのことを、レオンは理解していた。


 理解してしまっていた。


 手帳の最後に、一行を書く。


 アルト・レイヴン――今は勝った。次も勝つには、積む必要あり。


 書いてから、レオンは小さく息を吐いた。


 今は勝った。


 その言葉が、少しだけ引っかかる。


 以前なら、ただ「勝った」と書いただろう。


 今なら、などつけなかった。


 だが今日の自分は、それを書いた。


 自分でもわかっている。


 アルトは伸びる。


 そして自分も、同じ場所に立ったままではいられない。


 挑まれる側にいるだけでは、いずれ追いつかれる。


 いや、追い越されるかもしれない。


 レオンは手帳を閉じる。


 まだ負けていない。


 むしろ今日は勝った。


 だが、敗北の影は消えなかった。


 それは今日、アルトを倒したことで遠ざかったように見えて、実際には形を変えて残った。


 次も勝てるのか。


 その問いとして。


 静かな夜の中、レオン・ヴォルツは初めてはっきりと理解した。


 勝利しても、不安は消えないことがある。


 そしてその不安こそが、自分を次へ進ませるものなのだと。


 まだ彼は知らない。


 やがて本当に敗北する日が来ることを。


 その時、今日の勝利すら、周囲の掌返しの材料に変えられてしまうことを。


 けれど今夜だけは。


 彼はまだ、勝者だった。


 上位クラスの席に座る者として。


 婚約者に微笑まれる者として。


 友人に勝利を認められる者として。


 そして、平民特待生に「今は」勝った者として。


 レオンは静かに灯りを落とした。


 部屋に夜が満ちる。


 窓の外で、風が木々を揺らす。


 その音の中に、遠い未来で何かが崩れる気配が混じっていることに、彼はまだ気づかない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ