第七話
朝から、学園の空気は妙に軽かった。
軽い、というより浮いていた。
王立グランセル魔導学園の石造りの廊下には、いつものように朝日が差し込んでいる。
窓辺の花瓶には淡い青の花が飾られ、壁の紋章旗は静かに垂れ、遠くの訓練場からは剣を振る音が規則正しく響いていた。
何も変わっていない。
けれど、生徒たちの声だけが少し違う。
抑えきれない期待。
誰かが何かを起こすのを待つような視線。
昨日より少しだけ早く歩く足音。
廊下の端で、二年生が一年生に声をかけている。
「今日、また合同確認あるって本当?」
「いや、上位クラス中心らしいぞ」
「でも例の特待生も呼ばれてるって聞いた」
「じゃあ、ついに当たるんじゃないか?」
何が、とは言わない。
だが誰のことかは、すぐにわかる。
レオン・ヴォルツ。
アルト・レイヴン。
まだ一度も対戦していない二人。
だが、学園の空気はもう勝手に二人を並べていた。
上位クラスの安定した実力者。
平民出身の全属性特待生。
積み上げた剣と魔法。
未完成だが眩しい才能。
人は、わかりやすい対比を好む。
誰かが勝手に比べる。
誰かが勝手に期待する。
誰かが勝手に舞台を作る。
その舞台に立つ本人たちの気持ちなど、あまり関係ない。
レオンは東棟へ続く回廊を歩きながら、そうした声を聞いていた。
灰色の制服。
胸元の銀糸徽章。
整えた髪。
いつも通りの歩幅。
周囲の視線が、自分に触れているのがわかる。
昨日より多い。
そして、昨日より遠慮がない。
「完全に見られてるねぇ」
隣を歩くユーリス・ベルクが言った。
いつもの軽い声。
だが、今日はその軽さの中にも少しだけ緊張が混じっている。
「暇な奴らだ」
レオンが返す。
「そう言えるのがすごいよ」
「事実だろ」
「でも、お前も気づいてるだろ」
「何に」
「今日、組まれるかもしれないって」
レオンは少しだけ沈黙した。
歩幅は変えない。
だが、その沈黙だけで答えになった。
ユーリスは小さく息を吐く。
「やっぱりな」
「可能性はある」
「勝てる?」
「勝つ」
即答だった。
迷いはない。
少なくとも、声には。
ユーリスは横目でレオンを見る。
「その答えを聞くと安心するやつと、不安になるやつがいるだろうな」
「どういう意味だ」
「レオンらしいって安心する」
「でも、レオンらしすぎて不安になる」
レオンは眉を寄せる。
「またそれか」
「最近、みんな言ってるだろ?」
「言われすぎて飽きてきた」
「じゃあ少し考えてる証拠だ」
「面倒な言い方だな」
ユーリスは肩をすくめる。
「俺は、お前が勝つところを見たいよ」
その声は、珍しくまっすぐだった。
レオンは横を見る。
ユーリスは笑っていた。
けれど、その笑顔の奥は軽くない。
「そうか」
「ああ」
「なら見ていろ」
レオンは前を見る。
その答えは自然に出た。
いつものように。
だが、胸の奥では昨日書いた手帳の言葉が、まだ消えずに残っていた。
崩れを認めるのが遅い。
戻そうとしすぎる。
崩れた形から、別の形へ。
アルト・レイヴン――負けた後の修正が早い。見習う点あり。
見習う点。
その言葉を、自分は書いた。
消さなかった。
その事実が、朝からずっと胸の奥で小さく熱を持っている。
◆
上位クラスの教室は、普段より早く生徒が揃っていた。
それだけで、皆が今日を意識していることがわかる。
机の上に教本を広げている者。
魔法陣の確認をしている者。
剣術の手順を空中で小さくなぞっている者。
だが、集中しているようで、視線は時々入り口へ向かう。
誰かを待っている。
教師を。
発表を。
午後の予定を。
そして、おそらくは対戦表を。
レオンが席に座ると、少し離れた場所でハルト・グレイナーがこちらを見た。
目が合う。
ハルトの目には、まだ屈辱が残っている。
だが昨日までより、少しだけ違う色もあった。
期待。
いや、願望に近い。
レオンがアルトを倒せば、自分の敗北は少しだけ軽くなる。
少なくとも、あれは相手が規格外だったのだと周囲に思わせられる。
そういう感情が見える。
レオンは、その視線が少し不快だった。
自分は誰かの敗北を薄めるために戦うわけではない。
勝つなら、自分のために勝つ。
上位クラスの一員として。
ヴォルツ伯爵家の次男として。
積み上げてきたものを示すために。
そう思った。
「おはようございます」
フィーネ・ルークが近づいてくる。
今日はいつもより少し緊張した顔だった。
「ああ」
「今日、何かありますよね」
「たぶんな」
「やっぱり……」
フィーネは少しだけ声を落とす。
「みんな、レオンさんとアルトさんが当たるんじゃないかって話してます」
「廊下でも聞いた」
「嫌じゃないですか?」
「何が」
「勝手に期待されるの」
レオンは少し考える。
「面倒ではある」
「嫌ではないんですか」
「期待されることには慣れている」
フィーネは一瞬、返す言葉を失った。
それは傲慢に聞こえる言葉だった。
だが同時に、事実でもある。
レオンはずっと期待されてきた。
家から。
教師から。
同級生から。
婚約者の家から。
期待される側にいることが、彼にとっては普通だった。
だからこそ、そこに疲れや恐怖があることに、まだ深く気づいていない。
「……レオンさんらしいです」
フィーネが小さく言う。
「悪い意味か」
「半分です」
「もう半分は?」
「それでも、ちゃんと期待に応えようとするところはすごいと思います」
レオンは少しだけ黙る。
そう言われると、返しに困る。
「褒めているのか」
「はい」
「なら、受け取っておく」
フィーネが少し笑った。
「最近、素直ですね」
「注意され続けているからな」
「私のせいですか?」
「一部は」
「じゃあ、今日も一つだけ」
「まだあるのか」
「あります」
フィーネは真面目な顔になる。
「もしアルトさんと当たっても、周りの声で戦わないでください」
その言葉に、レオンは視線を上げた。
「周りの声?」
「はい」
「俺がそんなふうに見えるか」
「普段は見えません」
一拍。
「でも最近、少しだけ見えます」
沈黙。
教室のざわめきが、ほんの少し遠くなる。
フィーネは続ける。
「みんなが勝手に比べて、勝手に期待して、勝手に盛り上がっています」
「でも、それに全部応えようとすると、たぶん苦しいです」
「……経験者みたいに言うな」
「経験はないです」
「ならなぜわかる」
「見ていて、そう思うからです」
まっすぐだった。
少し困るほどに。
レオンは机の上に置いた手帳へ視線を落とす。
開いてはいない。
だが、昨日の文字がそこにある気がした。
崩れた形から、別の形へ。
「覚えておく」
レオンが言う。
フィーネは小さく頷いた。
「はい」
その短いやり取りを、ユーリスが隣で黙って聞いていた。
今日は茶化さなかった。
それが逆に、少しだけ重かった。
◆
一限目の魔法実践理論。
教師は、今日の午後の実技確認を前提にしたような授業を行った。
題目は、対人戦における属性適性の読み違い。
黒板には、火、水、風、土、雷、氷、光、闇といった属性名が並べられる。
「相手が一属性を使う場合、対応は比較的単純だ」
教師が言う。
「火なら距離と防御。水なら足場と流れ。風なら軌道。土なら圧と遮蔽」
生徒たちは真剣に聞いている。
「だが複数属性を扱う相手は、相手の一手目だけで判断すると遅れる」
アルトのことだ。
言葉にしなくても、全員がそう感じる。
教師は続ける。
「特に未熟な複数属性者は、一見すると荒い。だが荒いがゆえに定石から外れる」
教室が静まり返る。
「そこで必要なのは、相手の属性を読むことではない」
一拍。
「相手の目的を読むことだ」
レオンはペンを止めた。
目的。
属性ではなく目的。
風を使うから風に対応するのではない。
その風で何をしたいのかを見る。
剣筋を流すのか。
踏み込みを軽くするのか。
視界を遮るのか。
距離を取るのか。
目的を読む。
それは自分の得意分野でもある。
だが同時に、アルトのような相手に対しては難しい。
本人が感覚で動くなら、目的が途中で変わることもある。
その不確かさが、厄介だ。
「ヴォルツ」
教師が呼ぶ。
「はい」
「複数属性者と戦う場合、初手で最も避けるべき判断は何か」
レオンは立つ。
「一手目の属性で相手の型を決めつけることです」
「理由は」
「次手で属性も目的も変わる可能性があるからです」
「では、どうする」
「まず相手の体の動きを見ます。魔法より先に、踏み込み、視線、握り、呼吸を確認します」
「魔法ではなく身体を見る、と?」
「はい。魔法は意図を隠せますが、身体の遅れは隠しきれません」
教師は少しだけ頷いた。
「よろしい」
レオンが座る。
教室の視線が集まる。
まただ。
最近、この瞬間が増えた。
教師に呼ばれ、答える。
周囲が見る。
そしてその答えが、アルトとの対比として受け取られる。
自分はただ授業に答えているだけだ。
だが、周囲はそう見ない。
レオンは静かに息を吐く。
フィーネの言葉を思い出す。
周りの声で戦わないでください。
簡単ではない。
そう思った。
◆
昼休みの食堂は、まるで試合前の観客席のようだった。
まだ何も発表されていない。
それなのに、生徒たちは勝手に予想し、勝手に盛り上がっている。
「今日こそレオンとアルトじゃない?」
「いや、さすがにまだ早いだろ」
「でも教師も見たいはずだよな」
「上位クラスの代表格と特待生だぞ」
「もしアルトが勝ったらどうなるんだ?」
「さすがにそれはないって」
笑い声。
否定。
期待。
好奇心。
レオンは食堂の奥の席に座り、食事を進めていた。
味はわかる。
だが、いつもより少し薄い気がした。
緊張しているのか。
そう自分に問いかけて、すぐ否定する。
緊張ではない。
意識しているだけだ。
そう思う。
「食が進んでないな」
ユーリスが言う。
「普通だ」
「便利だねぇ」
「お前はよく食べるな」
「午後に何があるかわからないからね」
「食べすぎると動けないぞ」
「俺は出ないかもしれないし」
「その余裕は羨ましいな」
「お、珍しい」
ユーリスが目を細める。
「今の本音?」
「忘れろ」
「無理だなぁ」
その時、エリシア・フォン・ローゼンベルクが近づいてきた。
周囲の空気が少し変わる。
公爵令嬢であり、レオンの婚約者。
彼女がレオンの席へ来るだけで、周囲は自然と視線を向ける。
「レオン様」
「エリシア様」
レオンは席を立つ。
周囲の会話が少し静まる。
エリシアは穏やかな笑みを浮かべていた。
だが、その目は少し硬い。
「午後の実技確認、出られるのですか?」
「組まれれば」
「皆、あなたとアルト様が当たることを期待しているようですわね」
「そのようです」
「あなたは?」
「勝つつもりです」
即答。
エリシアは一瞬だけ目を細め、それから微笑む。
「ええ。それでこそ、レオン様です」
その言葉は、褒め言葉だった。
周囲もそう受け取った。
だが、レオンには少しだけ重く聞こえた。
それでこそ。
つまり、自分はそうでなければならない。
上位クラスのレオン・ヴォルツ。
ヴォルツ伯爵家の次男。
ローゼンベルク公爵家令嬢の婚約者。
平民特待生相手に揺らぐようでは困る。
そういう意味も、少し混じっている気がした。
「ただ」
エリシアは声を落とす。
「相手を必要以上に評価する姿勢は、控えた方がよろしいかと」
ユーリスが黙る。
レオンも少しだけ沈黙した。
「なぜです」
「あなたが評価すれば、周囲は彼をさらに持ち上げます」
「実力があるなら評価されるべきです」
「それは理屈ですわ」
エリシアの声は柔らかい。
だが、芯は硬い。
「世の中は、理屈だけでできていません」
またその類の言葉だ。
レオンは最近、何度も同じ場所へ戻ってきている気がした。
正しさ。
見え方。
立場。
周囲。
「覚えておきます」
レオンは答える。
エリシアは満足そうに頷いた。
「期待していますわ」
そう言って、彼女は離れていく。
周囲の会話が少しずつ戻る。
ユーリスが小さく言った。
「大変だな」
「何が」
「期待されるって」
レオンは答えなかった。
さっき自分で言ったばかりだ。
期待されることには慣れている。
だが、慣れていることと、重くないことは違う。
その違いを、今少しだけ感じていた。
◆
午後。
屋外訓練場には、昨日よりさらに多くの生徒が集まっていた。
公式な試合ではない。
ただの実技確認。
それでも、石段には見学者が並んでいる。
二年生。
中位クラス。
下位クラス。
教師陣。
風が強く、訓練場の土が時折薄く舞う。
空は晴れている。
晴れすぎていて、逃げ場がないような光だった。
レオンは上位クラスの列に立つ。
少し離れた場所に、アルトがいる。
彼もこちらを見ていた。
目が合う。
アルトは緊張したように、しかし逃げずに頭を下げる。
レオンも返す。
それだけで、周囲がざわついた。
「見た?」
「今、挨拶したよな」
「やっぱり今日あるんじゃないか」
教師が中央へ出る。
ざわめきが少しずつ静まる。
「本日の実技確認は、昨日までの内容を踏まえた追加観察だ」
声が響く。
「勝敗より内容を見る。だが、勝敗が出る以上、全力でやれ」
教師は板を持った補助教師へ合図する。
組み合わせが書かれていく。
一組目。
二組目。
三組目。
レオンの名前はまだない。
アルトの名前もない。
見学席がざわつく。
生徒たちが待っているのがわかる。
教師は淡々と進める。
中位クラス同士。
上位クラス対中位クラス。
下位クラス特待枠対中位クラス。
何戦かが行われる。
それぞれ内容は悪くない。
だが、訓練場全体の意識はどこか上滑りしている。
待っている。
誰もが。
その名前が呼ばれるのを。
◆
三戦目が終わった後。
教師が少しだけ間を置いた。
風が吹く。
土が舞う。
その間だけで、訓練場の空気が張り詰めた。
補助教師が板へ新しい名前を書く。
レオン・ヴォルツ。
ざわめきが起こる。
続いて、もう一つの名前。
アルト・レイヴン。
一瞬。
訓練場から音が消えた。
次の瞬間、ざわめきが爆発する。
「来た!」
「本当に組まれた!」
「レオン対アルト!」
「上位クラスと平民特待生だぞ!」
声が重なる。
興奮。
期待。
好奇心。
不安。
フィーネが息を呑む。
ユーリスが小さく目を細める。
エリシアは石段の上で、静かにこちらを見ている。
ハルトは拳を握っている。
アルトは名前を呼ばれた瞬間、明らかに緊張した。
それでも、一歩前へ出た。
レオンも前へ出る。
足元の土が、いつもより少し柔らかく感じた。
周囲の視線が重い。
だが、レオンはフィーネの言葉を思い出す。
周りの声で戦わないでください。
そうだ。
周囲は関係ない。
見るべきは、相手の動き。
そして自分の剣。
それだけだ。
◆
開始線。
レオンとアルトが向かい合う。
距離は十歩。
アルトの手には木剣。
握りはまだ少し硬い。
だが、昨日よりはましだ。
呼吸も浅いが、整えようとしている。
目は逃げていない。
レオンはそれを見て、静かに言う。
「昨日より落ち着いているな」
アルトが驚いた顔をする。
「わかるんですか」
「見ればな」
「……ありがとうございます」
「褒めたわけじゃない」
「あ、はい」
少しだけ周囲が笑った。
緊張の中に、小さな人間らしさが混じる。
アルトは木剣を構え直す。
「お願いします」
「ああ」
レオンも構える。
その瞬間、周囲の音が少し遠くなった。
風の音。
観客のざわめき。
教師の足音。
すべてが後ろへ下がる。
目の前には、アルトだけがいる。
未熟な剣。
広い属性。
修正の速さ。
折れない目。
評価は済んでいる。
あとは、剣を交えるだけだ。
教師が手を上げる。
訓練場が静まる。
「始め!」
◆
アルトはすぐには動かなかった。
昨日までなら、緊張に押されて先に動いていたかもしれない。
今日は違う。
待っている。
レオンの動きを見ようとしている。
それだけで、少し成長している。
レオンは半歩進む。
アルトの肩がわずかに動く。
反応は早い。
だが、まだ体が先に固まる。
レオンは一気に詰めない。
まず見る。
踏み込み。
視線。
握り。
呼吸。
魔法より先に身体を見る。
授業で答えた通りに。
アルトの手元に、薄い風が集まる。
来る。
剣筋を流すのか。
踏み込みを軽くするのか。
レオンは少しだけ角度を変える。
次の瞬間、アルトが風を使った。
だが、レオンの剣を流すためではない。
自分の後退を速くするため。
レオンの踏み込みを誘って、空振りさせる狙い。
昨日の敗北から学んだ動きだ。
見学席がどよめく。
「おっ」
「今の、昨日と違う!」
レオンは踏み込みを途中で止めた。
誘いに乗らない。
そのまま剣先を下げ、間合いを保つ。
アルトの目が少し開く。
読まれた。
そう思ったのだろう。
「悪くない」
レオンが言う。
「でも遅い」
次の瞬間、レオンが入る。
速すぎるわけではない。
だが、無駄がない。
アルトは水の膜を出そうとする。
遅い。
木剣が肩口へ止まる。
「一本」
教師の声。
訓練場がざわつく。
「やっぱりレオンだ」
「速い……」
「今の、魔法出す前に入ったぞ」
アルトは肩を押さえながら、息を吐いた。
悔しそうだ。
だが、折れてはいない。
「もう一本」
教師が言う。
◆
二本目。
アルトの呼吸が少し変わった。
悔しさを押し込んでいる。
その顔を見て、レオンは少しだけ目を細める。
悪くない。
一本取られても、すぐに次を見る。
レオンは構える。
今度はアルトが先に動いた。
風ではない。
土。
足元の土をわずかに盛り上げ、レオンの踏み込み位置を狂わせようとする。
見学席が反応する。
「土も使った!」
「本当に色々出るな!」
だが、盛り上がりが浅い。
魔力制御が甘い。
レオンは足を止めず、踏む位置を変える。
一歩横。
アルトの目が追う。
そこへ火の小さな揺らぎ。
視線を奪いに来た。
昨日使った手。
だが、今日は少しタイミングがいい。
成長している。
レオンは目を細める。
火を見るのではなく、アルトの肩を見る。
踏み込みが来る。
木剣が振られる。
粗いが、昨日より迷いが少ない。
レオンは受ける。
乾いた音。
その瞬間、アルトの風が剣の横を滑った。
受けたレオンの剣を、少しだけ外へ流そうとする。
複合。
まだ拙い。
だが、発想は面白い。
「っ……!」
ほんのわずか、レオンの剣が外へ流れた。
周囲が沸く。
「流した!」
「今、レオンの剣が動いたぞ!」
アルトが前へ出る。
この瞬間だけなら、確かに隙がある。
だが。
レオンは崩れを認めた。
昨日の訓練が頭をよぎる。
戻そうとしすぎるな。
崩れた形から、別の形へ。
レオンは無理に元の形へ戻さない。
流された剣をそのまま回し、体を半身にする。
アルトの剣が空を切る。
次の瞬間、レオンの木剣がアルトの手首へ軽く当たった。
「二本」
静かな声。
訓練場が大きくざわついた。
「今の何だ?」
「流されたのに、そのまま返した?」
「やっぱりレオン、対応が上手い」
アルトは手首を見つめていた。
今の一本は、彼にもわかったのだろう。
自分が崩したと思った瞬間、その崩しを利用された。
悔しさと驚きが顔に出ている。
レオンは息を整える。
胸の奥に、小さな熱があった。
今のは、昨日の訓練がなければ少し遅れていたかもしれない。
そう思った。
崩れを認める。
そこから変える。
できた。
それは、小さな手応えだった。
◆
三本目。
アルトは構えたまま、少し長く呼吸を整えた。
周囲は静かになっている。
もう誰も、軽い見世物として見ていなかった。
レオンが二本取っている。
実力差はある。
だが、アルトもただ負けているわけではない。
何かを試し、何かを学び、何かを変えようとしている。
その姿が、訓練場の空気を変えていた。
教師も黙っている。
ハルトは歯を食いしばっている。
フィーネは両手を胸の前で握っていた。
ユーリスは表情を消して見ている。
エリシアは、静かな微笑みのまま、しかし目だけは鋭い。
全員が見ている。
レオンは、それを意識から外した。
目の前のアルトだけを見る。
「最後だ」
レオンが言う。
「はい」
アルトの返事は、震えていなかった。
「行きます」
その言葉と同時に、アルトが踏み込む。
風で加速。
土で足場固定。
火で視線誘導。
同時ではない。
順番に、だが速く。
昨日より明らかにまとまっている。
レオンは受けに回らない。
前へ出る。
アルトの魔法は、距離があるほど面倒だ。
なら詰める。
ただし、真正面ではない。
半歩外。
肩を見る。
呼吸を見る。
アルトは水を出そうとした。
足元を滑らせるつもりか。
レオンはそこで止まった。
止まるとは思っていなかったのだろう。
アルトの魔法が一瞬空を掴む。
そこへレオンが入る。
木剣が、アルトの胸元で止まった。
「三本。勝負あり」
静寂。
そして、歓声ではなく、大きなどよめきが起きた。
「レオンの勝ちだ」
「やっぱり強い」
「でもアルトもかなり粘ったぞ」
「三本取られたけど、動き変えてた」
「見応えあった……」
勝敗は明確だった。
レオンの勝ち。
実力差はまだある。
それは誰の目にも明らかだった。
だが、アルトも価値を落とさなかった。
むしろ、また評価を得た。
それが訓練場の空気に滲んでいる。
レオンは木剣を下ろす。
アルトは息を切らしながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「ああ」
レオンは頷く。
「昨日より良かった」
アルトが顔を上げる。
「本当ですか?」
「嘘を言う理由がない」
アルトの顔が少し明るくなる。
「ありがとうございます!」
「ただし、まだ剣が遅い。魔法を考えすぎると体が止まる」
「はい!」
「あと、最後の水は読めた」
「うっ……はい」
周囲が少し笑った。
緊張が解ける。
だが、その笑いは馬鹿にするものではなかった。
レオンはそれを感じ取る。
この少年は、負けても人を惹きつける。
それが少しだけ、胸に残った。
◆
総評。
教師が中央へ立つ。
「今の試合について言う」
全員が静まる。
「勝者はヴォルツ。内容も安定していた」
当然の評価。
だが、教師は続けた。
「特に二本目。崩された形を戻すのではなく、別の形へ変えた点は良い」
レオンは静かに聞く。
昨日の課題が、評価された。
それは確かに嬉しかった。
「レイヴン」
「はい!」
「負けだ」
「はい」
「だが、一戦の中で変えようとしていた。そこは評価する」
アルトの顔が少し引き締まる。
「ただし、魔法に頼りすぎるな。剣が遅い。身体が魔法に追いついていない」
「はい!」
「以上」
短い総評。
だが、十分だった。
見学席がざわつく。
レオンは勝った。
アルトは負けた。
それなのに、どちらも評価された。
それが、この試合の結論だった。
ハルトにとっては面白くない結果だろう。
エリシアにとっても、少し複雑かもしれない。
ユーリスは、どこか納得した顔をしている。
フィーネは、ほっとしたように息を吐いていた。
◆
訓練後。
レオンは木剣を返却していた。
そこへフィーネが駆け寄ってくる。
「お疲れ様でした」
「ああ」
「勝ちましたね」
「勝ったな」
「……すごかったです」
「そうか」
「はい」
フィーネは少しだけ息を整えてから言った。
「二本目、昨日の課題をちゃんと使ってましたよね」
「見えていたのか」
「はい」
一拍。
「崩れたことを、ちゃんと認めた感じがしました」
レオンは少しだけ驚いた。
よく見ている。
教師と同じところを、彼女も見ていた。
「そうだな」
レオンは言う。
「少し、できた」
フィーネの表情が明るくなる。
「それ、すごくいいと思います」
「褒めすぎだ」
「いいじゃないですか。勝ったんですから」
「勝っただけだ」
「その勝っただけが大事なんです」
フィーネはまっすぐ言った。
「周りの声で戦わないでって言いましたけど……今日のレオンさんは、ちゃんと自分の剣で戦ってたと思います」
その言葉は、胸に残った。
周囲の声ではなく、自分の剣で。
それができていたなら、今日の試合には意味がある。
「……ありがとう」
レオンが言う。
フィーネが少し目を丸くする。
「今、素直にお礼言いました?」
「言った」
「珍しいです」
「取り消すぞ」
「だめです。受け取りました」
フィーネは小さく笑った。
その笑いは、今日の緊張を少しだけ溶かした。
◆
少し離れた場所で、エリシアがこちらを見ていた。
目が合う。
彼女は微笑む。
レオンは軽く会釈を返す。
その微笑みは美しい。
だが、どこか読み取れないものがあった。
勝利への安堵か。
婚約者としての誇りか。
それとも、アルトが負けても評価されたことへの不満か。
わからない。
今は考えないことにした。
その代わり、ユーリスが近づいてくる。
「良かったな」
「ああ」
「二本目、ちゃんと昨日の課題使ってた」
「お前もそれか」
「見てたからね」
「見すぎだ」
「友人だから」
軽く言った言葉だった。
だが、レオンは少しだけ黙った。
友人。
ユーリスはそう言った。
その言葉を、レオンは普段あまり意識しない。
同じ上位クラスの生徒。
よく話す相手。
面倒な軽口を言う男。
その程度だった。
だが、友人と言われると、少し違って聞こえる。
「何だよ」
ユーリスが苦笑する。
「そんな変な顔すること?」
「いや」
レオンは短く返す。
「悪くない」
「何が」
「友人という言い方」
ユーリスは一瞬きょとんとした後、笑った。
「ほんと、たまに変なところで素直だな」
「うるさい」
◆
その夜。
学生寮の部屋。
レオンは手帳を開いていた。
今日は、ペンが止まらなかった。
レオン対アルト。
結果、三本勝利。
一本目、魔法発動前に詰める。
二本目、風による剣流し。崩れを認め、戻さず半身へ変化。
三本目、複数属性連携。距離を潰して勝利。
教師評価。
崩れた形から別の形へ変えた点、良し。
アルト評価。
昨日より明確に成長。魔法の使い分け増加。剣は遅い。身体が追いついていない。負けても折れない。
そこまで書いて、レオンはペンを止めた。
勝った。
自分は勝った。
周囲もそれを見た。
上位クラスのレオン・ヴォルツは、平民特待生アルト・レイヴンに勝った。
それは、事実だ。
胸の奥には安堵がある。
認めたくないほど、確かにある。
勝って当然だと思っていた。
それでも、勝ったことで少し軽くなった。
つまり、自分はそれだけ意識していたのだ。
レオンは椅子にもたれた。
窓の外は静かだった。
夜の学園。
遠くの灯り。
風で揺れる木々。
今日、自分は勝った。
だが、完全に終わった気はしない。
むしろ始まった気がする。
アルトは負けても評価を落とさなかった。
教師も見ていた。
生徒たちも見ていた。
彼が伸びることを、誰もが感じていた。
今日の勝利は、現在の勝利だ。
未来の勝利ではない。
そのことを、レオンは理解していた。
理解してしまっていた。
手帳の最後に、一行を書く。
アルト・レイヴン――今は勝った。次も勝つには、積む必要あり。
書いてから、レオンは小さく息を吐いた。
今は勝った。
その言葉が、少しだけ引っかかる。
以前なら、ただ「勝った」と書いただろう。
今なら、などつけなかった。
だが今日の自分は、それを書いた。
自分でもわかっている。
アルトは伸びる。
そして自分も、同じ場所に立ったままではいられない。
挑まれる側にいるだけでは、いずれ追いつかれる。
いや、追い越されるかもしれない。
レオンは手帳を閉じる。
まだ負けていない。
むしろ今日は勝った。
だが、敗北の影は消えなかった。
それは今日、アルトを倒したことで遠ざかったように見えて、実際には形を変えて残った。
次も勝てるのか。
その問いとして。
静かな夜の中、レオン・ヴォルツは初めてはっきりと理解した。
勝利しても、不安は消えないことがある。
そしてその不安こそが、自分を次へ進ませるものなのだと。
まだ彼は知らない。
やがて本当に敗北する日が来ることを。
その時、今日の勝利すら、周囲の掌返しの材料に変えられてしまうことを。
けれど今夜だけは。
彼はまだ、勝者だった。
上位クラスの席に座る者として。
婚約者に微笑まれる者として。
友人に勝利を認められる者として。
そして、平民特待生に「今は」勝った者として。
レオンは静かに灯りを落とした。
部屋に夜が満ちる。
窓の外で、風が木々を揺らす。
その音の中に、遠い未来で何かが崩れる気配が混じっていることに、彼はまだ気づかない。




