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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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第五十八話


 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、静かに晴れていた。


 雲は薄い。


 青の上を、白い筆で撫でたように流れている。


 朝日は校舎の石壁へ斜めに落ち、窓枠の影を廊下へ細く伸ばしていた。


 中庭の芝には夜露が残っている。


 その一粒一粒が光を受け、まだ完全に目覚めきっていない学園の中で、ひそやかに輝いていた。


 風は弱い。


 噴水の水面を、ほんの少しだけ揺らす程度だった。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 水音だけは、昨日も今日も変わらない。


 レオン・ヴォルツは、寮の部屋で手帳を開いていた。


 昨日の最後の言葉が、まだ胸に残っている。


 安心のあとに見えるものから、目を逸らさない。


 けれど、見えた不安へ今すぐ走らず、今日の足元を確かめることも、戻る力の一部だ。


 ローゼンベルク家からの一次返答は来た。


 即時班変更要求ではない。


 通常活動継続に異議なし。


 エリシア本人の認識を尊重。


 その事実は、今も確かにレオンたちを支えている。


 けれど、次が見えている。


 詳細返答は後日。


 ヴォルツ家からの反応は未着。


 父がどう読むかは、まだわからない。


 レオンは手帳の端を指でなぞった。


 昨日の講義。


 先取り。


 備えは必要。


 先取りは危険。


 まだ来ていないものを、来たものとして扱わない。


 その言葉はわかる。


 わかるのに、胸の奥は勝手に未来へ走ろうとする。


 父の顔。


 執務室の冷たい空気。


 机の上に置かれた正式記録。


 硬い文面。


 自身も班内の指摘や支援によって修正される相互的な協力関係。


 それを父が読み、眉を動かす。


 弱くなったな、と言うのか。


 学んでいる、と言うのか。


 あるいは、何も言わず、次の条件だけを突きつけるのか。


 想像は勝手に続く。


 だが、それはまだ事実ではない。


 レオンはペンを取った。


 今日の最初に書く。


 ヴォルツ家からの反応は未着。


 気になる。


 だが、未着のものに今日を渡さない。


 書き終えて、息を吐く。


 今日を渡さない。


 その言葉は、少し強かった。


 だが、今のレオンには必要だった。


 不安がある。


 備えも必要だ。


 けれど、まだ来ていないもののために、今日のフィーネの声を聞き逃してはいけない。


 アルトの支援を見落としてはいけない。


 ユーリスの沈黙に気づけないままでいてはいけない。


 今日の課題を、明日の不安へ捧げてはいけない。


 レオンは手帳を閉じた。


 灰色の制服へ袖を通す。


 空は晴れている。


 だが、胸の中にはまだ小さな雲が残っている。


 それでも、行く。


 今日を、まだ来ていないものに渡さないために。


    ◆


 寮の廊下へ出ると、空気はかなり落ち着いていた。


 ローゼンベルク家の一次返答の衝撃も、昨日より学園に馴染んでいる。


 生徒たちの声も、いつもの朝に近い。


 ただ、その中に、時折ヴォルツ家という言葉が混ざる。


「ローゼンベルク家は一旦大丈夫そうだけど」

「次はヴォルツ家だよな」

「レオンの家、どう出るんだろ」

「でも、今のところ未着なんだろ?」

「未着なら未着で、普通に過ごすしかないよな」


 普通に過ごすしかない。


 簡単に聞こえる。


 けれど、その普通が難しい。


 レオンは歩きながら、自分の胸の重さを確認する。


 事実。


 ヴォルツ家からの新たな反応は未着。


 状態。


 気になっている。


 行動。


 今日の課題を止めない。


 その三つを心の中で並べる。


 以前なら、不安と事実と行動が混ざっていた。


 今は、少しだけ分けられる。


 完全ではない。


 だが、分けようとすることはできる。


    ◆


 中庭には、フィーネ・ルークがいた。


 噴水の近く。


 今日は手帳を開いていた。


 けれど、書いてはいない。


 ページの上に指を置き、水面を見つめている。


 レオンが近づくと、彼女は顔を上げた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


 声は落ち着いていた。


 けれど、昨日より少し考え込んでいるように見える。


「今日は、少し違う不安です」


 フィーネが自分から言った。


「ヴォルツ家か」


「はい」


 彼女は頷く。


「昨日までは、ローゼンベルク家から止められないかが怖かったです。でも今は……レオンさんの家から何か来たら、どうなるのかを考えてしまいます」


「俺もだ」


 レオンは素直に答えた。


 フィーネは少しだけ目を細める。


「レオンさんがそう言ってくれると、私も言いやすいです」


「そうか」


「はい」


 彼女は手帳へ目を落とす。


「今日の私の共有は、“ヴォルツ家の反応を気にして、レオンさんの顔色を見すぎるかもしれない”です」


「俺の顔色?」


「はい」


 フィーネは少し恥ずかしそうにしながらも続ける。


「レオンさんが重くなっているか、無理していないか、気になってしまって。そうすると、課題中に見るべきものが遅れるかもしれません」


 それは、フィーネらしい不安だった。


 相手を気遣う。


 だが、その気遣いが過剰になると、自分の役割が遅れる。


 彼女はそれを理解している。


「必要なら見ていい」


 レオンは言った。


「だが、見すぎたら言え」


「はい」


「俺も、自分で言う」


 フィーネは少しだけ安心したように頷いた。


「お願いします」


    ◆


 アルト・レイヴンは、少し慎重な足取りで来た。


 今日は手帳を開いたまま歩いていない。


 胸に抱えている。


 周囲を気にしているが、昨日ほどではない。


「おはようございます」


「ああ」


「おはようございます、アルトさん」


 フィーネが返す。


 アルトは二人を見て、少しだけ口を引き結んだ。


「俺、今日の共有、もう決めました」


「何だ」


 レオンが聞く。


「ヴォルツ家の反応を考えると、支援を良く見せようとしそうです」


 フィーネが静かに頷く。


 レオンも黙って聞く。


「ローゼンベルク家は、俺たちの修正過程も見てくれたと思います。でも、ヴォルツ家が見るなら、もっとちゃんとしているところを見せないとって思ってしまって」


 一拍。


「そうすると、たぶん支援が硬くなります」


「良い共有だ」


 レオンは言った。


 アルトは少しだけ息を吐く。


「昨日までの俺なら、ちゃんとしなきゃってだけ思ってたと思います。でも今日は、良く見せようとしているって言えます」


「それは大きい」


「はい」


 アルトは手帳を開き、書く。


 良く見せようとしている。

 支援が硬くなる。

 良く見せるより、今必要な支援。


 書き終えると、少しだけ表情が落ち着いた。


    ◆


 ユーリス・ベルクは、今日は少し遅れて来た。


 いつものように軽く手を上げたが、その動作に少しだけ迷いがあった。


「おはよう」


「ああ」


「おはようございます」


「おはようございます、ユーリスさん」


 ユーリスは三人を見ると、すぐに言った。


「今日の俺、レオンを見すぎるかもしれない」


 フィーネが驚いたように瞬きをする。


「私と同じです」


「あ、やっぱり?」


 ユーリスは苦笑した。


「ヴォルツ家の話になると、レオンがどうなるか気になる。軽くした方がいいのか、黙った方がいいのか、迷う」


「迷ったら言え」


 レオンが返す。


「言う」


 ユーリスは頷いた。


「あと、俺が妙に軽くなったら、多分レオンを軽くしようとしてる」


「それは逃げか?」


「逃げかもしれないし、助けかもしれない。だから、見て判断する」


 フィーネが微笑む。


「ユーリスさんらしいですね」


「今の俺は、軽さにも確認が必要だからな」


 ユーリスは少し照れたように笑った。


 自分の軽さを疑うこと。


 けれど、否定しきらないこと。


 ユーリスもまた、少しずつ変わっている。


    ◆


 四人は噴水のそばで、今日の状態を確認した。


 レオン。


 ヴォルツ家の反応が気になる。


 だが、未着のものに今日を渡さない。


 フィーネ。


 レオンの顔色を見すぎるかもしれない。


 アルト。


 ヴォルツ家を意識して支援を良く見せようとするかもしれない。


 ユーリス。


 レオンを軽くしようとして、軽さが過剰になるかもしれない。


 フィーネが小さく言った。


「みんな、レオンさんを見ていますね」


 アルトが少し慌てる。


「あ、いや、そういう意味では」


 ユーリスが笑う。


「まあ、中心者だからな」


 レオンは三人を見た。


 見られている。


 それは少し重い。


 だが、以前のように一方的に背負わされている感じではない。


 心配されている。


 見守られている。


 必要なら戻される。


 その感覚もある。


「見ていい」


 レオンは言った。


 三人が黙る。


「だが、見すぎて自分の役割が崩れたら言え。俺も言う」


 フィーネが静かに頷いた。


「はい」


 アルトも。


「はい」


 ユーリスも。


「了解」


    ◆


 東棟へ向かう道は、穏やかだった。


 だが、レオンにはいつもより視線が多く感じられた。


 実際には、昨日までと変わらないのかもしれない。


 しかし、ヴォルツ家の反応が気になっている今、その視線が重くなる。


「ヴォルツ家、まだなんだろ」

「レオン、普通に歩いてるな」

「そりゃ歩くよ」

「でも気になるだろうな」

「ローゼンベルク家は一旦大丈夫だったから、余計に次が見えるよな」


 余計に次が見える。


 その言葉に、レオンの胸が少しだけ沈む。


 足がわずかに重くなる。


 その瞬間、ユーリスが横から小さく言った。


「今ここ」


 レオンは彼を見る。


 ユーリスは軽く笑わなかった。


 真面目な顔だった。


 フィーネも言う。


「歩幅、少し重くなりました」


 アルトも。


「俺も今、周りの声を聞きすぎました」


 レオンは息を吐いた。


「共有助かる」


 そして、歩幅を戻した。


    ◆


 教室に入ると、カイル・ローダンがいつもの席にいた。


 ハルト・グレイナーは腕を組んで、窓の外を見ている。


 レオンたちが入ると、カイルがすぐに言った。


「今日は“見られる側”の意識が強くなる日だ」


「見られる側?」


 アルトが聞く。


「ローゼンベルク家の一次返答により、一つの懸念が少し緩んだ。次に注目されるのはヴォルツ家の反応だ。つまり、レオンが見られる」


 カイルは淡々としている。


 だが、その言葉は鋭い。


「そして、レオンが見られると、第五班全体がレオンを見る」


 フィーネが小さく息を吸う。


 まさに、朝の共有そのものだった。


 ハルトが振り返る。


「見すぎると崩れるぞ」


「わかっている」


 レオンは答えた。


「わかっているならいい」


 ハルトは短く言う。


 ユーリスが少し笑う。


「ハルト、今日はすごく簡潔だな」


「長く言う必要がない」


「確かに」


 カイルが続ける。


「中心者の状態は重要だ。だが、中心者の状態だけを見る班は弱い」


 レオンはその言葉を受け取った。


「各自が自分の役割を見ながら、必要な範囲で中心者を見る。それが必要だ」


 その通りだった。


    ◆


 一限目。


 教師は黒板へ文字を書いた。


 視線。


 教室が静かになる。


「昨日まで、外部返答、安堵、先取りを扱った」


 教師は振り返る。


「今日は、視線を扱う」


 チョークで黒板に線が引かれる。


 見る。

 見すぎる。

 見落とす。


「誰かの状態を見ることは支援である」


 一拍。


「しかし、見すぎれば自分の役割を見落とす」


 レオンは静かに聞く。


「特に、中心者や当事者に外部圧がかかる時、周囲の者はその人物を見すぎる傾向がある」


 フィーネ、アルト、ユーリスの気配が少し動く。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立ち上がる。


「今日、第五班で起きやすいことは何だ」


「俺の状態を、他の班員が見すぎることです」


 教師は続きを待つ。


「ヴォルツ家からの反応が未着なので、俺がどう反応するかに意識が向きやすい。ですが、フィーネは状況共有を、アルトは支援を、ユーリスは標識や進路を見なければならない」


 一拍。


「俺も、自分が見られていることを気にしすぎると判断が重くなります」


 教師は頷いた。


「良い」


 そして全体へ言う。


「支援とは、相手だけを見ることではない。相手と課題、その両方を見ることだ」


    ◆


 午前の課題は、視線配分演習だった。


 区画内には、中心者役の魔法人形が置かれている。


 その人形は時折、状態札を出す。


 班員は状態札を確認しつつ、標識移送も行う。


 中心者役だけを見すぎると、敵や障害を見落とす。


 逆に見なさすぎると、中心者役の状態悪化に気づけない。


 今の第五班に合わせたような課題だった。


 第五班は区画へ入った。


 中心者役の人形は、中央手前。


 標識は奥。


 魔法人形二体。


 障害壁一つ。


 フィーネが深く息を吸った。


「見すぎない。でも見落とさない」


 アルトも。


「支援対象を増やしすぎない」


 ユーリスも。


「レオンを見るけど、標識も見る」


 レオンは頷く。


「俺は、見られていることを気にしすぎない」


 鐘が鳴る。


 演習開始。


    ◆


 フィーネの初期報告。


「中心者役、状態青。正面前衛、右軽量。障害壁は中央。標識奥」


 必要な情報が揃っている。


 レオンが指示する。


「前衛は俺。ユーリス標識へ。アルト、右軽量。フィーネ、中心者役は十呼吸ごとに確認」


「はい」

「了解」

「はい」


 動き出す。


 前衛型を受ける。


 ユーリスが奥へ走る。


 アルトが土を出す。


 フィーネは中心者役を見た。


 そして、少し長く見た。


 その間に右軽量型が動く。


 アルトが気づく。


「フィーネさん、右軽量接近」


 フィーネがはっとする。


「見すぎました。右軽量、距離近い!」


 レオンが前衛を流しながら言う。


「戻ったならいい。アルト、足止め強め」


「はい」


 中心者役の札が青から黄色へ変わる。


 今度はユーリスが気づく。


「中心者役、黄色!」


 フィーネが即座に確認。


「黄色。状態悪化、速度低下推奨。ただし標識進行は継続可能」


 良い。


 見落としていない。


 ユーリスが標識を取る。


 その時、レオンはフィーネとアルトが自分を見ているのを感じた。


 自分が重くなっていないか。


 判断が鈍っていないか。


 その視線が、逆に意識へ入る。


 判断が少し遅れる。


 前衛型の剣が振り下ろされる。


 ユーリスが叫ぶ。


「レオン、見られてるの気にしてる!」


 その言葉で、レオンは戻った。


「戻る。前衛流す」


 剣を受け流す。


 標識が戻る。


 障害壁が起動する。


 フィーネが声を出す。


「障害壁、中央閉鎖。左へ!」


 アルトが風を入れる。


「風、弱支援。中心者役は黄色維持」


 ユーリスが標識を抱えて左へ。


「台座まで五歩」


 中心者役の札が一瞬赤へ寄りかける。


 フィーネが見る。


「中心者役、赤気配。でも標識優先可能。速度落としすぎない」


 レオンが判断する。


「標識設置後、中心者役対応。今は台座へ」


「了解!」


 標識設置。


 鐘が鳴る。


    ◆


 教師が近づく。


「第五班、評価、上」


 四人が姿勢を整える。


「視線配分に乱れはあった。ルーク、初期に中心者役を見すぎ、右軽量の動きが遅れた」


「はい」


「だが、自己申告と補正は早い」


「はい」


「レイヴン、ルークの見落としを補った点、良。ベルク、ヴォルツが見られていることを気にした瞬間を指摘した点、良」


「はい」

「はい」


「ヴォルツ、指摘後の復帰は良。ただし、見られていることを意識しすぎると判断が遅れる」


「はい」


 教師は全体へ向けて言う。


「誰かを支える時、その者だけを見るな。課題も見る。周囲も見る。自分も見る。視線は一点に固定するものではなく、配分するものだ」


 視線は配分するもの。


 今日の言葉が、また胸に残った。


    ◆


 訓練後。


 第五班は端に集まった。


 フィーネが深く頭を下げる。


「最初、見すぎました」


「戻った」


 レオンが言う。


「はい。でも、アルトさんが言ってくれなかったら遅れていました」


 アルトは少し慌てる。


「いえ、俺も支援が少し遅れかけて」


「でも見えていた」


 フィーネが言う。


 アルトは照れたように頷いた。


 ユーリスがレオンを見る。


「レオン、見られてるの気にしただろ」


「ああ」


「言ってよかった?」


「助かった」


 レオンは正直に答えた。


 ユーリスは少しだけ安心した顔をする。


「ならよかった」


 フィーネが手帳を開く。


「相手だけを見るな。課題も見る。周囲も見る。自分も見る」


 アルトも書く。


「視線は配分」


 ユーリスも紙片に書く。


「レオンを見る。でも見張らない」


 それを見て、レオンは少しだけ眉を動かした。


「見張らない?」


「大事だろ」


「……そうだな」


 見守る。


 見張る。


 似ているようで違う。


 レオンはそれも手帳に書き加えた。


    ◆


 昼休み。


 食堂では、視線配分演習の話題が少し広がっていた。


「第五班、今日は視線配分だって」

「中心者を見すぎると敵を見落とすやつ?」

「今の第五班そのままだな」

「レオンを見るけど見張らないってユーリスが言ってたらしい」

「それ、いいな」

「見守ると見張るは違うってことか」


 見守ると見張るは違う。


 その声を聞いて、レオンは少しだけ息を吐いた。


 周囲にも、少しずつ言葉が渡っている。


 自分たちが苦労して掴んだ言葉が、別の誰かの口に乗る。


 それは少し不思議で、少しだけ嬉しかった。


 アルトが食事をしながら言う。


「見守ると見張る、違いますね」


 フィーネが頷く。


「見張られていると、緊張します。でも見守られていると、戻れる気がします」


 ユーリスがレオンを見る。


「俺たちは見守る側でいこう」


「見張られるのは困る」


 レオンが返すと、ユーリスは笑った。


「じゃあ決まり」


    ◆


 放課後。


 中庭には、エリシア・フォン・ローゼンベルクがいた。


 今日は噴水のそばではなく、少し離れた回廊の柱の近くに立っていた。


 手帳を持っている。


 レオンたちを見ると、静かに会釈した。


「皆様」


「エリシア様」


 フィーネが返す。


 エリシアは少しだけ微笑む。


「今日は、皆様の演習の話を聞きました」


「視線配分ですか」


「はい」


 エリシアはレオンを見る。


 それから、少しだけ目を伏せた。


「私も、レオン様を見すぎていたかもしれません」


 その言葉に、空気が少し静かになる。


 レオンは彼女を見る。


「俺を?」


「はい」


 エリシアは正直に頷いた。


「ヴォルツ家からの反応がまだなので、レオン様がどう受け止めているのかを気にしていました」


 一拍。


「でも、見すぎると、私自身の状態を見落とすのだと思いました」


 フィーネが静かに頷く。


「今日の演習と同じですね」


「はい」


 エリシアは手帳を開く。


「私は、レオン様を心配しています。でも、その心配だけを見ていると、自分が何を怖がっているのか、何を安心したのかを見落とします」


 彼女は書く。


 レオン様を見る。

 でも、見張らない。

 自分の状態も見る。


 ユーリスが小さく言う。


「見張らない、採用された」


「良い言葉です」


 エリシアが微笑む。


 ユーリスは少し照れたように頭をかいた。


 アルトが言う。


「俺も、レオンさんを見すぎないようにします」


 フィーネも。


「私もです」


 レオンは三人とエリシアを見る。


 見られている。


 でも、見張られているのではない。


 そう思えるだけで、少しだけ呼吸が楽になった。


「助かる」


 レオンは言った。


 短い言葉。


 だが、本音だった。


    ◆


 その時、遠くで鐘が鳴った。


 授業終了を告げるものではない。


 事務棟の定時連絡の鐘だ。


 一瞬、五人の空気が揺れた。


 だが、誰も大きく崩れなかった。


 フィーネが言う。


「定時連絡の鐘」


 アルトが続ける。


「封書なし」


 ユーリスも。


「返答とは限らない」


 エリシアも。


「段階を飛ばさない」


 レオンは頷いた。


「今ここ」


 鐘の音は、やがて消えた。


 何も来なかった。


 だが、反応はした。


 そして戻った。


 それでいい。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 第五十八話。


 まだ来ていないものに、今日を渡さない。


 朝。

 ヴォルツ家からの反応は未着。

 気になる。

 だが、未着のものに今日を渡さない。

 父が正式記録をどう読むか。

 相互的な協力関係をどう受け取るか。

 想像は続く。

 でも、事実ではない。


 フィーネ。

 ヴォルツ家の反応を気にして、レオンの顔色を見すぎるかもしれない。

 相手を気遣うこと。

 でも、見すぎると自分の役割が遅れる。


 アルト。

 ヴォルツ家を意識して、支援を良く見せようとしそう。

 良く見せるより、今必要な支援。

 良く見せようとしている、と言えるようになった。


 ユーリス。

 レオンを軽くしようとして、軽さが過剰になるかもしれない。

 怖い時に笑おうとするかもしれない。

 迷ったら言う。


 カイル。

 レオンが見られると、第五班全体がレオンを見る。

 中心者の状態は重要。

 だが、中心者の状態だけを見る班は弱い。

 各自が自分の役割を見ながら、必要な範囲で中心者を見る。


 ハルト。

 見すぎると崩れる。


 講義。

 視線。

 見る。

 見すぎる。

 見落とす。

 誰かの状態を見ることは支援。

 しかし、見すぎれば自分の役割を見落とす。

 支援とは、相手だけを見ることではない。

 相手と課題、その両方を見ること。


 午前課題。

 視線配分演習。

 中心者役の状態札。

 標識移送。

 敵と障害壁。

 フィーネ、中心者役を見すぎて右軽量を見落としかける。

 アルトが補う。

 ユーリス、レオンが見られていることを気にした瞬間を指摘。

 レオン、指摘で戻る。

 評価、上。

 視線は一点に固定するものではなく、配分するもの。


 昼。

 見守ると見張るは違う。

 ユーリス、レオンを見る。でも見張らない。


 放課後。

 エリシア。

 レオンを見すぎていたかもしれない。

 心配している。

 でも、その心配だけを見ると、自分の状態を見落とす。

 レオン様を見る。

 でも、見張らない。

 自分の状態も見る。

 定時連絡の鐘。

 封書なし。

 返答とは限らない。

 段階を飛ばさない。

 今ここ。


 レオンはペンを止めた。


 今日は、見られる日だった。


 いや、正確には、見られていることに気づく日だった。


 フィーネも、アルトも、ユーリスも、エリシアも。


 皆、レオンを見ていた。


 ヴォルツ家の反応がまだだから。


 レオンがどう揺れるか、気になっていたから。


 それは重かった。


 けれど、嫌な重さだけではなかった。


 以前なら、見られることは評価されることだった。


 失敗しないか。


 崩れないか。


 中心者として相応しいか。


 そう見られている気がして、肩に力が入った。


 でも今は少し違う。


 フィーネは心配して見ている。


 アルトは支えたいから見ている。


 ユーリスは軽さのタイミングを探して見ている。


 エリシアは、自分の心配を見失わないようにしながら、それでも見ている。


 見張られているのではない。


 見守られている。


 その違いが、今日は少しわかった。


 レオンは最後に一行を書く。


 まだ来ていないものに、今日を渡さない。


 その下に、もう一行。


 誰かを見守る時は、その人だけでなく、自分の役割と足元も見失わない。


 ペンを置く。


 窓の外は夜だった。


 星が静かに出ている。


 ヴォルツ家からの反応は、まだ来ていない。


 ローゼンベルク家の詳細返答も、まだ。


 明日、何かが来るかもしれない。


 来ないかもしれない。


 けれど今日、第五班は今日の課題を終えた。


 見すぎて。


 見落としかけて。


 補って。


 戻った。


 それでいい。


 レオンは手帳を閉じた。


 灯りを落とす。


 暗闇の中で、ユーリスの言葉が残る。


 レオンを見る。でも見張らない。


 少しだけ笑いそうになった。


 それは軽い言葉だった。


 けれど、今のレオンには、とてもありがたい言葉だった。


 噴水の水音を思い出す。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 まだ来ていないものは、まだ来ていない。


 なら、明日も。


 来たものを見て、来ていないものに今日を渡さずに。


 歩く。

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