第五話
朝から、空気が少し重かった。
王立グランセル魔導学園の廊下には、いつも通り磨かれた石床があり、壁には古い王国騎士たちの肖像画が並び、窓から差し込む光は整然とした影を落としていた。
何も変わっていない。
校舎も。
鐘の音も。
制服も。
上位クラスへ向かう生徒たちの足取りも。
だが、人の視線だけが少し変わっていた。
「昨日、アルトが魔法基礎の個別指導受けてたらしい」
「教師が直々に?」
「全属性だからな」
「でも剣はまだ荒いんだろ?」
「荒くてもハルトに勝ったじゃん」
「それ言うなよ、聞こえるぞ」
小さな声。
笑いを含んだ声。
興味に弾む声。
どこか面白がる声。
そして、上位クラスの方をうかがう声。
平民特待生アルト・レイヴンの名前は、もう下位クラスだけのものではなくなっていた。
中位クラスが話す。
二年生が聞く。
教師が個別に見る。
女子生徒たちが遠目に噂する。
それはまだ小さな波だった。
だが、波である以上、広がる。
レオン・ヴォルツは東棟三階へ向かう階段を上りながら、その声を聞いていた。
足は止めない。
顔も変えない。
だが、耳には入る。
聞こうとしていなくても、入ってくる。
アルト。
全属性。
特待生。
ハルトに勝った。
教師に見られている。
ここ数日で、あまりにも頻繁に聞くようになった名前。
少し前まで、ただの噂だった。
今は違う。
その名前は、確かに学園の空気に色をつけ始めている。
「朝から人気者だな、彼は」
隣を歩いていたユーリス・ベルクが、軽い声で言った。
レオンは前を向いたまま答える。
「本人が望んだわけではないだろ」
「お、擁護?」
「事実だ」
「そういうところ、ほんと面白いよな」
「何が」
「興味はあるのに、認め方が妙に硬い」
レオンは階段を上りきる。
上位クラスの教室へ続く廊下は、他の階より少し静かだ。
下級クラスの生徒はあまり近づかない。
教師や上位クラスの生徒が通る場所。
自然と、そういう線引きができている。
「硬いか?」
「硬い」
ユーリスは即答した。
「お前、アルトを認め始めてるだろ」
「才能はある」
「ほら」
「ただし未熟だ」
「それも毎回つける」
「事実だからな」
「そこなんだよなぁ」
ユーリスは少し笑う。
「認めるなら認めるでいいのに、必ず距離を取る」
「距離は必要だろ」
「相手が伸びてきた時、距離を取ってるつもりが壁になってることもある」
レオンは足を止めなかった。
だが、その言葉は少しだけ胸に残った。
距離。
壁。
自分はアルトを見ている。
観察している。
評価している。
警戒している。
だが、同じ高さで見ているわけではない。
上から見ている。
その自覚はある。
そして、それを悪いとは思っていなかった。
上にいるのだから、上から見る。
それは自然なことだ。
そう思っていた。
◆
上位クラスの教室に入ると、いつもより会話が少なかった。
静かだった。
いや、違う。
静かなふりをしているだけだ。
机に向かっている者。
教本を開いている者。
小声で話す者。
そのどれもが、どこか落ち着かない。
原因はわかっている。
今日の午後、実技担当教師による追加の合同確認がある。
上位クラス、中位クラス、そして特待生を含む一部下位クラス。
昨日の時点では予定に入っていなかった訓練だ。
教師が急に組んだ。
理由は明らかだった。
アルト・レイヴンを、もっと見たいのだ。
そして、そのアルトに上位クラスがどう反応するかも見たいのだ。
レオンは自分の席に座る。
手帳を机に置く。
開かない。
今日だけは、開く前に少し考えた。
最近、書きすぎている。
アルトのことを。
彼の動き。
彼の魔法。
彼への周囲の反応。
自分の違和感。
書き留めること自体は悪くない。
だが、それが増えている事実は、認めざるを得なかった。
「レオン」
声をかけてきたのは、フィーネ・ルークだった。
彼女は少し控えめに机の横へ立つ。
朝の光の中で、栗色の髪が柔らかく揺れている。
「今日の午後、合同確認があるって聞きました?」
「ああ」
「やっぱりアルトさんの件ですよね」
「だろうな」
「……みんな、少しぴりぴりしてます」
フィーネは教室を見回す。
彼女の声には、不安が混じっていた。
上位クラスの空気の悪さを、彼女はちゃんと感じ取っている。
「気にするな」
レオンが言う。
「無理です」
「なぜ」
「空気が悪いと、気になります」
「繊細だな」
「普通です」
「そうか?」
「そうです」
少しだけ言い返す声が強かった。
レオンは少し口元を緩める。
フィーネはそれを見て、わずかに眉を寄せた。
「今、笑いました?」
「少し」
「何でですか」
「普通だと言い切るところが」
「おかしいですか」
「いや」
一拍。
「悪くない」
フィーネは少しだけ頬を赤くした。
「……そういう言い方、最近増えてません?」
「何が」
「急に褒める感じです」
「褒めたつもりはない」
「それがずるいんです」
小さな会話。
それだけで、少し教室のざらつきが遠くなる。
だが、完全には消えない。
フィーネもそれをわかっているように、少し声を落とした。
「今日、レオンさんも出るんですか?」
「組まれればな」
「アルトさんと当たる可能性も?」
「あるだろう」
「……どう思います?」
「勝つ」
即答だった。
フィーネは一瞬黙る。
「ですよね」
「何だ」
「いえ」
フィーネは少しだけ視線を落とした。
「その答えを聞いて、安心したような、少し怖いような気がしました」
「怖い?」
「はい」
沈黙。
フィーネは言葉を探しているようだった。
「レオンさんは強いです。上位クラスでもちゃんと結果を出してます。だから勝つって言うのは当然だと思います」
「ああ」
「でも」
そこで一拍置いた。
「負けた時のことは、考えてなさそうです」
昨日、ユーリスにも似たことを言われた。
レオンはわずかに眉を動かす。
「皆、それを言うな」
「皆?」
「ユーリスにも言われた」
「あ……」
フィーネは少し気まずそうにする。
「すみません」
「謝ることじゃない」
「でも」
「ただ」
レオンは静かに言う。
「負けることを前提にして戦うつもりはない」
フィーネは顔を上げる。
「それは、わかります」
「勝つために準備する」
「はい」
「負けた時は、その時に考える」
フィーネは黙った。
その沈黙は、納得と不安が混ざっていた。
レオンにも、それくらいはわかる。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
自分でも、それが正しいのかどうかはわからない。
ただ今のレオンには、そう答えるしかなかった。
◆
一限目は戦術理論だった。
教師は黒板へ、昨日に続いて集団戦の配置について書いていく。
前衛。
中衛。
後衛。
支援。
制御。
その中で、教師はあえてこう言った。
「本日午後の合同確認では、上位クラスだけでなく、下位クラスからも数名参加する」
教室の空気が少し動く。
「異なる力量、異なる訓練背景、異なる発想を持つ相手と戦う時、最も重要なことは何か」
教師が生徒たちを見渡す。
数人が手を挙げる。
「警戒です」
「情報収集です」
「相手の得意分野を潰すことです」
どれも間違いではない。
教師は頷きつつも、最後にレオンを指した。
「ヴォルツ」
「はい」
「お前ならどうする」
レオンは立ち上がる。
「まず、相手を既存の枠に当てはめすぎないことです」
教室が少し静かになる。
「続けろ」
「下位クラスだから弱い、平民だから未熟、全属性だから万能。そういう分類は判断を早くしますが、外れた時に遅れます」
教師の目が少し細くなる。
「では、どう見る」
「最初の数手で、実際に何ができるかを見るべきです。肩書きではなく、動きで判断する」
「よろしい」
教師は黒板へ向き直り、チョークで強く線を引く。
「今の答えを覚えておけ」
生徒たちの視線がレオンへ集まる。
「肩書きは入口でしかない。戦場で見るべきものは、相手の動きだ」
その言葉は、上位クラス全体へ向けられていた。
平民。
特待生。
全属性。
それらをどう見るか。
レオンの答えは、正しかった。
正しかったからこそ、何人かには面白くなかった。
ハルト・グレイナーが、机の上で拳を握っているのが見えた。
レオンは座る。
フィーネが横目で見ていた。
目が合う。
彼女は小さく頷いた。
その頷きの意味は、少しわかる。
今の言い方は、悪くなかった。
たぶんそういうことだ。
◆
昼休み。
食堂はいつも以上にざわついていた。
午後の合同確認の噂がもう広がっている。
「またアルト出るのか?」
「今度は誰と当たるんだろう」
「上位クラスも本気出すだろ」
「レオンとやったら面白そうじゃない?」
「さすがにまだ無理だろ」
「でも見たい」
見たい。
その言葉が、あちこちから聞こえる。
レオンは食堂の奥へ向かいながら、自然とその声を聞いていた。
人は、決着を見たがる。
新しく現れた才能と、既に上にいる者。
どちらが強いのか。
まだその二人が戦う理由すらないのに、周囲は勝手に舞台を作り始める。
レオンは、それが少し不快だった。
自分が戦うかどうかを、周囲の娯楽にされているような感覚。
だが同時に、完全に否定できないものもあった。
いずれ当たる。
それは自分でも思っている。
そして当たるなら、勝つ。
そう考えている。
つまり、周囲の期待と自分の思考は、ある部分で重なっている。
そこが余計に面白くない。
「顔が怖いぞ」
ユーリスが隣で言う。
「普通だ」
「便利な言葉だな」
「お前もよく言う」
「俺はもっと柔らかく言う」
「そうか?」
「そうだよ」
上位クラスの席に座ると、少し離れた場所にエリシア・フォン・ローゼンベルクの姿が見えた。
公爵令嬢であり、レオンの婚約者。
今日も背筋が美しく、周囲の女子生徒たちと穏やかに話している。
だが、レオンを見ると、わずかに視線が止まった。
すぐに微笑む。
完璧な笑み。
レオンも軽く会釈を返す。
それだけだった。
けれど、その短いやり取りだけで周囲は納得する。
婚約者同士。
釣り合った二人。
上位の家同士の結びつき。
そう見えている。
レオンも、そう見られることに慣れていた。
だが昨日の中庭での会話を思い出す。
序列は乱れます。
エリシアはそう言った。
あれは彼女らしい言葉だった。
家格と秩序を重んじる公爵令嬢。
レオンは、その価値観を理解している。
理解しているからこそ、少しだけ引っかかっている。
アルトが強いなら評価する。
だが、その評価が序列を乱すならどうするのか。
自分は、どちらを選ぶのか。
正しさか。
秩序か。
まだ答える必要はない問いだった。
だが、問いだけが先に胸の奥へ置かれていく。
◆
食堂の入口がまたざわついた。
アルト・レイヴンが入ってきた。
昨日よりさらに視線が多い。
彼は少し困ったように笑いながら、下位クラスの仲間たちと席へ向かう。
その周囲に、自然と人が集まる。
「昨日の魔法、どうやったの?」
「全属性って本当に全部使えるの?」
「午後の合同確認、出るんだろ?」
質問が飛ぶ。
アルトは一つ一つに慌てながら答えている。
「えっと、全部って言ってもまだ全然で……」
「風は少しだけです」
「火も、あの、目くらましみたいなもので」
「午後は、先生に言われたので……」
声は大きくない。
だが誠実だ。
できないことはできないと言う。
わからないことはわからないと言う。
それがまた、人を安心させる。
レオンとは違う。
レオンの言葉は、相手に姿勢を正させる。
アルトの言葉は、相手の肩の力を抜かせる。
その違いを、レオンは見ていた。
「人気だな」
ユーリスが言う。
「そうだな」
「嫌?」
「なぜ」
「何となく」
「嫌ではない」
レオンは少し間を置いた。
「ただ、騒ぎすぎだとは思う」
「それはある」
ユーリスは頷いた。
「持ち上げすぎると、本人も大変だろうな」
その言葉に、レオンは少しだけ視線を向ける。
意外だった。
ユーリスは軽い男だが、人を見る目はある。
「本人の心配か」
「そりゃね」
ユーリスはスープを混ぜながら言う。
「昨日まで普通の下位クラスの平民だったやつが、急に学園中から見られるんだぞ。きついだろ」
「勝った代償だ」
「そう言うと思った」
「違うか?」
「違わない。でも、きついものはきつい」
レオンはアルトを見る。
質問攻めにされながら、少し困っている顔。
笑ってはいるが、慣れていない。
確かに、あれは楽ではないだろう。
上に立つ者は、視線を浴びる。
レオンにとっては慣れたことだ。
だがアルトにとっては違う。
それでも彼は、逃げずに笑っている。
そこもまた、少し評価すべきところなのかもしれない。
◆
午後。
屋外訓練場。
晴れてはいるが、風が少し強かった。
土の匂い。
木剣の乾いた音。
生徒たちのざわめき。
今日は昨日より見学者が多い。
上位クラス、中位クラス、下位クラスの一部に加え、二年生の姿もある。
教師陣も数人増えていた。
明らかに、ただの訓練ではなくなっている。
空気がそう言っていた。
レオンは上位クラスの列に立ちながら、訓練場全体を見る。
アルトは下位クラス側にいる。
昨日より表情は硬い。
視線が多いことに気づいているのだろう。
それでも逃げてはいない。
教師が中央へ出る。
「本日は合同確認を行う」
声が響く。
「目的は、昨日確認された能力の追加観察、および各クラス間の対応力確認だ」
生徒たちが反応する。
能力の追加観察。
つまりアルトだ。
「形式は短時間の模擬戦。勝敗より内容を見る」
一拍。
「指名ではなく、教師側で組み合わせる」
この一言で、ハルトがわずかに反応した。
自分から挑むつもりだったのかもしれない。
教師はそれを見越していたのだろう。
「まず第一組」
板へ名前が書かれる。
アルト・レイヴン
対
中位クラス剣術型生徒
上位クラスではなかった。
少しざわめきが起きる。
ハルトが小さく舌打ちしたのが聞こえた。
レオンは静かに見ていた。
妥当だ。
昨日は上位クラス相手に勝った。
だが、それが本物か見るなら、まず中位クラスの安定した相手にぶつける方がいい。
教師の判断は冷静だった。
◆
アルトの一戦目。
相手は中位クラスの堅実な剣士だった。
ハルトのように見栄を張らない。
派手ではないが、崩れにくい。
アルトにとっては、昨日より難しい相手だ。
「始め!」
剣がぶつかる。
アルトは昨日より少し落ち着いていた。
だが、相手が冷静だった。
風で剣筋をずらそうとしても、無理に押し込まない。
水で足元を崩そうとしても、踏み込みを浅くして対応する。
火で視線を奪おうとしても、すぐに距離を取る。
対応されている。
アルトの魔法は面白い。
だが、見れば対処はできる。
少なくとも、冷静な相手なら。
中盤、アルトは追い詰められた。
下位クラス側から不安げな声が上がる。
「アルト……」
「頑張れ」
「昨日みたいに!」
その声が、かえって彼を焦らせた。
剣筋が乱れる。
魔力の切り替えも少し遅れる。
相手の木剣が肩口へ入った。
「一本」
訓練場がざわつく。
昨日とは違う空気。
アルトが負けた。
いや、一本取られただけだ。
だが昨日の勝利で持ち上がった期待が、一瞬だけ揺らぐ。
上位クラス側から、小さな笑いが漏れた。
「ほらな」
「対策されればそんなものか」
「昨日は相手が悪かっただけだろ」
レオンはその声を聞きながら、黙っていた。
確かに、今の一本は未熟さが出た。
だが。
アルトは下を向かなかった。
肩口を押さえるようにしながら、相手へ頭を下げ、もう一度構えた。
呼吸を整えようとしている。
教師が何も言わず見ている。
二本目。
アルトは変えた。
風を使わない。
水も使わない。
まず剣を見た。
相手の動きに対し、魔法を出すのではなく、受け方を変えようとしている。
粗い。
まだ遅い。
だが、変えようとしている。
レオンは思わず目を細めた。
「……早いな」
小さく呟く。
隣のユーリスが聞き取った。
「何が?」
「修正」
二本目はアルトが粘った。
最終的にはまた相手に取られた。
だが、一方的ではなかった。
三本目。
アルトは風を使った。
ただし昨日のように剣を流すためではなく、自分の踏み込みを少しだけ軽くするために。
ぎこちない。
危うい。
だが、明らかに工夫している。
結果は敗北。
三本中二本を取られ、一本は時間切れ。
アルトは負けた。
だが、訓練場の空気は複雑だった。
昨日のような歓声はない。
しかし、失望一色でもない。
「負けたけど、途中変えてたな」
「やっぱり面白い」
「まだまだだけど、伸びそう」
そういう声が混じる。
上位クラスの何人かは面白くなさそうだった。
レオンは、その反応も含めて見ていた。
アルトは負けても、完全には価値を落とさなかった。
それどころか、修正しようとしたことで、また別の評価を得た。
厄介だ。
そう思った。
◆
次の組み合わせ。
レオン・ヴォルツ
対
中位クラス魔法剣士
訓練場の視線が一気にレオンへ向いた。
アルトの直後。
明らかに比較される。
教師が意図したのかどうかはわからない。
いや、たぶん意図している。
レオンは木剣を手に、区画へ入る。
相手は中位クラスでも評価の高い生徒だった。
剣に火属性を乗せる魔法剣士。
悪くない相手だ。
「始め!」
相手が踏み込む。
火の魔力が剣に薄く宿る。
レオンは真正面から受けない。
半歩外す。
火の流れを見る。
相手の握りを見る。
魔力を剣に流しすぎている。
火力はあるが、刃筋が硬い。
朝の魔法理論の通りだ。
レオンは一度受けるふりをして、剣を滑らせる。
相手の火が空を切る。
次の瞬間、肩口。
「一本」
静かな一本だった。
歓声ではなく、感嘆が起きる。
「やっぱり上手い」
「全然違うな」
「安定してる」
二本目。
相手は火を抑え、剣で勝負しようとする。
良い判断だ。
だが、そこで剣の地力が出る。
レオンは相手の踏み込みを読み、二手目を待たずに手首へ当てる。
「二本」
三本目。
相手は距離を取る。
魔法を飛ばす構え。
レオンは前へ出る。
速くはない。
だが迷いがない。
魔法が完成する前に間合いへ入り、木剣を止める。
「三本。勝負あり」
終わった。
整っていた。
無駄がなかった。
上位クラス側から拍手が起きる。
中位クラスからも小さな感嘆が漏れる。
下位クラスも、黙って見ている。
アルトも見ていた。
その目は、昨日とは少し違った。
悔しさ。
驚き。
憧れ。
そして、学ぼうとする色。
レオンはそれを見た。
胸の奥が、少しだけざらつく。
勝った。
いつも通り勝った。
自分の強さを示した。
それなのに、なぜか完全には晴れない。
拍手はある。
評価もある。
自分はまだ上にいる。
だが、アルトが負けたにもかかわらず、周囲はまだ彼を見ている。
それが、思ったよりも胸に残った。
◆
訓練後半。
教師はさらに数組を組んだ。
ハルトも出た。
相手は中位クラスの槍使い。
ハルトは勝った。
勝ったが、空気は微妙だった。
力が入りすぎていた。
焦りが見えた。
勝って当然の相手に、必要以上に強く打ち込んだ。
教師は勝利を告げたが、表情は厳しかった。
「グレイナー」
「はい」
「勝ったことより、剣が荒れたことを覚えておけ」
ハルトの顔が歪む。
「……はい」
上位クラス側は黙っていた。
勝っても、評価が上がらない勝ち方がある。
それを見せられた気がした。
レオンはその姿を見て、朝のユーリスの言葉を思い出す。
負けることを考えていない。
もし自分が何かに追い詰められた時、ああならないと言い切れるのか。
答えは、まだ出ない。
◆
合同確認が終わる頃、空は夕方の色を帯び始めていた。
教師が総評を行う。
「本日の確認でわかったことを言う」
全員が整列する。
上位クラス。
中位クラス。
下位クラス。
視線は自然と教師へ集まる。
「まず、レイヴン」
アルトがびくりとする。
「はい!」
「昨日より対応された。結果は負けだ」
「……はい」
「だが、途中で修正しようとした点は評価する」
下位クラス側から小さな安堵が漏れる。
アルトの顔にも少しだけ光が戻る。
「ただし、剣が粗い。魔法に頼るな。身体を鍛えろ」
「はい!」
「次、ヴォルツ」
レオンが顔を上げる。
「はい」
「安定している。判断も速い。基礎も崩れていない」
周囲が頷く。
「だが」
一拍。
「安定している者ほど、想定外への対応を怠るな」
静かになる。
教師の視線がレオンへ真っ直ぐ向いている。
「お前は崩れにくい。だが、崩れた経験が少ない者は、初めて崩れた時に遅れる」
胸の奥を、何かが軽く叩いた。
ユーリス。
フィーネ。
教師。
また同じような言葉。
負けること。
崩れること。
その時どうするか。
「覚えておきます」
レオンは答える。
教師は頷いた。
総評は続く。
だがレオンの中には、今の一言が残った。
崩れた経験が少ない者は、初めて崩れた時に遅れる。
自分は崩れない。
そう思っていた。
だが、教師はそれを危うさとして見ている。
そのことが、少しだけ気に入らなかった。
同時に、完全には否定できなかった。
◆
解散後。
訓練場にはまだ夕日の熱が残っていた。
生徒たちが少しずつ校舎へ戻っていく。
レオンは木剣を返し、手袋を外す。
その時、アルトが近づいてきた。
少し緊張した顔だった。
「ヴォルツさん」
周囲が反応する。
上位クラスの何人かが見る。
下位クラスの生徒も足を止める。
レオンは振り返る。
「何だ」
「あの」
アルトは一度言葉に詰まった。
それでも、逃げなかった。
「今日の試合、見ました」
「ああ」
「すごかったです」
真っ直ぐな言葉だった。
レオンは少しだけ黙る。
「ありがとう」
そう返した。
アルトは少し驚いた顔をした。
昨日の厳しい評価を覚えていたのだろう。
「俺、今日負けました」
「見ていた」
「途中で、どうしたらいいかわからなくなって」
「相手が冷静だった」
「はい」
アルトは手元を見る。
「昨日は、たぶん相手が焦ってくれたから勝てたんだと思います」
正しい。
かなり正しい自己分析だった。
レオンは少しだけ目を細める。
「それがわかるなら、次は変えられる」
アルトが顔を上げる。
「……はい!」
その返事は、強かった。
まっすぐだった。
周囲の何人かが、そのやり取りを見ていた。
レオンは気づいている。
自分の言葉が、またアルトの評価を上げるかもしれない。
だが今の言葉は、言うべきだと思った。
だから言った。
「ただし」
レオンは続ける。
「魔法に身体が追いついていない。剣を鍛えろ」
「はい!」
「返事だけで終わるな」
「はい!」
「二回目だ」
「あ、すみません!」
アルトが慌てて頭を下げる。
その様子に、近くの下位クラスの生徒が少し笑った。
緊張していた空気が少し緩む。
レオンも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
悪い奴ではない。
そう思った。
だからこそ、厄介だった。
◆
その夜。
レオンの部屋は静かだった。
机の上には、今日も手帳が開かれている。
窓の外には夜の学園。
遠くで鐘が鳴る。
その音が、石造りの校舎の間をゆっくりと抜けていく。
レオンは今日の記録を書いていた。
合同確認。
アルトの敗北。
アルトの修正力。
自分の勝利。
教師の総評。
アルトとの会話。
ペン先が止まる。
今日の教師の言葉が頭に残る。
崩れた経験が少ない者は、初めて崩れた時に遅れる。
自分は崩れるのか。
その問いを、レオンはしばらく見つめる。
答えは出ない。
出したくない。
なぜなら、自分が崩れる姿など想像したくないからだ。
上位クラスにいる。
婚約者がいる。
家の期待がある。
成績もある。
剣も魔法も積んでいる。
それらは自分を支えるものだ。
しかし、もしそれらが一つずつ外れたら。
そこまで考えて、レオンは小さく息を吐いた。
馬鹿げている。
今はそんなことを考える必要はない。
明日も授業がある。
訓練がある。
積むべきことがある。
それだけだ。
それだけのはずだ。
レオンは手帳に最後の一行を書く。
アルト・レイヴン――負けても折れない。修正が早い。
書いてから、少しだけ目を細める。
褒めすぎかもしれない。
だが消さなかった。
事実だからだ。
椅子にもたれ、天井を見る。
胸の奥にある小さな軋みは、昨日より少しだけ大きくなっている気がした。
まだ痛みではない。
まだ恐怖でもない。
ただ、違和感。
自分の立っている場所が、ほんの少しだけ揺れているような感覚。
レオンは目を閉じる。
まだ負けていない。
まだ何も失っていない。
まだ自分は上にいる。
だから大丈夫だ。
そう言い聞かせるように、静かに息を吐く。
しかし、敗北の影はもう遠くにはなかった。
まだ姿は見えない。
けれど確かに、彼の足元へ少しずつ近づいていた。




