第四話
王立グランセル魔導学園において、噂は風より速い。
朝に誰かが口にした言葉は、昼には別の学年まで届き、放課後にはまるで最初から事実だったかのような顔で校舎中を歩き回る。
特に、それが“上位クラスの敗北”に関わるものならなおさらだ。
平民特待生、アルト・レイヴン。
全属性適性を持つ少年。
剣は未熟。
だが魔法の使い方が独特。
上位クラスのハルト・グレイナーを三本で下した。
ただそれだけの話だったはずだ。
だが、学園という場所では、その“ただそれだけ”が大きい。
身分。
階級。
才能。
努力。
教師の評価。
同級生の視線。
そういったものが、毎日のように薄い膜となって生徒たちの上へ重なっていく。
昨日まで当然だった序列に、ほんの小さな傷が入る。
すると、誰もがそこを見てしまう。
傷が広がるのか。
すぐ塞がるのか。
誰がその傷に手を突っ込むのか。
そういうものを、人は見たいのだ。
上位クラスの教室にも、朝からその空気は漂っていた。
誰も大声では話さない。
それが、余計にわかりやすかった。
静かな机の間に、アルトの名が低く滑っていく。
「昨日、二年の先輩も見に来てたらしいぞ」
「下位クラスのくせに、もう教師に呼ばれてるって」
「魔法制御の補習じゃないの?」
「補習じゃなくて個別指導らしい」
言葉は小さい。
だが刺さる。
上位クラスの生徒たちは、平静を装うのが上手い。
貴族の子弟が多いからだ。
感情をそのまま顔に出すことは、幼い頃から慎むよう教えられる。
けれど、完全に隠せるほど大人でもない。
視線の向け方。
椅子を引く音。
教科書を閉じる指先。
友人と目を合わせる一瞬。
そういう細かなところに、ざらつきは残る。
レオン・ヴォルツは、その空気の中でいつも通り席についていた。
机の上には、魔法剣術の教本と、薄い革表紙の手帳。
昨日の夜、最後に書いた一行がまだ頭に残っている。
アルト・レイヴン――才能あり。未完成。要警戒。
要警戒。
その言葉は、少し大げさに見えた。
今朝になって読み返しても、やはり大げさだった。
自分はまだ、彼と剣を交えていない。
ただ、ハルトを倒したところを見ただけだ。
未完成の才能を、少し面白いと思っただけだ。
それなのに“警戒”と書いた。
なぜか。
レオンはその理由を、まだはっきり言葉にしたくなかった。
「今日も難しい顔だな」
隣からユーリス・ベルクが声をかけてきた。
いつもの軽い調子。
だが、レオンはもうその軽さの奥にある観察眼を知っている。
この男は、人の顔色を見るのがうまい。
「普通だ」
「お前の普通は、普通じゃない時によく出る」
「面倒な分析だな」
「社交性だよ」
「それで成績が上がるなら楽でいいな」
「人間関係は成績表に出ないだけで、人生にはかなり出るぞ」
レオンは手帳を閉じる。
「今日は説教が多いな」
「昨日フィーネ嬢にも言われてたろ」
「聞いていたのか」
「廊下で少し」
「趣味が悪い」
「心配してたんだよ」
「誰を」
「お前を」
ユーリスの声が、ほんの少しだけ軽さを失った。
レオンは横を見る。
ユーリスは笑っている。
だが、目は思ったより真面目だった。
「俺を心配する理由があるか?」
「あるさ」
「何だ」
「お前、負けることを考えてないだろ」
その言葉で、周囲の音が一瞬遠くなった。
窓の外では、朝の風が中庭の木を揺らしている。
教室のどこかで椅子の脚が床を擦った。
誰かが小さく笑った。
だが、レオンの意識はユーリスの言葉に留まっていた。
負けることを考えていない。
「誰に」
レオンは静かに聞く。
「誰に、じゃなくて」
ユーリスは肩をすくめる。
「自分がどこかで崩れる可能性を、だよ」
「考える必要があるか?」
「あるだろ」
「準備すればいい。崩れないように」
「それは正しい」
ユーリスは頷く。
「でも、準備しても崩れる時はある」
「その時は戻す」
「戻せるって思ってるんだな」
「戻すしかないだろ」
「そういうところだよ」
ユーリスは苦笑した。
責めているわけではない。
ただ、少し困っているようだった。
「お前のそういう強さは、嫌いじゃないんだけどな」
「褒めているのか」
「半分な」
「残り半分は」
「危ないと思ってる」
レオンは答えなかった。
沈黙が落ちる。
長い沈黙ではない。
だが、ユーリスはその沈黙を急かさなかった。
それが少し意外だった。
いつもなら軽口で流す男が、今日は言葉を待っている。
「……心配しすぎだ」
ようやくレオンが言う。
「ならいいけど」
「俺はそこまで脆くない」
「知ってる」
ユーリスは小さく笑う。
「でも、脆くないものほど折れた時に大きな音がするんだよ」
レオンは眉を寄せる。
「詩人か?」
「たまにはな」
「似合わない」
「ひどいねぇ」
会話はそこで薄く解けた。
だが、ユーリスの言葉はレオンの中に残った。
脆くないものほど、折れた時に大きな音がする。
嫌な言葉だった。
まるで、自分の未来を知らない誰かが、遠くから囁いているような言葉だった。
◆
朝の礼法講義は、貴族子弟にとっては退屈なものだった。
姿勢。
言葉遣い。
相手の家格による挨拶の差。
舞踏会での立ち位置。
招待状への返礼。
どれも幼い頃から叩き込まれている。
だが学園では、平民推薦や地方出身者もいるため、こうした講義が定期的に行われる。
上位クラスの生徒たちは、表面上は真面目に聞いている。
だが、どこか余裕があった。
レオンも同じだった。
教師が講義を進める中、何度か質問が飛ぶ。
「ヴォルツ、伯爵家子弟として、公爵家当主に挨拶をする際、最初に避けるべき言葉は」
「親しみを装う言葉です。距離を詰めるのは相手が許可してからです」
「よろしい」
「ベルク、同格家の子弟へ初対面で使うべき態度は」
「礼を崩さず、しかし過剰に下手へ出ないことです」
「よろしい」
淡々と進む。
退屈な時間。
そう思っていた時だった。
講義室の外の廊下を、下位クラスの一団が通った。
教師に連れられている。
補習か、別教室への移動か。
その中に、アルト・レイヴンがいた。
講義室の扉は半分開いている。
ほんの一瞬だけ、こちら側の生徒たちと向こう側の生徒たちの視線が交わった。
アルトは礼法講義の教室を見る。
上位クラスを見る。
レオンを見る。
昨日と同じように、軽く頭を下げた。
その所作はまだ少しぎこちない。
だが、誠実だった。
講義室の中で、誰かが小さく笑う。
「平民には退屈そうな授業だな」
囁き。
教師には聞こえないほどの声。
だが、レオンには聞こえた。
フィーネにも聞こえたらしく、少しだけ眉を寄せていた。
レオンは何も言わない。
アルトたちはそのまま通り過ぎていく。
廊下の足音が遠ざかる。
講義は続く。
だが、レオンの中にはほんの少しだけ違和感が残った。
自分は礼法を知っている。
当然だ。
伯爵家に生まれたからだ。
幼い頃から教えられたからだ。
アルトは知らない。
当然だ。
平民だからだ。
では、その差は実力なのか。
努力なのか。
環境なのか。
考えるまでもないことのはずだった。
貴族には貴族の役割がある。
平民には平民の生活がある。
学園は、その中で才能ある者へ道を開く場所だ。
そう教えられてきた。
そう信じてきた。
だが、昨日のアルトはその境界を少し踏み越えた。
剣も礼法も未熟な平民が、魔法の才能一つで上位クラスの生徒を倒した。
それは、学園の理想そのものでもある。
実力主義。
強い者が上へ行く。
使える者が残る。
しかし、その実力主義が自分たちの側を揺らす時、上位クラスの生徒たちはどう反応するのか。
レオンは、周囲の小さな笑いを聞きながら、その問いを少しだけ考えていた。
◆
昼休み前。
婚約者であるエリシア・フォン・ローゼンベルクから、短い伝言が届いた。
昼食後、中庭で少し話がしたい。
そう書かれた紙片を見て、ユーリスが口笛を吹いた。
「婚約者様からお呼びだ」
「茶化すな」
「ローゼンベルク公爵家のお嬢様だぞ。茶化すくらい許してくれ」
「許さない」
「厳しい」
エリシア・フォン・ローゼンベルク。
公爵家令嬢。
金色の髪。
淡い青の瞳。
礼法、魔法理論、舞踏、社交、すべてにおいて高い評価を受ける少女。
レオンの婚約者。
家同士の取り決めによるものではある。
だが、関係は悪くない。
少なくとも、レオンはそう思っていた。
彼女は誇り高い。
言葉も少し厳しい。
だが、それは公爵家令嬢として当然のものだ。
レオンもまた、伯爵家の次男として、彼女の隣に立つに足る男であろうとしてきた。
その自負はある。
昼食後。
中庭へ向かうと、エリシアは噴水の近くで待っていた。
白い校舎を背に、陽光を受けた金髪が淡く輝いている。
周囲には自然と視線が集まっていた。
公爵令嬢と、上位クラスのレオン。
絵になる二人。
そういう目だった。
「お待たせしました」
レオンが言う。
「いいえ、わたくしも今来たところですわ」
エリシアは微笑む。
整った笑顔。
よく訓練された表情。
だが、今日は少しだけ硬い。
「話とは?」
レオンが聞く。
エリシアは周囲を一度見てから、少しだけ声を落とした。
「昨日の合同訓練の件です」
「アルト・レイヴンのことですか」
「ええ」
やはり、と思った。
学園内であれだけ話題になっていれば、公爵家令嬢の耳にも届く。
「彼は、そんなに強いのですか?」
「剣は未熟です」
レオンは即答する。
「ただし、魔法の扱い方は面白い」
「面白い?」
エリシアの眉が少し動く。
「随分と評価なさっているのですね」
「見たものを言っただけです」
「そう」
短い沈黙。
噴水の水音が二人の間に落ちる。
周囲では、何人かの生徒が遠巻きにこちらを見ていた。
レオンは、その視線に慣れている。
エリシアも慣れている。
だからこそ、会話は自然と慎重になる。
「レオン様」
「はい」
「あなたが平民特待生に関心を向けること自体は、悪いとは思いません」
エリシアの声は柔らかい。
だが、その奥に少しだけ棘がある。
「けれど、あまり持ち上げすぎるのはどうかと思いますわ」
「持ち上げているつもりはありません」
「周囲は、そう見ます」
その言葉は、昨日フィーネに言われたことと少し似ていた。
あなたの言葉は重い。
今、エリシアも似たことを言っている。
ただし、意味は違う。
フィーネの言葉には、相手への配慮があった。
エリシアの言葉には、立場への配慮がある。
「上位クラスのあなたが彼を評価すれば、周囲は彼をさらに見るでしょう」
「実力があるなら、見るべきです」
「ですが、序列は乱れます」
その言葉に、レオンは少しだけ黙った。
序列。
エリシアは続ける。
「この学園は実力主義を掲げています。けれど、現実には家格も評価も信頼もあります。急に現れた者が場を乱せば、余計な混乱が起こります」
「混乱を起こすかどうかは、本人次第でしょう」
「本人だけではありませんわ。周囲が騒ぎます」
「それは周囲の問題です」
「レオン様」
エリシアの声が少しだけ強くなる。
「あなたは正しいことをおっしゃいます。けれど、正しさだけでは人は動きません」
まただ。
レオンは心の中で思った。
ユーリス。
フィーネ。
エリシア。
この数日、似たようなことを何度も言われている。
自分の言葉。
自分の立場。
自分の見え方。
それらが、急に周囲から指摘されるようになった。
なぜ今なのか。
理由はわかっている。
アルト・レイヴンだ。
彼が現れたことで、自分の立場や言葉まで、なぜか照らされ始めている。
レオンは小さく息を吐いた。
「気をつけます」
短く言う。
エリシアは少しだけ表情を緩めた。
「ええ。それでよろしいのです」
「ただ」
レオンは続ける。
「彼が本当に強いなら、評価しない理由はありません」
エリシアの表情がわずかに止まる。
噴水の水音が、少し大きく聞こえた。
「……あなたらしいですわ」
その声は、褒めているようで、どこか距離があった。
「それは悪い意味ですか」
「いいえ」
エリシアは微笑む。
「ただ、少し危ういと思っただけです」
危うい。
今日、何度目だろうか。
似たような言葉を向けられるのは。
ユーリスには危ないと言われた。
フィーネには言葉が重いと言われた。
エリシアには危ういと言われた。
レオンは、自分がそんなに揺れて見えるのかと思った。
自分では、何も変わっていないつもりなのに。
◆
午後の戦術基礎は、集団戦における役割分担についてだった。
教師は黒板に三つの役割を書く。
前衛。
支援。
制御。
「強い個人が一人いても、集団戦では勝てない」
教師が言う。
「逆に、個人の力が劣っていても、役割が噛み合えば勝つことがある」
レオンは黒板を見ていた。
前衛。
支援。
制御。
昨日のアルトは、個人戦だった。
だがもし彼が集団戦に入ったらどうなるのか。
全属性を扱えるなら、支援にも制御にも回れる。
剣は未熟でも、魔法の幅で役割を変えられる。
そう考えると、厄介さはさらに増す。
「ヴォルツ」
教師が呼ぶ。
「はい」
「お前が三人班を組むとして、全属性適性者を一人入れるなら、どの位置に置く」
教室が静かになる。
明らかにアルトを想定した問いだった。
レオンは少しだけ考える。
「現状なら支援寄りの制御です」
「理由は」
「前衛に置くには剣が未熟です。単独で押し込ませるより、属性切り替えを使って相手の動きを崩させた方が有効です」
「成長後は」
一拍。
レオンは答える。
「前衛、支援、制御のどこでも置ける可能性があります」
教室がざわつく。
教師は少しだけ口元を動かした。
「高評価だな」
「可能性の話です」
「それでも評価だ」
教師は黒板へ向き直る。
「覚えておけ。厄介な相手とは、強い相手だけではない。役割を固定できない相手だ」
チョークが黒板を叩く。
「何をするかわからない者ほど、盤面を乱す」
レオンは静かに聞いていた。
自分で言った言葉なのに、胸の奥が少しだけ重くなる。
アルト・レイヴンは、まだ未完成だ。
だからこそ、固定できない。
それは強さではないかもしれない。
だが、厄介さではある。
◆
放課後。
上位クラスの自主訓練時間。
訓練棟にはいつもより人が多かった。
昨日のアルトの模擬戦が刺激になったのだろう。
上位クラスの生徒たちは、普段より少し熱が入っている。
ハルトもいた。
無言で木剣を振っている。
荒い。
だが、昨日よりは少しだけましだった。
怒りをそのままぶつけるだけではなく、どうにか形に戻そうとしている。
教師の言葉が効いたのかもしれない。
レオンは少し離れた区画で、基本の型を確認していた。
呼吸。
踏み込み。
刃筋。
魔力の薄い通し。
一つずつ。
派手なことはしない。
だが頭の片隅には、ずっとアルトの魔法が残っている。
風で剣筋を流す。
水で踏み込みを滑らせる。
火で視線を奪う。
正統ではない。
だが実戦的だった。
レオンは一度木剣を止める。
試しに、風の魔力を薄く剣先へ乗せる。
空気がわずかに揺れる。
自分の剣筋が、ほんの少しだけ軽くなる。
だが、違う。
これは自分の剣ではない。
アルトの真似をしても意味がない。
レオンは魔力を消す。
「珍しいことしてますね」
背後からフィーネの声。
振り返ると、彼女が木剣を持って立っていた。
「見ていたのか」
「少しだけ」
「趣味が悪いな」
「最近、みんなレオンさんのこと見てますよ」
「何でだ」
「気づいてないんですか?」
フィーネは少し呆れる。
「あなたがアルトさんを気にしているからです」
「観察しているだけだ」
「それ、昨日も聞きました」
「便利な言葉だからな」
「便利に逃げないでください」
レオンは少しだけ黙る。
フィーネは木剣を肩に担ぎ、隣に立った。
「私も、少し気になります」
「アルトが?」
「はい」
一拍。
「でも、レオンさんの方がもっと気になります」
思わぬ言葉だった。
レオンはフィーネを見る。
「俺が?」
「はい」
「なぜ」
「いつも余裕あるのに、少しだけ余裕がない気がするので」
沈黙。
訓練棟の音が遠くなる。
木剣の音。
誰かの息。
教師の指示。
それらが少しだけ遠い。
「余裕がないように見えるか」
レオンが聞く。
「ほんの少しです」
フィーネは指で小さな幅を示す。
「でも、見えます」
「そうか」
「嫌ですか?」
「少し」
「正直ですね」
「嘘をつくほどでもない」
フィーネは笑わなかった。
真面目な顔のまま言う。
「アルトさんはすごいと思います」
「ああ」
「でも、レオンさんもすごいです」
その言葉に、レオンは少しだけ眉を寄せた。
「慰めか?」
「違います」
即答だった。
「私は昨日のアルトさんを見て驚きました。でも、今日の訓練でレオンさんの剣を見て、やっぱりすごいと思いました」
一拍。
「派手じゃないけど、崩れない。静かなのに、ちゃんと強い」
レオンは返す言葉を探した。
すぐには出なかった。
「……随分、褒めるな」
「必要なので」
「昨日の俺みたいな言い方だな」
「嫌ですか?」
「いや」
レオンは木剣を握り直す。
「悪くない」
フィーネは少しだけ笑った。
「ならよかったです」
その笑顔は、眩しいというほどではない。
だが、胸の奥のざらつきを少しだけ薄めるには十分だった。
◆
訓練の終わり際。
ハルトがレオンの前へ来た。
周囲が少し静まる。
取り巻きたちも遠巻きに見ている。
ハルトの顔にはまだ屈辱が残っていた。
だが、昨日のような荒れ方ではない。
「ヴォルツ」
「何だ」
「……昨日の件だが」
そこで言葉が止まる。
謝罪か。
言い訳か。
挑発か。
周囲が息を詰める。
ハルトは歯を食いしばり、絞り出すように言った。
「お前なら、あいつに勝てるのか」
訓練棟が静かになる。
問いは単純だった。
だが、その裏には多くの感情がある。
自分を倒した相手を、同じ上位クラスのレオンなら倒せるのか。
自分の敗北は、ただ自分が弱かっただけなのか。
それとも、アルトが本当に強いのか。
レオンはハルトを見る。
しばらく沈黙した。
すぐに「勝てる」と言うことはできた。
少し前のレオンなら、そう言ったかもしれない。
だが今は、その言葉が少し軽く感じた。
フィーネの言葉。
ユーリスの言葉。
エリシアの言葉。
教師の言葉。
それらが頭をよぎる。
自分の言葉は重い。
だからこそ、軽く投げてはいけない。
「今なら勝つ」
レオンは言った。
教室ではない。
食堂でもない。
訓練棟の中央で。
はっきりと。
「ただ、あいつは伸びる」
ハルトの顔が歪む。
「だから」
一拍。
「次も勝つには、こちらも積む必要がある」
沈黙。
ハルトはすぐには何も言わなかった。
その目には、悔しさと、ほんの少しの理解があった。
「……そうか」
それだけ言って、ハルトは背を向けた。
取り巻きたちの方へ戻っていく。
周囲の空気が少しずつ戻る。
ユーリスが近づいてきて、小さく言った。
「今の、良かったんじゃない?」
「何が」
「言い方」
「そうか」
「少しは学んでるねぇ」
「腹が立つな」
「褒めてる」
「半分だろ」
「よくわかってる」
レオンはため息を吐いた。
だが、悪い気はしなかった。
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは机に向かっていた。
今日も手帳を開く。
記録することは多かった。
礼法講義。
エリシアとの会話。
戦術基礎。
フィーネの言葉。
ハルトの問い。
アルトへの評価。
ペンを走らせながら、レオンはふと自分が以前より多くの“人の言葉”を書き留めていることに気づいた。
少し前までは、記録のほとんどが技術や理論だった。
剣筋。
魔力制御。
戦術。
相手の癖。
それが今は、言葉が増えている。
ユーリス。
フィーネ。
エリシア。
教師。
ハルト。
自分が周囲の言葉を気にし始めている。
その事実が、少し不思議だった。
レオンはペンを止める。
窓の外は静かだ。
学園の灯りが、遠くでぽつぽつと残っている。
夜風が薄いカーテンを揺らす。
机の端には、婚約者であるエリシアからの伝言紙が置かれている。
反対側には、魔法剣術の教本。
そして中央には、手帳。
その中に、今日の最後の一行を書いた。
アルト・レイヴン――今なら勝つ。だが伸びる。
書いてから、レオンはじっとその文字を見る。
今なら勝つ。
その言葉には、まだ十分な自信がある。
自分は勝つ。
勝てる。
勝つために積んでいる。
だが、その後に続く言葉が消えない。
だが伸びる。
その事実が、胸の奥で小さく音を立てる。
レオンはまだ揺れていない。
少なくとも、折れてはいない。
上位クラスの席も、婚約者との関係も、家の期待も、周囲からの評価も、まだ何も失っていない。
それでも、彼の誇りは静かに軋み始めていた。
見えないほど細く。
聞こえないほど小さく。
本人だけが、ほんの少し違和感として気づく程度に。
だが、確かに。
日常の中に入り込んだ眩しい才能は、レオン・ヴォルツの世界を少しずつ照らし始めている。
光はまだ遠い。
けれど遠いからこそ、目を逸らせない。
レオンは手帳を閉じた。
明日も授業がある。
訓練がある。
積むべきものがある。
だから眠る。
いつものように。
上位クラスの一員として。
ヴォルツ伯爵家の次男として。
まだ転落を知らない少年として。
ただし、胸の奥に残った小さな軋みだけは、夜が深くなっても消えなかった。




