第四十四話
翌朝。
王立グランセル魔導学園の空は、淡く晴れていた。
昨夜まで残っていた灰色の雲は、完全には消えていない。
けれど、薄く広がった雲の向こうから朝日が差し込み、校舎の石壁をやわらかく照らしている。
尖塔の影は中庭の芝へ細く伸び、夜露の残った葉先が、光を受けて小さく揺れていた。
風は弱い。
噴水の水面に、ほんの少し波を立てる程度だった。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
水音は変わらない。
けれど、レオン・ヴォルツには、今朝その音がいつもより丁寧に聞こえた。
一つ一つの音が、途切れずに続いている。
昨日、手帳に書いた言葉が、胸の奥で静かに残っていた。
記録に残るものが、すべてではない。
だが、記録に残りきらないものを忘れないために、自分たちは書き続ける。
記録。
所見。
戻る力。
教師が第五班について、所見に残すなら“戻る力”だと言った。
指摘を罰ではなく修正材料として扱う力が伸びている、とも言った。
それは嬉しかった。
いや、嬉しいだけではない。
救われた気がした。
第五班は、完璧な班ではない。
何度も崩れかけている。
成果圧に揺れた。
風聞に揺れた。
外部確認に揺れた。
救援護送では迷い、状態共有が遅れ、支援が乱れ、負傷者役へ負担をかけかけた。
それでも戻った。
完全ではなくても、戻ろうとした。
その姿勢が、所見に残るかもしれない。
だが同時に、昨日エリシアが言った。
記録に残るものと、残らないものの両方を大事にしてほしい。
外の記録だけが皆様を決めてしまわないように。
その言葉も、深く残っている。
外の記録は必要だ。
ヴォルツ家へ説明するために。
ローゼンベルク家へ示すために。
学園側が事実を整理するために。
だが、記録だけでは足りない。
フィーネの震える声。
アルトの手帳の消し線。
ユーリスの軽さの奥にある気遣い。
エリシアの不安と誠実さ。
ハルトの不器用な支援。
カイルの冷静な配慮。
それらは、正式な文章には残りきらない。
だから、自分たちで覚える。
書き続ける。
レオンは手帳を閉じた。
今日は、学園側の記録整理がさらに進むはずだ。
昨日の時点で、教師所見が加わると言われた。
もしかすると、その一部が共有されるかもしれない。
そう思うと、胸が少し重くなる。
自分たちがどう見られているのか。
何が残り、何が削られるのか。
それを知る日になるかもしれない。
レオンは鞄を持ち、部屋を出た。
◆
寮の廊下は、ここ数日の中では落ち着いていた。
ヴォルツ家の返答。
ローゼンベルク家の確認。
学園記録。
それらの話題はまだある。
だが、教師の通達と連日の講義、演習の影響で、生徒たちの声は少しずつ変わってきていた。
無責任に騒ぐ声は減った。
完全ではない。
それでも、少なくとも表立ってエリシアや第五班を面白がる者は少なくなっている。
代わりに、分析するような声が増えていた。
「第五班の所見、戻る力って入るらしいな」
「完璧じゃないけど戻るってやつ?」
「それ、けっこう評価高いんじゃない?」
「外部評価にどう映るかはわからないけど」
「でも、成果条件に飲まれなかったのは強いよ」
「記録って、見方次第だよな」
見方次第。
その言葉が、レオンの胸に残る。
そうだ。
どれだけ丁寧に記録しても、読む側の見方は完全には制御できない。
教師が“戻る力”と書いても、家がそれをどう受け取るかはわからない。
未熟な班と見るか。
修正力のある班と見るか。
情で結びついた不安定な集団と見るか。
課題を通じて成長している班と見るか。
同じ記録でも、読む者によって変わる。
だからこそ、記録を残す側は誠実でなければならない。
そして、記録される側は、自分たちの中身を失ってはいけない。
レオンは階段を下り、中庭へ向かった。
◆
フィーネ・ルークは、今日も噴水の近くにいた。
手には手帳。
教本ではない。
最近、彼女は朝の時間に手帳を書くことが増えた。
ただ学ぶための教本ではなく、自分で考えたことを書くための手帳。
その変化も、記録に残るのだろうか。
いや、残らないかもしれない。
でも、確かに変化だ。
「おはようございます」
フィーネが顔を上げて言う。
「ああ。おはよう」
レオンは隣へ立った。
「今日も記録か」
「はい」
フィーネは少しだけ照れたように手帳を見る。
「昨日、エリシア様に言われたことを書いていました」
「記録に残るものと、残らないものか」
「はい」
彼女はページを閉じる。
「私、最近ずっと、どう見られるかを気にしていました」
「ああ」
「状態共有ができているか。役に立っているか。外部にどう記録されるか」
一拍。
「でも、そればかり気にすると、自分が何を怖かったのか、何を選んだのかを忘れそうになるんです」
レオンは静かに聞いていた。
フィーネの声は落ち着いている。
だが、その奥には小さな震えがある。
「昨日、エリシア様が“外の記録だけが皆様を決めてしまわないように”と言ってくれて……少し怖くなりました」
「怖い?」
「はい」
フィーネは頷く。
「外の記録に良く残ることばかり考えたら、私、自分の声を綺麗にしようとするかもしれないって」
「綺麗に」
「震えない声にしようとか、迷っていないふりをしようとか、怖くないふりをしようとか」
レオンは小さく息を吐いた。
それは、危険な方向だった。
外部評価を意識しすぎれば、自分の弱さを隠す。
けれど、フィーネの強さは、震えながらも声を出すところにあった。
迷いを消すことではない。
迷いごと共有すること。
「それは違うな」
レオンは言った。
フィーネが頷く。
「はい。だから、手帳には震えたことも書きます」
一拍。
「声が震えた。でも言えた。迷った。でも共有した。怖かった。でも残った」
その言葉は、静かに強かった。
「良い記録だ」
レオンが言うと、フィーネは少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
◆
アルト・レイヴンは、少し早歩きで来た。
今日は顔色が悪くはない。
だが、少し緊張している。
手帳を片手に持ち、もう片方の手で何度も表紙を撫でていた。
「おはようございます」
「ああ」
「おはようございます、アルトさん」
アルトは二人を見てから、少しだけ周囲を気にした。
「今日、所見の話があるかもしれないって聞きました」
「ああ。可能性はある」
「俺、ちょっと怖いです」
正直な言葉。
だが、以前のように潰れそうな声ではなかった。
「何が怖い」
レオンが聞くと、アルトは手帳を握る。
「俺の支援がどう書かれているのか」
一拍。
「アルト・レイヴンは支援を乱すことがある、とか。外圧に弱い、とか。そう書かれていたらって」
「それも事実の一部だ」
レオンは言った。
アルトは小さく頷く。
「はい」
「だが、それだけなら足りない」
「戻ったことも、ですよね」
「ああ」
アルトは少しだけ息を吐く。
「昨日、手帳に書きました。外の記録に全部残らなくても、自分の手帳には残すって」
フィーネが微笑む。
「いいですね」
「はい。でも、ちょっと思ったんです」
アルトは少し迷う。
「自分の手帳にだけ残っても、家の人には見えないですよね」
それは現実だった。
アルトの手帳には、彼の恐怖や修正が残る。
だが、ヴォルツ家やローゼンベルク家が見るのは、学園の記録だ。
手帳の中身は届かない。
レオンは少し沈黙した。
「そうだな」
ごまかさず答える。
アルトの目が少し伏せられる。
「でも」
レオンは続けた。
「自分の記録があるから、外の記録に飲まれずに立てる」
アルトが顔を上げる。
「外がどう書いても、自分が何を怖がり、どう戻ったかを忘れなければ、次に聞かれた時に自分の言葉で答えられる」
フィーネも頷く。
「そうですね。自分の中に記録があると、外から何か言われても全部を奪われない気がします」
アルトはゆっくり頷いた。
「自分の言葉で答えるための記録」
「ああ」
アルトは手帳を胸に当てた。
「それなら、ちゃんと書きます」
◆
ユーリス・ベルクは、今日は妙にすっきりした顔で来た。
昨日より自然な笑みがある。
ただ、目はきちんと周囲を見ていた。
「おはよう」
「ああ」
「おはようございます」
「おはようございます」
ユーリスは三人の手帳を見て、少し笑った。
「今日も朝の記録会だな」
「お前も書いたのか」
レオンが聞く。
「書いた」
ユーリスは紙片を見せる。
そこには、短くこう書かれていた。
書かれない空気を、忘れない。
フィーネが小さく読む。
「書かれない空気……」
「うん」
ユーリスは噴水へ視線を向ける。
「昨日、考えてたんだよ。俺の軽さって、記録だとたぶん“班内調整”とか“声かけ”になる」
「ああ」
「でも実際には、声を出すタイミングとか、相手が笑えるかどうかとか、今は軽くしていいか駄目かとか、そういう空気があるだろ」
「ありますね」
フィーネが頷く。
「それ、たぶん文章にするとかなり削れる」
ユーリスは続ける。
「だから、俺は俺で覚えておく。どの軽さが助けになって、どの軽さが逃げになりそうだったか」
レオンは静かに聞いた。
ユーリスも、自分の役割を深く見始めている。
ただ軽いだけではない。
軽さの質を記録しようとしている。
「良い」
レオンが言うと、ユーリスは少し照れたように笑った。
「だろ?」
「ああ」
「でも、今日は所見が来たら緊張するな」
「お前もか」
「そりゃするさ。俺、文字になると軽さが怪しく見えそうだから」
フィーネが少し笑う。
「ユーリスさん、ちゃんと考えてますよ」
「それも記録に残してほしい」
「自分で言うな」
レオンが返すと、少しだけ笑いが生まれた。
朝の空気が、わずかに軽くなる。
この笑いも、きっと正式記録には残らない。
だが、第五班には必要なものだった。
◆
東棟へ向かう道は、穏やかに見えた。
だが、その穏やかさの中にも、視線はある。
生徒たちはもう露骨に騒がない。
しかし、第五班を見る目は以前とは違っていた。
単なる好奇心ではない。
少し慎重で、少し評価するようで、少し距離を測るような目。
フィーネが小さく言う。
「最近、見られ方がどんどん変わりますね」
「ああ」
アルトも頷く。
「最初は、失敗するかどうか見られてた気がします」
ユーリスが言う。
「その次は、すごいかどうか」
フィーネが続ける。
「その次は、問題になるかどうか」
レオンが言う。
「今は、どう記録されるか、かもしれない」
少し沈黙が落ちた。
見られ方は変わる。
そのたびに、自分たちが揺れる。
だが、自分たちの中までその見られ方に合わせて変える必要はない。
「今ここ」
アルトが小さく言った。
レオンは少しだけ驚いて、彼を見る。
アルトは恥ずかしそうに笑う。
「言いたくなりました」
「良い」
フィーネも微笑む。
「今ここ」
ユーリスも軽く。
「今ここ」
レオンも頷く。
「今ここ」
四人の声が、小さく重なった。
◆
教室に入ると、ハルト・グレイナーが珍しく机の上に紙を広げていた。
何かを書いている。
カイル・ローダンも近くにいて、それを見ていた。
レオンが近づくと、ハルトは少し面倒そうに紙を隠そうとした。
だが、間に合わなかった。
「何を書いている」
レオンが聞く。
「何でもない」
ハルトは即答する。
カイルが淡々と言った。
「第七班の妨害記録について、自分なりに整理している」
「カイル」
ハルトが睨む。
「隠す必要はない」
「ある」
「なぜ」
「……照れる」
その言葉に、周囲が一瞬静かになった。
ユーリスが耐えきれずに笑う。
「ハルトが照れるって言った」
「黙れ」
ハルトは不機嫌そうに言う。
だが、耳が少し赤い。
フィーネが微笑ましそうに見ている。
アルトも少し笑っている。
カイルは変わらず淡々としていた。
「第七班も、外部記録に一部含まれる可能性がある。妨害役としてどう動いたかを整理するのは当然だ」
「そうだが」
ハルトは紙を見下ろす。
「自分で書くと、妙に変な気分になる」
「わかる」
レオンが言うと、ハルトは顔を上げた。
「わかるのか」
「ああ」
「……そうか」
ハルトは少しだけ目を逸らす。
その紙には、短く文字が見えた。
手を抜いていない。
潰すためではなく、判断を引き出すため。
圧が強すぎた場面あり。
次は対象役への影響を見る。
不器用な言葉。
だが、確かな記録だった。
レオンは言った。
「良い記録だ」
ハルトはさらに顔をしかめた。
「褒めるな」
「事実だ」
「それが腹立つ」
カイルが小さく息を吐く。
「素直に受け取れ」
「うるさい」
そのやり取りに、少しだけ教室の空気が緩んだ。
◆
一限目。
教師は教室へ入ると、黒板へ向かった。
今日の文字は――
一次所見。
教室の空気が、すっと引き締まった。
ついに来た。
学園側の記録整理の一部。
教師はチョークを置き、教室を見る。
「学園側で整理中の評価記録について、現時点の一次所見を一部共有する」
生徒たちが静かになる。
「これは最終文書ではない。外部へ提出する正式記録でもない。だが、今後の修正と確認のため、関係生徒に共有する必要がある」
教師の視線が、レオンたちへ向く。
「第五班」
レオン、フィーネ、ユーリスが立ち上がる。
アルトは別教室だが、おそらく同じように呼ばれるだろう。
「現時点の一次所見」
教師は紙を開いた。
その音が、教室にやけに大きく響いた。
「第五班は、合同課題演習および特別評価課題において、初期段階では役割認識の不安定さ、外圧への反応、判断遅延が見られた」
レオンは胸の奥が少し締まるのを感じた。
不安定。
外圧への反応。
判断遅延。
どれも事実だ。
「特に、救援護送型総合演習における救援対象B発見時には、一時的な判断停滞が確認された」
フィーネの肩がわずかに動く。
ユーリスの表情も硬い。
「しかし、その後の再現演習において、同場面での合流判断、状態共有、移送補助の修正が確認されている」
一拍。
少し息が戻る。
「また、成果圧、風聞、外部確認など心理的負荷の高い状況下において、一部動揺は見られるものの、班内の短い共有語、状態報告、相互指摘によって課題目的へ戻る傾向が強まっている」
今ここ。
謝罪より調整。
状態共有。
それらが、硬い言葉になっている。
「総合して、第五班は完成度の高い安定型の班ではない」
その言葉に、胸が一瞬沈む。
だが、教師は続けた。
「一方で、失敗や動揺を班内で修正材料として扱い、次回行動へ反映する力が顕著に伸長している。今後も外部評価および成果条件への過剰反応には注意が必要だが、学業上の協力関係として有効性が認められる」
教室は静まり返っていた。
レオンは、息をするのを忘れかけていた。
完成度の高い安定型ではない。
だが。
修正材料として扱い、次回行動へ反映する力が伸びている。
学業上の協力関係として有効性が認められる。
それは、まさに今の第五班だった。
飾られていない。
綺麗にまとめられてもいない。
失敗も、不安定さも書かれている。
でも、戻る力も書かれている。
教師は紙を閉じる。
「以上が、現時点の一次所見の一部だ」
沈黙。
その沈黙は重かった。
書かれた言葉を受け取るための沈黙だった。
「ヴォルツ」
「はい」
「受け取ったか」
レオンは少しだけ喉を鳴らした。
「はい」
「不満は」
教師の問いは鋭い。
レオンは正直に考えた。
不満。
ないわけではない。
完成度の高い安定型ではない。
判断停滞。
外圧への反応。
そう書かれると、胸が痛む。
だが、それは事実だ。
「痛い言葉はあります」
レオンは答えた。
「だが、事実です」
一拍。
「修正も書かれているので、受け取ります」
教師は頷いた。
「良い」
フィーネも、ユーリスも、それぞれ深く息を吐いていた。
◆
講義後。
休憩時間になっても、教室の空気はしばらく戻らなかった。
一次所見。
その言葉の重さが、まだ教室に残っている。
レオンが席に座ると、ハルトが近づいてきた。
「悪くない所見だ」
「ああ」
レオンは頷いた。
「痛いが」
「痛くない所見は信用できない」
ハルトらしい言葉だった。
カイルも来る。
「かなり誠実な所見だと思う」
「そうか」
「ああ。欠点を隠さず、有効性も明記している」
一拍。
「外部へ出すなら、悪くない」
レオンは少しだけ息を吐いた。
悪くない。
その言葉が、今はありがたかった。
フィーネは手帳に何かを書いている。
ユーリスは天井を見上げていた。
「完成度の高い安定型ではない、って結構刺さるな」
ユーリスが呟く。
「でも、嘘じゃないです」
フィーネが言う。
「うん。嘘じゃないから刺さる」
レオンは静かに頷いた。
嘘ではないから痛い。
痛いから、残る。
◆
午前の課題は、一次所見受容演習だった。
教師は言った。
「所見を受け取った直後、動きがどう変わるかを見る」
内容は標準的な連携演習。
だが、第五班にとっては難しかった。
一次所見を聞いた直後だ。
判断停滞。
外圧への反応。
不安定。
修正力。
有効性。
それらの言葉が頭に残っている。
演習開始。
標識は中央。
魔法人形二体。
難度は高くない。
だが、レオンの初動は少し慎重になりすぎた。
判断停滞と書かれたことが、逆に判断を重くしている。
フィーネの声も、いつもより丁寧すぎる。
ユーリスの動きも、安定を意識しすぎて少し鈍い。
アルトがいない上位クラス側の簡易編成で、支援役は代替魔法装置だ。
そのことも少し違和感を生む。
教師が声を出す。
「第五班。所見に引かれて動きが硬い」
レオンははっとする。
フィーネも顔を上げる。
ユーリスが苦笑する。
「言われたな」
「戻す」
レオンが言う。
「今ここ」
フィーネも。
「今ここ」
ユーリスも。
「今ここ」
動きが少し戻る。
標識を確保し、台座へ置く。
課題達成。
評価は良。
上ではない。
教師は言った。
「一次所見を受けた直後としては悪くない。だが、所見を良く見せようとして硬くなった」
「はい」
「所見は飾るためのものではない。次回の動きを固めるためでもない。修正材料だ」
「はい」
痛い。
だが、必要な指摘だった。
◆
昼休み。
第五班は食堂の席で、少し静かだった。
アルトも合流していた。
下位クラスでも同じ一次所見が共有されたらしい。
彼は手帳を開いたまま、何度も同じ行を見ている。
「完成度の高い安定型ではない」
アルトが小さく言う。
「刺さりました」
「俺もだ」
ユーリスが言う。
「私もです」
フィーネも頷く。
レオンは少しだけ食事の手を止めた。
「だが、有効性は認められている」
「はい」
アルトが頷く。
「修正材料として扱う力が伸びている、とも」
「そうだ」
「でも、所見を聞いた後に動きが硬くなるの、すごくわかります」
フィーネが言う。
「良く見せようとしてしまいました」
ユーリスがパンをちぎりながら言う。
「所見に残る自分を演じる感じになると、たぶん駄目だな」
その言葉に、レオンは顔を上げた。
所見に残る自分を演じる。
危険な言葉だ。
だが、的確だった。
「それだ」
レオンが言う。
ユーリスが少し驚く。
「何が?」
「今日の危険だ。記録に良く残る自分を演じること」
フィーネが息を呑む。
アルトも。
「それだと、外の記録だけが自分たちを決めることになる」
エリシアの言葉と繋がる。
外の記録だけが皆様を決めてしまわないように。
良く見せようとしすぎれば、まさに外の記録に自分を合わせることになる。
「午後からは」
レオンは言う。
「所見に良く残るためではなく、今の課題を見る」
三人が頷いた。
◆
放課後。
中庭で、エリシア・フォン・ローゼンベルクが待っていた。
今日は、第五班全員へ視線を向けた。
「一次所見が共有されたと聞きました」
レオンは頷く。
「はい」
エリシアは静かに尋ねる。
「どうでしたか」
誰が答えるか。
一瞬、沈黙が落ちた。
レオンが答えようとした時、フィーネが一歩前に出た。
「痛かったです」
エリシアは彼女を見る。
フィーネは少し緊張しながら続ける。
「完成度の高い安定型ではない、という言葉が。でも、戻る力が伸びているとも書かれていて……両方受け取る必要があると思いました」
アルトも、震えながら言う。
「俺も、外圧への反応とか、不安定さとか、怖かったです。でも、修正材料として扱う力って書かれていて、少し救われました」
ユーリスも肩をすくめる。
「俺は、所見に残る自分を演じそうになったのが反省です」
エリシアは三人の言葉を、丁寧に聞いていた。
途中で遮らない。
頷きすぎもしない。
ただ、受け取っている。
最後にレオンが言った。
「一次所見は、痛いですが誠実でした」
エリシアは静かに頷いた。
「それなら、良かったです」
一拍。
「痛い所見を、誠実だと受け取れるのは、大事なことだと思います」
フィーネが静かに頷く。
エリシアは続けた。
「でも、皆様」
少し声が強くなる。
「所見に合わせて、自分たちを作り替えすぎないでください」
ユーリスが苦笑する。
「今日、まさにやりかけました」
「はい。だからこそです」
エリシアは優しく、しかしはっきりと言った。
「記録は、皆様を説明するものです。でも、皆様の代わりに生きるものではありません」
その言葉に、全員が沈黙した。
記録は、自分たちの代わりに生きるものではない。
今日一番、胸に刺さる言葉だった。
「ありがとうございます」
レオンが言う。
エリシアは少し微笑む。
「必要だから、ですね」
「はい」
フィーネも、アルトも、ユーリスも、静かに頭を下げた。
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは手帳を開いた。
今日の記録を書く。
第四十四話。
書かれた言葉より、書かれなかった沈黙の方が重い日。
朝。
記録に良く残ることばかり考えると、自分の声を綺麗にしようとしてしまう。
フィーネ。
震えたことも書く。
声が震えた。でも言えた。
迷った。でも共有した。
怖かった。でも残った。
アルト。
外の記録に全部残らなくても、自分の手帳には残す。
自分の言葉で答えるための記録。
ユーリス。
書かれない空気を忘れない。
どの軽さが助けになり、どの軽さが逃げになりそうだったか。
ハルト。
第七班の妨害記録を整理。
手を抜いていない。
潰すためではなく、判断を引き出すため。
圧が強すぎた場面あり。
次は対象役への影響を見る。
照れていた。
カイル。
教師所見は、数値だけでは見えないものを補う。
講義。
一次所見。
第五班は初期段階で役割認識の不安定さ、外圧への反応、判断遅延が見られた。
救援護送型総合演習、B発見時に一時的な判断停滞。
その後の再現演習で、合流判断、状態共有、移送補助の修正を確認。
心理的負荷の高い状況下で、一部動揺は見られるが、短い共有語、状態報告、相互指摘によって課題目的へ戻る傾向が強まっている。
完成度の高い安定型の班ではない。
だが、失敗や動揺を修正材料として扱い、次回行動へ反映する力が顕著に伸長。
学業上の協力関係として有効性が認められる。
痛い。
だが誠実。
午前課題。
一次所見受容演習。
所見を聞いた直後、動きが硬くなる。
良く見せようとした。
評価、良。
所見は飾るためのものではなく、修正材料。
昼。
所見に残る自分を演じる危険。
外の記録だけが自分たちを決めてしまう。
放課後。
エリシア。
所見に合わせて、自分たちを作り替えすぎないでください。
記録は、皆様を説明するものです。
でも、皆様の代わりに生きるものではありません。
レオンはペンを止めた。
今日は、一次所見が共有された。
痛かった。
完成度の高い安定型ではない。
判断停滞。
外圧への反応。
役割認識の不安定さ。
どれも、書かれた言葉として見ると重かった。
だが、そこには修正も書かれていた。
戻る傾向。
修正材料として扱う力。
次回行動へ反映する力。
有効性。
誠実な所見だった。
都合よく飾っていない。
だからこそ痛い。
痛いからこそ、信用できる。
だが、所見を聞いた後、自分たちは硬くなった。
良く見せようとした。
記録に残る自分を演じかけた。
それもまた、危険だった。
記録は必要だ。
でも、記録のために生きるわけではない。
エリシアの言葉が胸に残る。
記録は、皆様を説明するものです。
でも、皆様の代わりに生きるものではありません。
レオンは最後に一行を書く。
書かれた言葉より、書かれなかった沈黙の方が重い日だった。
その下に、もう一行。
だからこそ、書かれた言葉を受け取りながら、書かれなかったものを自分たちで忘れずに持つ。
ペンを置く。
窓の外は夜だった。
星は見えない。
だが、雲の向こうに光があることはわかる。
一次所見は、今後外部へ出る正式記録の土台になるかもしれない。
ヴォルツ家も、ローゼンベルク家も、それを見るかもしれない。
それで何かが変わるかもしれない。
だが、今日わかったことがある。
記録に合わせて自分たちを作るのではない。
自分たちが積み上げたものが、結果として記録になる。
その順番を間違えてはいけない。
レオンは手帳を閉じた。
灯りを落とす。
暗闇の中で、今日の沈黙が蘇る。
一次所見を聞いた後の沈黙。
痛い言葉を受け取った沈黙。
エリシアの言葉を聞いた後の沈黙。
そのどれも、正式記録には残らないだろう。
だが、確かにそこにあった。
明日もまた、何かが書かれる。
そして、何かが書かれずに残る。
その両方を、忘れないようにしたいと思った。




