失恋1
田園地帯に住まう英国貴族の建築様式を取り入れた一条家の屋敷は、異国情緒に溢れ、美しい庭園に囲まれている。
季節毎に彩られる広大な庭園は、日頃から丹精込めて手入れを施している庭師により、適切に維持管理されていた。
そのため庭師が作業しているところを見かけた時は、まめに感謝の気持ちを伝えるようにしているが、この時、彼の姿は見当たらなかった。
「お待たせしました。到着しましたよ」
「ええ、ありがとう。横抱きの状態で長い距離を運ばせてしまってごめんなさい。腕は大丈夫?」
「お気になさらず。お嬢様は羽根のように軽いので、まったく問題ございませんよ」
優しく微笑む怜司にそっと地面に立たされ、彼の冗談に思わず笑みが零れた。
視線を上げると、池の周りに植えられた桜の木はいずれも最盛期を迎え、淡桃色の花が見事に咲き誇っていた。
「本当に綺麗ね……」
「はい。花見に出かけずともご自宅でこれほどの景色を拝めるのは、素晴らしい贅沢ですね。それにしても、懐かしい」
「何が?」
「おや、お忘れですか? お嬢様と出会ったばかりの頃、貴女はこの池に落ちたものをご自分で拾おうとして池に落ち、屋敷中大騒ぎになったではありませんか。普段は大人びたご様子でも、年相応にお転婆な一面があるのだと微笑ましかったですよ」
「うう……その話は恥ずかしいからもうやめて……」
羞恥に身悶え両手で顔を覆い隠すと、怜司は優しい眼差しでこちらを見つめた。
「あれからもう七年ですか。瞬く間に時が過ぎ去りますね」
「そうね。一日を長く感じても、振り返ってみるとあっという間に月日が流れていくわ。何でもない一日がどれほどかけがえのないものだったか、後になってようやく気付くのよ」
怜司が当たり前のように側にいてくれる日々は、有限だ。そしてそれは間もなく終わりに近づいている。そのことに、とめどない寂寥感が込み上げてきた。
切なさを隠して桜を眺めていると、怜司が改まった態度で向き直る。
「先ほどはお伝えしそびれましたが、ご婚約おめでとうございます。少し気が早いですが、お嬢様が前向きにご検討されているならば、ほぼ決まりでしょう。素晴らしい結婚相手とご縁がありましたこと、お慶び申し上げます」
「……っ」
穏やかな表情で微笑む彼に、ひどく胸を搔き乱された。怜司の口からだけは、祝福の言葉など聞きたくなかった。
言葉に詰まっていると、彼は感慨深そうに言う。
「子どもらしい幼さを残し、愛らしかったお嬢様は今や立派な淑女にご成長されましたね。私の手を離れてお屋敷を去られるのは寂しいですが、たとえ二度とお会いする機会がなくとも、お嬢様の幸せとご健勝をいつまでも願い続けております」
彼が匂わせる別れの気配に唇が戦慄いて、喉に熱い塊がせり上がってきた。少しでも気を抜けば、涙腺が緩んで涙が零れそうだった。
「――……ありがとう、鷹野。あなたに祝福してもらえて嬉しいわ」
微かに声が揺れてしまったが、精一杯喜びの笑顔を作ってみせた。すると、彼はなぜか表情を曇らせる。
「お嬢様。先ほど旦那様にはおっしゃりませんでしたが、何か気がかりなことがおありではないですか?」
「えっ?」
「出過ぎた真似をして申し訳ございません。私では力不足かもしれませんが、こうしてお話ができるうちに、少しでもお嬢様のお心を軽くできればと願っております。差し支えなければ、お話を聞かせてはいただけないでしょうか?」
怜司が自分から椿の内面に踏み込んでくるのは珍しく、かなり驚いた。同時に、上手く隠したつもりが余程情けない顔を晒していたのだと気付き、苦笑が漏れる。
「実を言うとね……。いくら好条件であっても、よく知らない男性と結婚するのは不安があるの。父の選んだ人に間違いはないと思うし、一条の娘として恥ずかしくない振る舞いをしたいと思っているわ。それでも――新しい家で上手くやっていけるのか……今は自信が持てない」
父の前では毅然としていたくて黙っていたが、怜司には胸のわだかまりを素直に打ち明けることができる。彼は静かに耳を傾けた後、安心させるように言う。
「なるほど。お嬢様のお気持ちは分かりました。ですが、そのように気負われる必要はないかと」
「?」
「お嬢様はご自分の魅力にお気付きでないだけですよ。貴女の聡明さ、清廉さ、優しさと愛情深さ。そして何事にもひたむきに取り組む前向きな姿勢。それらを知った時、周りの方々は惹かれずにいられないでしょう。どうか自信を持ってください。お嬢様の素晴らしさは、私がよく存じております。その上で保証いたします」
怜司の、期待以上の返事に胸が温かくなり、感謝の微笑みを返した。
「ありがとう。昔からあなたに励まされているわね。私が一方的に勇気を受け取るばかりで、最後まで何も返せなかったのが申し訳ないわ」
「いいえ。そのようなことはございません。お嬢様は私に、何にも代えがたい宝物を贈ってくださいましたよ」
「あら? それは何?」
「ふふ。秘密です」
「もうっ。結局最後まで秘密主義なんだから」
ひらりと追及を躱し、唇に人差し指を当てて怜司が微笑む。これほど長く共に過ごしていても、彼自身のことはほとんど何も知らないことに改めて気付いた。
すぐ隣にいて、手を伸ばせば触れられる距離にいるというのに、実際には遠く離れた存在に感じて胸が疼いた。