3◇松永慶
体育祭も終わって夏休みになったある日、その事件は起こった。
学校は休みだが3年生はほぼ毎日補習や夏期講習などがあり登校している生徒も多い。 それ以外も部活だ進路指導だと結構な人が夕方になっても校内にいた。
あと片付けも終わりもう帰ろうかという8時頃、学校に警察から電話が来た。
『お宅の学生らしき生徒が、非行行為をしていると情報がありまして、今繁華街をパトロール中です。学校からも応援お願いしたいのですが…』
まさか、という気持ちの方が大きかった。 なぜうちの学生だと分かるのかとか、心当たりの生徒の顔すら思い付かず、早速俺を含め4人の教師が見回りに出かけた。
そろそろ暗くなる繁華街はネオンも付いていかがわしいことこの上ない。 学生らしき人影も見当たらず、間違いだったならその方がいいと気が緩んだ。
2人づつに分かれて巡回していると、同行していた教師が暗がりを指差した。
「松永先生、あれ…」
とあるホテルの前にある駐車場に小柄な女がうずくまっている。
──有村だった。 警察から電話があったうちの生徒ってアイツだったのか……?いや、その手の行為からは一番対極にいるやつだと思っていた。 だったらなぜこんなところにうずくまっているのか。
「おい…有村?」
俺が声を掛けると有村はうなだれた手のひらを固く握り、そろりとこちらをうかがった。
「お前、こんな所でなにやってんだ……って、なんだよ、その傷?」
有村のひざ小僧は大きくすりむいて、血がでていた。 良く見ると、腕や顔も怪我している。
「こんなとこにしゃがんでないで、学校に行くか?もう少しで帰れると思うけど……」
そこまで言うと、背中の方が騒がしくなった。 複数の男女が叫ぶ声。 そっちに顔を向けようとした瞬間。
「松永先生は行っちゃダメ!」
有村がしがみついた。
え、何。
有村の体はガタガタ震えていて、それでも俺を離さない。
「有村、お前何して……」
同僚が俺を呼ぶ声がした。
「松永先生ー!来てくださいー!!」
しがみつく有村を引き剥がして呼ばれた方へ走る。
「有村、送ってくからそこにいろよ!」
振り返った時に見えたのは膝から崩れて座り込み、あさっての方をみながら泣いている有村だった。 そんな風にしゃがんだら傷がもっと痛むだろう、と気づかえたのは一瞬だった。
呼ばれた先で目に飛び込んできたのは、ホテルから出てきたと思われる知らないオヤジと鳴海 茉莉が、パトカーに押し込まれているところだった。
二人はたくさんの警察関係者にもみくちゃにされて連行されようとしている。
「鳴海っ!」
鳴海は声のした方を探すように視線を動かす。そして俺を見つけると、笑った。 見たこともない、もう大人のような微笑みだった。 こんなときなのに、綺麗だとすら思った。まるで、知らない人のようだった。
とりあえず警察署に詳細を聞きに行くことにして同僚と別れた。 彼はすぐさま学校に報告をしに帰るという。
俺は有村を家に送り届けるのが先かと迎えに行ったが、彼女はもうそこにはいなかった。
翌日、学校は大騒ぎだった。 夏期講習期間中だったが、ほぼ全員の生徒が事情を聴くために集められていた。 一人ずつを保健室やオーディオルームに別々に呼び出して、担任や学年主任が聴取していく。得られる情報はほとんどない。 鳴海と特に親しい生徒も、なにも知らないと言っていた。
鳴海は、そのまま警察に拘留されていたが未成年ということもあり今朝がた迎えに着た家の人と帰宅したという。
職員が何度も警察に出向き状況を聞きに行ったが、まだ捜査中ということであまり詳しいことは教えてもらえなかった。 が、以前から鳴海が組織売春グループの末端に名前が上がっていたこと、それで警察からマークされていたことなどを聞かされた。 上層には暴力団の影がちらついていたことも。
もちろん下の方の人間はそんなこと知らないのかもしれない。 昨今の振り込め詐欺などと一緒だ。 金がどこに流れていくのかなんて末端の人間には知らされない。
それよりも俺はなぜあの場所に有村がいたのか、本人に聞きたかった。 自分のクラスの生徒たちを一人ずつ呼びながら、心はささくれていた。 生徒たちは鳴海のことはおろか他にそういう手段で金を稼ぐ可能性なのあるやつの心当たりさえないという。
ついに有村の番が来て話を聞こうとするが、口を開かない。 なにか思うところはあるようだ。 顔色は紙のように白い。そしてうつむき体を固くして黙りこんでいる。
ただでさえ、鳴海が体を売っていたかと思うと、なんでそんなこと、どうして止められなかったと、自分の無力さに叫びだしたい。 それなのに何か知っているはずが固く貝のように口を閉じなにも言わない有村に、いらだち以上に怒りさえ覚えていた。
どのくらい沈黙していたのか。絶対に知っているはずだ。 どんな偶然があってあんなところにいる理由になる。
────思い出した。去年の春、授業が終わったあと2年生だった有村に呼び止められた。 あのときこいつはなんと言っていた?
『先生、あの、あのですね。私の……年上の友達にすっごく悲しいことがあったみたいなんです』
あれは恋人や友人のことじゃなく、客のこと? 急にカアッと腹の底が熱くなる。 そんなに前から? そしてそんな男のことをしゃあしゃあと相談してきたって言うのか?
憤り、怒り、焦り。 ない交ぜになった感情が言葉になって口をついた。
「お前も、鳴海と一緒にしてたのか?」
自分の声とは思えないかすれて歪んだ声だった。 様々な感情を押さえつけて漏れた声。 声が届いた途端、ゆっくりと顔をあげた有村が空っぽの瞳で俺を見た。 酷く傷ついた絶望したようなそんな目で。
俺のほうが傷ついてんだよ。知ってんだろ?有村、お前が一番。
「松永先生。」
ピシャリと空気を変えたのは大橋先生だった。その目は有村をしっかりと見ている。
「なんの証拠もないのに決めつけるようなことをいうのは感心しません。デリケートなお話みたいですから、私が聞きましょう。申し訳ありませんが松永先生は席を外してくださいますか?」
有村を見る。蒼白で細かく震えて、ぎゅっと握った自分の手をじっと見ている。
「ただし有村さん。知っていることは、みんな話してね。先生方には私がまとめて報告します。」
「はい…」
「じゃ松永先生、外してください。」
「…わかりました。」
ベテランの大橋先生にそうまで言われたら、外さざるを得ない。 同性同士の方が話しやすいということもあるだろう。 年配の先生の寛大さと比べられても困る。まるで教師失格とでも言われたようで、うなだれた俺は教室を後にした。
大橋先生と有村が出てきたのは約1時間後。 教師への報告はこうだった。
有村はあの日、偶然あのホテルの前を通りかかった。 そして男とホテルに入ろうとする鳴海を見た。 二人は付き合っているわけではないと聞いた有村はそれを止めようと鳴海の手を引いた。 引きずってでも帰らせようと思ったら逆に客のオヤジに捕まってしまう。 その上三人での行為をほのめかされ怖くなった。 有村は掴まれた腕を暴れて振りほどき、弾みでコンクリートの上をスライディングしてしまった。 その間に二人はホテルに入ってしまい、手も足も出なかった。
足がすくんで立てないでいると、パトロールの警官が増えてきてますます出ていけなくなってしまい車の影に隠れていた。 そろそろ大丈夫かと思って出てきたところで俺たちに見つかったという内容だったそうだ。
「松永先生、有村さんは知っていることをみんな話してくれたと思いますよ。私たちにしてもこのくらい話がわかっていれば警察の方からの報告も併せて保護者会での説明も十分できるでしょう」
「……」
俺が有村に一番聞きたかったことがそこには入っていない。
お前はなにもしていなかったのか? あんなところで鳴海を偶然見かけたなんて嘘だ。 ホテル街なんて有村が偶然通りかかるような場所ではない。 大体、そんな話なら俺が一緒にいるときにだって話せたはずだ。 ……一度も体を売るようなことをしていないとどうして信じられる?
鳴海一人に押し付けて逃げ切ろうとしてるんじゃないのか?
「帰ります、失礼しました。」
有村は俺の顔は見ずに駆け出して行った。 それから、有村は今日まで俺と一度も目を合わせていない。 ふたりで対峙しなくてはならないときでも、一度も。 俺はそれが有村のやましさの証拠だと思っていた。
本当のことを言えば、有村を許せないでいた。 100歩譲ってこの件に有村が荷担してないとして、それにしても鳴海を捕まえたその時、大声を出すとか、助けを求めるとか、方法があっただろうと。 友達なら、助けてやれよ。
自分が何もしてやれなかったのを棚にあげ、有村を責めていたんだ。お前は鳴海を見捨てたんだと。
「あなたが、あの時すぐに転出させられなかったのは、黒幕さんが校長に嘆願したからよ?一人で校長室に乗り込んで1学期の松永クラスの活躍を挙げて、『私たちは先生が必要です!辞めさせたり、他の学校へ行かせたりしないでください!』って。校長もびっくりよ。小さい女の子が泣きながらおっきな声出して、膝に顔に大きいガーゼ貼って、一生懸命先生のことかばって。笑ってたわよ?かわいい生徒がいて羨ましいって。」
「有村、が…?」
自分の出した声がかすれていたのがわかった。 頭のなかは「なんでどうして」で埋め尽くされている。
「ね、先生。これは黒幕さんから口止めされてたことで、松永先生が知ったら悲しむから絶対言わないでって言われてた事なんだけどね?私は松永先生に知っていてほしいの。聞く勇気、ありますか?」
「鳴海の事ですか?」
「そう。だけど聞いて欲しいのは黒幕さんの為」
「……教えてください」
あの日、有村から聞いたことのそのままを大橋先生は俺に話してくれた。 大橋先生の話を聞いても、俺にはよくわからなかった。 言葉の意味はわかる。でも頭が理解してくれない。 入ってきた言葉がするすると逃げ出してしまう。
ただただ、自分の今年一年が空っぽで意味のないものに思えた。 良くできた生徒に囲まれていい気になっていた。 先輩教員に誉められて調子に乗っていた。 薄い半紙に描かれた理想的な教員のしての1年がビリビリと破かれる。 足下が崩れて飲み込まれていく。
有村はなぜそんなに俺を守ろうとするのだろう。 酷いことを言われて、冷たい態度をとられても、学校行事や勉強の手を抜くことをせず、ひとりで。
「松永先生、有村さんは先生のこと慕っていたのね。恋、だったのかな?」
「……恋?」
「本人がそう言った訳じゃないし、本当の気持ちは有村さんじゃないからわかりませんけどね。私には他に理由の説明がつかないわ。」
「だって……俺、酷い事言って……そんな事……」
有村が俺を好き?有村が……
「もし、有村さんの行動の全てが松永先生への恋心なら……切ないわね。自分は思いを打ちあけないで、先生のことを助けて。今日だって、何も言わずに行ってしまったんでしょう?松永先生。私、先生に何とかして欲しくて、秘密の約束やぶったのよ?」
有村が、どんな表情をしていたか思い出せない。 球技大会の時、文化祭の朝、合唱祭のステージ、テストを返した教室、卒業証書授与の時、最後のHR。
彼女と二人の思い出なんて何もない。 確かにそこにいたはずなのに、手のひらにはなにも残っていない。 懐かしくなることも切ない瞬間も。 でも、もしまだ間に合うなら有村にとにかく会いたい。 会って、顔を見て話がしたい。行かなきゃ。
「大橋先生……俺、有村に会って来ます。話してきます」
「そうね。そうしてあげて?有村さんにも、いっぱい言いたいことがあると思うの、本当は。聞いてあげてね」
「……はい。ありがとうございました」
大橋先生に深く頭を下げて、そのまま俺は走りだした。
「あ、松永先生!」
「はい?」
走り出した俺の背中に大橋先生が呼び掛けた。 勢いを削がれて前へのめる。
「私がしゃべったって、内緒にしてね?怒られちゃうもん」
そう言って舌を出した。 俺は思わず笑ってしまった。 これから、許しを請いに行かなければならないのに。
「行ってきます!」
そして今度は本当に駆け出す。 有村を探しに。 待っていてくれるといい。 今度は間違えない。
学校を飛び出して、通学路を走る。 駅前の高校も卒業式だったのだろうか、うちと同じような花の飾りをつけた学生の一団が脇を通りすぎていく。
駅前のカラオケ屋、にはいないだろう。 俺が来る可能性がある。 ……クラス会にも出ないって、笹島、言ってたしな。
一応覗いてみると、入り口から見えるドリンクバーに中村がいた。
「あれ?慶ちゃん!早かったね。部屋こっちだよー」
「おう、中村。いや、まだ来たわけじゃなくって……その……」
「なに?」
「有村、来てるか?」
「ありちゃん?」
「ありちゃん、て呼んでたんだっけ?有村の事。」
ドアが開け閉めされるたび大音量が会話の邪魔をするけれど、中村が笑ったのはわかった。 確かに、1年前面談した日の中村は、こんな笑顔を見せる生徒じゃなかった。
今年もあと2ヶ月とか言わないよっ!
こんばんは。
今日も読んでくださってありがとうございます。
明日も23時頃おじゃまします。
うえの