<1>
戴冠式を三日後に控えた長閑な春の午後、アンナ・マイヤースはパトリシア王妃のお茶会に呼ばれて王宮内をのんびりと歩いていた。
ここ数ヶ月でよく知るようになった王宮を、侍従や女官とは全く違う普段着で歩いていても、アンナに目を留める人は誰もいない。
アンナがこの王宮にちょこちょこ顔を見せるようになってから、早五ヶ月。もう王宮に勤める人々のほとんどがアンナと顔見知りになっている。
それにしても一週間ぶりに来た王宮は、とにかく忙しそうだ。戴冠式まで間がないためだろうということはよく分かっている。
分かっているが、アンナは戴冠式に全く関係ないから、それを手伝うことはできない。
王国の行事に全く興味がないと平気で言っているリッツでさえも、最近は家に帰れないで王宮に泊まり込むぐらいに忙しく立ち働いている。
その上、勝手に大臣秘書官にされてしまったフランツも、最近クタクタに疲れ切っていて、元々口数が極端に少ないから口も聞いてくれない。
何か手伝えることはないかと聞いたら、二人が二人とも口を揃えて『旅支度しといてくれ』だったから、アンナは二人に確認を取りつつ、ジョーと荷物持ちのレフと三人で買い物にいそしんでいる。
それにしても、とアンナはキョロキョロと回りを見渡した。
こんな状況でお茶なんか飲みに来て、本当に平気なのだろうか。もしかして迷惑なのでは? でも王妃直々のお呼びなので、断るわけにもいかなかったのだ。
忙しい人には申し訳ないけど、勘弁して貰らうことにしよう。申し訳ない気持ちをちょこっとだけ心の片隅に抱えつつ、王妃の部屋へと急いだ。
アンナが王妃パトリシアの部屋に着き、扉を閉めると、外の喧噪がピタリと治まり、静けさが満ちた。まるで別空間に来たみたいだとアンナは部屋の中を見渡す。
いつもなら数人のお付きの人がいて、やって来たアンナに明るく『いらっしゃいませ』と声を掛けてくれるのに、そんな声さえない。
空気が動いたような気がしてそちらを見ると、珍しくパトリシアが一人で座っていた。
「アンナ、待っていたわ」
じっと窓の外に溢れる緑の木々を見ていたパトリシアが、アンナの方を見て悠然と微笑んだ。
いつものように結われた亜麻色の髪と髪留めのティアラが、差し込む光に柔らかく反射した。
ただそこにいるだけなのに、パトリシアの纏っている空気はいつも輝いて見える。
パトリシアを見るたび、アンナはいつも綺麗だなぁと思ってしまう。エドワードとあまり年が変わらないから、もう六十歳くらいのはずだが、この人に年なんて関係ない気がする。
こういう風に年を重ねていくのって、素敵だといつも思っているが、自分を鏡に映してみると、こういう風に年を取るのは、無理だと分かる。
もしかして育ちが違うって事だろうか。
一度そうリッツにいうと、リッツは苦笑して『パティは、猫かぶってるだけだ。あいつのようになるんじゃない。お前はお前でいい』と言ってくれた。
でもおそらくそれはパトリシアが綺麗だからの照れ隠しなのだろう。リッツとパトリシアは、アンナから見てもとっても仲がいい。
「アンナ?」
少々勝ち気さが残る紫の瞳が、疑問の色を湛えて柔らかく細められた。宝石で言うと、高貴な輝きを秘めたアメジスト色だ。
「ごめんなさい。王妃様に見とれちゃいました」
正直に答えると、パトリシアは一瞬虚をつかれたような顔をした後、おもむろに笑い出した。
「それ真面目に言ってるの?」
しばらく大笑いした後、パトリシアが苦しそうにお腹を押さえてそう言った。
「はいっ! 憧れちゃいます」
力説するとパトリシアは再び笑いを堪えきれずに、目に溜まった涙を拭きながらこちらを見た。
「もうっ! 本当に可愛いんだからぁ!」
綺麗な人に可愛いと言われると、ちょっと嬉しい。
「うちのジェラルドとアンナを、交換して私の子にしたいくらいだわ。年もそんなに変わらないし」
「え~? 見た目は全然違いますよぉ」
「いいのよ。あの唐変木より、アンナの方がずっと可愛いもの!」
パトリシアが簡単にアンナと交換したがっているのは、三日後に国王になる王太子だ。年相応の彼は、今年三十三か四になるんだったろうか?
アンナはジェラルドのいくつか年下だが、年の取り方が違うから見た目はまだまだ子供だ。どちらかというと、そのジェラルドの息子のグレイグと年が近く見えるだろう。
パトリシアの笑いがようやく治まったのを確認してから、アンナはスカートを両手で少し持ち上げてお辞儀した。
挨拶するのをすっかり忘れていたのだ。
「お招き頂いてありがとうございます、王妃様」
「こちらこそ、呼び立ててごめんなさいね。忙しいでしょう?」
「そうでもないです。ジョーとレフが手伝ってくれるから」
パトリシアはアンナたち三人が、戴冠式の翌日にこの国を出ることを知っている。だから隠すことなくその話ができて、アンナは少し気が楽だ。
実は旅に出るのを知っているのはエドワードとパトリシアだけで、散々お世話になったケニーやシャスタ、オコナーやアルトマンにも内緒になっている。
実を言うと隠し事とか内緒の話などは、アンナの一番苦手とするところだ。ちゃんと話してちゃんとさよならを言いたいのに、できないなんて心苦しい。
どうして話してはいけないのかというアンナの問いかけには、みんながみんな違う理由を口にした。
エドワードは一国の大臣がこっそり姿を消すのはどうかと咎められたら、リッツには反論できないからだ、と言う。
フランツは『リッツは面倒なだけだ』とのことだったけど、本当のところは誰も知らない。リッツはそれを話してくれないからだ。
前にパトリシアに聞いたが、リッツが三十五年前に王都シアーズから姿を消したときも、知っていたのはエドワードとパトリシアだけだったそうだ。
秘密を抱えるって、結構辛くないのかなとアンナは思うも、疲れきっているリッツに正面切ってそれを問いかける時間が無い。
物思いにふけっていたアンナに、パトリシアが白くて綺麗な手で正面の空いた席を指さした。
「ここに座って」
「はい」
パトリシアに勧められるままにアンナは椅子に座った。目の前には美味しそうな焼き菓子と、ティーセットが置かれている。
今日の焼き菓子は薄焼きのクッキー。表面の砂糖がキラキラしていて、とっても美味しそうだ。残ったらジョーに持っていってあげようと決めた。
お菓子から顔を上げると、パトリシアの目が、じっと自分を見つめていることに気が付いた。
「何か付いてますか?」
思わず自分の顔に手を当てる。おかしな物は何も付いてないようだ。そんなアンナの様子がおかしいのか、パトリシアは唇に柔らかな微笑みを乗せた。
何だろう、気になる。
じっとパトリシアを見ていると、ふわりとパトリシアは微笑んだ。
「聞きたいことがあるの。いいかしら?」
柔らかなパトリシアの声にアンナは頷いた。
「はい」
形のいい細い指を唇に軽く当てて少し考えてから、パトリシアはこちらを見た。
「アンナはあの馬鹿のこと、好きかしら?」
「はい?」
馬鹿? 誰のことだろう。心当たりはない。
首を傾げると、パトリシアは微笑んだ。
「あなたの保護者よ」
アンナには保護者と呼べる人間が二人いるが、パトリシアが知っているのはそのうちの一人だけだ。
「リッツですか?」
「そう」
「あの……馬鹿でもないと思いますけど?」
真面目にそう答えると、パトリシアはまた笑った。
「私から見ると、馬鹿よ。この間の件を覚えているでしょう? あの人、またああして死にそうになったりしないか、私は心配しているの」
パトリシアがリッツを『あの人』と呼ぶのを初めて聞いた。その呼び方は、ふんわりと甘くて優しくて、妙にアンナの心を締め付けた。
二人は面と向かうといつも罵り合いか、怒鳴り合いをしているのに、本当はきっとお互いを大切に思いやっているのだなとわかった。
リッツに取って大切な昔の仲間は、リッツが思いやるのと同じぐらい、リッツを大切に思っているのだ。その絆の深さに気付かされる時、何故か少し胸が痛い。
「アンナ?」
「え?」
我に返ると、パトリシアが心配そうに覗き込んでいた。
「どうかした?」
「なんでも無いです!」
「そう?」
自分の心の中にあるこの感覚が何か理解できず、アンナはパトリシアに笑顔を向けた。
「ごめんなさい。リッツのことですよね。続けてください」
「そうね。では続けさせて貰うわね」
綺麗な手でカップを取り上げて一口紅茶を飲んでから、パトリシアは再び口を開く。
「アンナから見れば、頼りになるでしょうけれど、昔からあの人は危なっかしくて、馬鹿で、本当に向こう見ずだわ。私はいつも心配で怒ってばかりいたの。あの人には煙たかったでしょうけど」
そういってパトリシアは言葉を切った。真っ直ぐにアンナの方を見つめる。
「ねえ、アンナはあの人のこと、嫌い?」
真摯に尋ねられた言葉にアンナは即答した。
「好きです」
アンナにとってはそれは当たり前のことだ。アンナが大変な時に助けてくれるのは、いつもリッツなのだから。保護者として、仲間として、リッツは大切だ。
「本当に?」
「はい。お養父さんの次に大好きです。だからリッツの役に立ちたいっていつも思ってるんですけど、あまり役に立っていなくて……」
口にしてからアンナは何だか恥ずかしくなってきた。役に立ってなどいない自分がこんなことを言い出すなんて、身の程知らずにも程があるだろうか。
「だ、だからあの……せめて一緒にいたいなって……」
ああどうしよう。意味が分からない。
自分でもどうしていいか分からずにオロオロすると、そんなアンナにパトリシアは優しい笑顔を向けてくれた。
「よかった。それを聞いて安心した。あの人と一緒にいてくれるだけで、私は本当に安心できるわ」
「は、はあ……」
そうなのだろうか。全く分からない。だがパトリシアは満足そうにアンナの手を取った。
「アンナ、あの人をちゃんと見ていてね。また無茶をしないように、あなたがちゃんと見張っていて」
「王妃様……」
「三十年以上音沙汰がなくて、またどこかに行ったと思ったらもう二度と会えないのはごめんだわ。あの人は知らないだろうけれど、これでも私は、ずっと心配で気を揉み続けたのよ」
「あの……」
「その点、アンナが一緒にいてくれれば安心だわ。あの人も無茶はできないでしょうし」
そう言うとパトリシアは立ち上がった。暖炉の端にさりげなく置かれていたものを手に取る。
それは白銀に輝く杖だった。頭の部分には、編み込まれた白銀のカゴに包まれるように、透明の宝石がはまっている。
アンナはそれに見覚えがあった。あの国王暗殺未遂事件の時に、風の精霊を操るパトリシアが使っていた杖だ。
あの時は、じっくり見ている暇なんてなかったが、こうして見るととても綺麗な芸術品だと分かった。
愛しいものを撫でるようにそっと杖に触れながら、パトリシアはアンナに説明した。
「これはね、白銀と水晶でできているの。私が内戦の時からずっと手にしていた杖よ。精霊を扱う力を何倍にも高めてくれるの。持ってご覧なさい」
パトリシアの細い手が、その杖を両手で掲げるようにアンナへと差し出された。
座っていた椅子から飛び上がるように立ち上がって、アンナはその杖を恭しく受け取る。
「……軽い……」
見た目より遙かに軽いその杖に驚きの声をあげると、パトリシアは笑った。
「杖の部分をよく見て。一本の白銀じゃないの。細かく筒状に細い白銀で、編まれているのよ。全部が白銀だったら重くて持てないわ」
「すごいですね」
素直にそう感嘆すると、アンナはその杖をパトリシアに返そうと差し出した。こんな高価なもの、いつまでも持っていたら壊しそうで怖い。
だけどパトリシアは、こわごわと杖を差し出すアンナの手を優しく押し戻す。
「あの、王妃様?」
困惑しながらパトリシアを見上げると、パトリシアは優しく微笑んだ。
「持っていて」
「え?」
「あなたに使って欲しいの、アンナ」
一瞬言われた意味が分からず、首を傾げた。だが意味が分かった瞬間、悲鳴に近い声が漏れた。
「ええええええっ! 使えません!」
綺麗で高価そうな物は、そっと遠くから見ているくらいで丁度いいと思っているのに、それを持ち歩くなんて……ましてや使用するなんて怖すぎる。
「大丈夫よ、精霊使いなら使えるわ」
「違います! こんな高そうで壊れそうなもの、向いてないです!」
「結構頑丈だけど?」
もしも万が一にも、ポキン、なんて折れちゃったら、お詫びのしようもない。
というより、そんなことになっちゃったら、すごくショックだ。こんなに綺麗なのに。
それに……。
「もし壊れちゃったら、貧乏だから直せません!」
そのアンナの言葉が可笑しかったのか、再びパトリシアは吹き出した。
アンナは至極大まじめなのだが、パトリシアにはそう聞こえないらしい。
「いいのよぉ~、私もう使わないから壊れちゃっても気にしないわぁ~」
「私が気にします!」
狼狽えながらパトリシアに返そうとしても、笑いが堪えきれない様子のパトリシアは、決して受け取ってはくれない。
「本当に本当に、駄目ですってばぁ!」
「いいえ、貰って貰うわ。もしこのデザインが高価すぎて気にくわないなら……鍛冶屋に頼んで、恐ろしくつまんない杖に作り直して押しつけるわよ?」
「そんなの勿体ないです!」
「じゃあ貰っておけばいいじゃないの」
「だからそれは……」
しばらくの押し問答の後、アンナは悟った。
この人はエドワードの奥さんだ。おそらく頑固さはエドワードと変わらないに違いないと。
「……分かりました。お借りします」
せめてこれぐらいの譲歩は、受け入れて貰えるだろうか?
「ええ。あげるわ」
「……」
どうやら譲歩さえ受け入れて貰えないみたいだ。
何となくエドワードにやりこめられるリッツの気持ちが分かった気がする。
アンナの場合は困ってしまうだけだけど、リッツはそれに対抗しようとするから、ああなっているのだろう。
困ってパトリシアを見上げると、今まで可笑しそうに笑っていたパトリシアが、アンナの視線に気が付いて、一転真剣な表情を見せた。
「アンナ、お願い。その杖は私の変わりなの」
「王妃様の?」
「ええ。待つだけの身は実は結構辛いのよ。でも私の杖が、私の見込んだアンナの手であの人の元にあるのなら、少し心が落ち着くのよ」
「王妃様……」
本当は一緒に行きたいのかな。そう思ったけれど、ちょっと首を傾げる。
パトリシアは確かにリッツを大切に思っているだろうけれど、王都にはエドワードがいるはずだ。
こんな風にこの杖をリッツの元に送ってしまっていいのだろうか。
「私の代わりに杖が旅をする。いい考えよね? でも私は一緒にいないから使えない。そうなったらアンナが使うのが合理的でしょ? 違う?」
こう言われてしまったら、アンナも頷くしかない。
「分かりました」
「ありがとう」
今までの頑固なやりとりなど無かったかのように、パトリシアは清々しいまでに綺麗な笑みを見せた。
それを見てしみじみと理解する。
やっぱりリッツが命がけでエドワードとパトリシア、シャスタやジェラルドを守ろうとしたのと同じく、彼らだってリッツを守りたいのだ。
昔からの大事な仲間として。
でも立場上それができないから、一緒に行くアンナにそれを託してくれた。
だけどアンナは非力だし、彼らが望むように、リッツを助けられるかは全く分からない。
今まではフランツと二人まとめて、微妙にリッツの足手まといになっていたし。
見上げるとパトリシアは信頼に満ちた瞳でアンナを見つめてくれていた。彼女はアンナを託すにふさわしい人物だと認めてくれているのだ。
それならば一生懸命に、パトリシアの大切な友達であるリッツを守らなければならないだろう。それがこの杖を預かるアンナの責任だ。
パトリシアの変わりにはならないだろうけれど、この人の思いに答えたい。
「杖、ありがとうございます」
しっかりとパトリシアの紫の瞳を見つめてそう言うと、パトリシアは安心したように微笑んだ。
とにかくアンナにできることは、自分にできる限りの努力をする事しかなさそうだ。
パトリシアはゆっくりと椅子から立ち上がった。ドレスの裾が柔らかく揺れて、朝の光に眩しく輝く。そんな後ろ姿をアンナはじっと見ていた。
見られていることに気が付いているのかいないのか分からないが、パトリシアが柔らかく語りかけた。
「男って言うのはね、いざって時に全く頼りにならないの。頼み事をするなら頼りになるのは女だけ」
ゆっくりと振り返ったパトリシアの顔には、悠然とした微笑みが浮かんでいる。
いつも通りの王妃の顔だ。
「頼んだわよアンナ。私の大事な人たち(ヽヽヽ)を守ってね」
「はい」
返事をしつつ、ちょっとアンナは引っかかった。
人たち(ヽヽヽ)?
あれ、リッツのことだったんじゃ……?
その疑問は、後に明らかになるのだが、今のアンナには知るよしもなかった。




