<6>
久しぶりに天気がよくなったので、アンナは早朝から庭に出ていた。吐く息が真っ白だ。
冬独特のどこまでも高い真っ青な空は、澄んだ絵の具で塗り固めたみたいに透明で綺麗だ。いつまでも見ていたいけれど、寒くてそうはしていられない。
積もるほどでもない雪が解けたあとは、あちこちが泥で汚れてしまうから、どうしても掃除がしたいのだ。
それにアンナは刺すように冷たい、新鮮な朝の空気が大好きだ。生まれたての空気が身体に満たされると、新しい日の始まりが心を洗ってくれて、新たな気持ちに向かわせてくれるような気がする。
「さむ~い」
言葉と共に吐き出された空気は、ふんわりと白く煙る。冬の晴れ間はとても寒くて、アンナは手に息を吹きかけた。故郷の冬より雪も少ないからと、ついつい油断してしまったせいで素手だ。やはり手袋を持ってこようか……。
だがアンナはすぐにその考えを改めた。
教会にいた頃は常に素手で仕事をしていたのだから、たいしたことはないはずなのだ、本当は。最近アニーが色々気にしてくれる御陰で、こんな寒さを忘れてしまっていた。
今頃ふるさとは雪の中だ。屋根の高さほどに降り積もった雪が、畑も果樹園も牧場も暖かく包み込む。雪から出ている場所の方が凍り付いてしまうほどに寒いあの景色が懐かしい。
去年の今頃、何をしていただろう。雪に覆われた中で、秋に苅られた羊の毛を紡ぎ、暖かな編み物を作っていただろうか。川縁に広がる一面の麻を収穫して干した物で、リネンを織っていただろうか。
いずれにせよ、今のこの快適な生活とは雲泥の差だ。何しろ雪かきが無いのだから。
「お養父さん、みんなごめんよぉ~、ちょっと私楽しすぎちゃってるよ」
遠くヴィシヌの村にいる養父と孤児院の子供たちにそう小声で謝る。思い出すと故郷はとても懐かしくて、その風景は優しくて、切なくて……。最近はそれを思い出すたびに胸が痛んだ。
何故そんなに切ないのか、寂しくなってしまうのか。自分でもよく分からない。そんなに遠くに来たわけではないのに、どうしてか故郷は遠く感じる。
そんな切なさをふるい落とすかのように、アンナは頭を振った。いけない、いけない、掃除に来たのに、物思いに耽っている場合じゃない。
「毛糸が安く手に入ったら、リッツとフランツにマフラー編んであげようかな。それともニット帽かな? ジョーに編み物教えてあげようかな」
王都では毛糸もカラフルに染められて売られていることを最近知った。でも値段がヴィシヌとは格段に違う。
「何色が似合うかなぁ……」
アンナは一人想像しながら地面に置いた掃除用具を再び手に取った。バケツとデッキブラシを持ってきたから、せめて玄関前のテラスくらいは磨きたい。無心に掃除をするよりも、こうして色々考えながら掃除をしていた方が楽しい。
力を込めてデッキブラシでこすっていると、ふと青く澄んだ空にたなびく煙が目に入った。屋根にある暖炉の煙突から煙が立ち上っている。誰かが起きて、火を入れたのだろう。
「誰が起きたのかな」
風にたなびく煙を眺めながら、アンナはひとり呟いた。
「絶対リッツ以外の誰かだよね」
微かに胸の痛みを覚えつつ、アンナはリッツの部屋の窓を見上げた。
昨晩リッツは、随分と疲れて帰ってきた。いつもならリビングにいるアンナたちと、少し話をしてから二階に上がっていくのに、昨夜は顔を見せただけだったのだ。
笑っていつも通りにしているつもりだったかもしれないけど、いつも通りのリッツでは無いとすぐに気がついた。それだけで何か胸がざわついた。
日課として、寝る前にリッツの部屋へお休みの挨拶に行く事にしているから、昨晩もアンナはリッツの部屋に挨拶に行った。
リッツはいつも通りに部屋にいたが、一つだけいつもとは違った。一人で酒を飲んでいたらしいのだ。酒は陽気に外で飲む主義のリッツには、非常に珍しいことだし、そんなリッツをアンナは初めて見た。
いつも通りの笑顔で言葉を交わしたリッツだったが、どことなく暗い目の色と、いつになく強い酒の匂いがやけに気に掛かかってしまった。
あのあとも少々気になって、ジョーが寝てから様子を見に行ったのだが、部屋から明かりは消えていなかった。
そーっとドアを開けて隙間から覗き込むと、何やら思い詰めたような顔で、リッツが酒瓶を抱えているのが見えた。声をかけることも出来ずに、黙ってアンナはドアを閉めた。
そのリッツの苦悩は、アンナに不思議な影を落とした。胸に突き刺さるような痛みの原因は分からないけれど、ざわつく気持ちの正体は分かった。
それは不安だった。何故だろう、リッツの暗い瞳に、何となく自分も持つ共通の何かを感じ取ってしまったのだ。それが何かは自分でも分からないけれど、ひっそりと心の中に影を落としていた。
誰かに相談しようかとも思ったけれど、何故だかアンナは、それを誰にも話すことが出来ないでいる。アニーやエヴァンス、ジョーはもちろん、共に旅してきたフランツに対してもだ。
きっとアンナの中にある、リッツと共通する影がそうさせているのだろう。
「大丈夫かなぁ、リッツ……」
自分のことは置いておき、アンナはリッツの心配をした。無意識に手にしていたデッキブラシをバケツに突っ込んだ。冷たい水が未だ乾いたままの冷え切った地面にあふれ出す。
「あ~あ、こぼれちゃった」
そのあふれた水をデッキブラシで広げて、ごしごしと力を入れて磨く。靴に付いた泥で汚されてしまった焼き煉瓦のテラスに、元の色が少しずつ戻ってくる。そうしていると、少しだけ気が紛れた。
リッツは、誰かに相談しないんだろうか。
ふとまた思考がリッツへの心配に戻った。それともエドワードの話しているのだろうか。エドワードはリッツの親友で、リッツの最も信頼する人だから、アンナへのリッツの信頼など、エドワードの足下にも及ばないだろう。
でも……リッツの悩みを受け止めるのは、アンナじゃいけないんだろうか。いつもリッツに世話になっているから、何かリッツの役に立ちたいのに。
ふとそんなことを考えてしまう。でもアンナは分かっているのだ。アンナに対するリッツの信頼は、それほどのものではないのだと。
きっとリッツが相談する相手は、アンナでは無くエドワードや昔の仲間なのだろう。
「もっと大人だったら、信頼してくれたのかなぁ」
ポツリとつぶやいてから、アンナは首を振った。考え込んでいたって、きっと答えは見えてこない。だから今やるべき事をするしかない。そして今やるべき事といえば掃除だ。
握っていたデッキブラシにアンナは力を込めた。 どれくらいそうしていただろうか、テラスの大部分を磨き終えて顔を上げた時、アンナは表門の前に誰かが立っていることに気が付いた。
遠いし、門柱に隠れているからチラチラとしか見えないが、その人物の背がアンナよりも大きいがフランツよりも小さい事と、亜麻色の髪をしていることだけは分かった。
その人物は何かを探しているらしかった。その何かはこの家に関係がある物らしい。それに気が付いたアンナは、デッキブラシとバケツを片隅に寄せて、表門へと向かった。
近づくに連れてその人物がよく見えてきた。まだ子供だ。少年らしい。見た目はきっとアンナと大して変わらない。
なおも近づいたとき、アンナはその人物に見覚えがあることを思い出した。
「あ、あの人……」
その少年は、地味な格好をしてマフラーで顔を隠していたが、確かにあの日……新祭月二日に闘技場で見た顔だった。
あのリッツに戦いを挑んで、あっけなく負けてしまったあの人物……。
門の正面に立って、自分の記憶に間違いないことが分かった。
「グレイグ親王殿下だ……なんで?」
アンナに気が付いたグレイグは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに顔を引き締めて、アンナをじろりと見下すように眺めた。
ちょっと感じが悪いなと思ったが、それを口には出さずにアンナは門の前に立った。
「こんなに朝早く、ご用ですか親王殿下」
アンナだって、一応丁寧な口はきけるのだ。だがアンナのにこやかな笑みと、普段は見られないような丁寧な口調にグレイグは冷淡をもって返した。
「用があるから来た。大臣に話がある。門を開けろ」
頭ごなしの態度にアンナは少々腹が立った。孤児院の子供たちには、人の家を訪ねるときこんなに横柄にしていいなんて教えていない。
何事にも礼儀は大切であるし、親しい仲にもお互いへの尊敬はあってしかるべきである。
アンナはじっと、挨拶の出来ない少年を見据えた。孤児院勤めが長いアンナは、きちんとした挨拶の出来ない子供に注意する義務があると信じている。
そんなアンナの態度に少々苛ついたように、グレイグは声を荒げた。
「いつまでこんなところに立たせておくんだ? 早く門を開けろ」
アンナは腰に手を当ててグレイグを睨んだ。
「いや! 開けない」
「なっ……」
グレイグは絶句した。たぶんこんな風に言われたのは生まれて初めてなのだろう。だから挨拶をまともに出来ないのだ。
「僕が誰だか分かっているだろう? 開けろ」
腕を組んだまま苛々と人差し指で自分の腕を叩きながら、グレイグは半分怒鳴っている。だがアンナは引かなかった。
「ぜ~ったいにいや!」
「何故だ?」
アンナはビシッと、グレイグに人差し指を突きつけた。今まで指さされたことなどないだろうグレイグは、こんな近くで、しかも正面から指を指されて、面を喰らったように目を見開いた。
「あのね、親王殿下だからって挨拶しなくてもいいって事はないと思うの。こんな朝早く人のうちを尋ねてきたんだよ? まずおはようの挨拶があってもいいと思うよ。それって当たり前のことなんだから」
「な……」
「きっと王族でも、農家の人でも、商人でも、みんな一緒だよ。礼儀を知らない人間ほど、みっともないものはないんだからね!」
「み、みっともない?」
「そうだよ! エドさんだって国王様なのに、ちゃんとみんなにおはようっていうもの」
一気にまくし立てるだけまくし立ててから見てみると、グレイグは口をあんぐりと開けている。反論できないのか、反論することを忘れているのか分からない。
心底驚いたあまり、怒りを通り過ぎて呆けるしかないのかもしれない。だがアンナはそこでやめたりしなかった。
言ってあげる人がいないと、自分の悪いところに気がつかずに終わってしまう。それは絶対に駄目なことだ。グレイグは将来王になる人だから、余計礼儀は大切だろう。
エドワードとパトリシアの孫に、無限の悪夢に囚われたスチュワート偽王のようになって欲しくない。
「それから私はあなたの召使いじゃないから、命令されたって知らない。やって欲しいことは、ちゃんとお願いしないとダメなんだよ。分かる?」
ようやく我に返ったグレイグは、アンナをじっと見つめた。どうやら渋々ながら負けを認めるらしい。寒いから早く中に入りたくなったのもあるだろう。
「お、おはよう。朝早くから済まないが、大臣に用があって来た。開けて貰えないだろうか」
言葉の端々に悔しさが滲み出しているのは、単なる気のせいだろうか?
「うん。ちゃんと言えたね、いい子」
アンナは満面の笑みを浮かべながら、孤児院の子にするように、門扉越しにグレイグの頭を撫でた。とたんグレイグの顔がぱっと嬉しそうに笑み輝いた気がした。
でもその直後、グレイグは慌ててその笑みを消すが、顔がみるみる真っ赤になる。熱でもあるのだろうか? どうも怒りではないようだが、何故なのかはアンナには分からない。
門扉の内鍵を外して扉を開けながら、アンナはグレイグに微笑みかけた。
「六十点くらいだけど、いいかな。どうぞお入りくださいませ」
「……ありがとう」
グレイグはそういうと、足早にアンナの横をすり抜けようとしたグレイグをアンナは呼び止めた。
「なんだ?」
赤い顔のまま俯き勝ちに、ちらりとアンナを盗み見たグレイグに、アンナはにっこりと微笑んだ。
「お礼はちゃんと言えたね。満点だよ」
今まで以上に真っ赤になったグレイグは、アンナから目をそらした。湯気が出そうに真っ赤だ。さっきは寒いと言っていたのに、今度は暑いのだろうか?
このぐらいの年頃の男の子って、やっぱりいつも難しい。孤児院の世話役時代も、結構気を遣った年代だ。
「大臣に用があるから取り次いでくれ……」
「はい、殿下。お待ちくださいませ」
急にグレイグを連れて行ったらびっくりするだろうか。アンナは玄関の扉を開け、中でグレイグを待たせると、一人で談話室へ急いだ。そこにはいつもアニーとジョー、エヴァンスがいるのだ。
「お客さんなの。寒いみたいだからアニー、お願い」
「こんな早くに?」
「うん。グレイグ親王殿下だよ」
「!!!」
声にならない声を上げて、ジョーとアニーが飛び上がった。エヴァンスも目を瞠っている。
「温かいお茶を入れてあげてね」
「! もちろんだわ! どうしましょう、どんなカップを出せばいいの? 王家の方なのに!」
右往左往するアニーに、アンナは首を傾げる。
「……エドさんと同じでいいと思うけどな……」
「それは……陛下はよく来られるけれど……親王殿下でしょ?」
「でもエドさんの方が王様だよ?」
「あ、そうね、そうだったわ」
アニーが納得したように調理場に飛び込んでいった。あまりに頻繁に出入りするせいで、この家の面々はエドワードに慣れきっているのだ。
「アンナ、俺、どうしよう!」
慌てるジョーにも首を傾げる。
「どうって……普通にしてればいいと思うけど」
「王族いるのに普通とか無理じゃん! 陛下だけでもびびってるのに!」
「大丈夫だってば。取って食われるわけじゃ無いって」
ジョーを宥めていると、フランツが談話室に困惑顔で降りてきた。
「アンナ、玄関に誰かいるけど?」
「うん。グレイグ親王殿下」
「……ここは王室のたまり場?」
珍しく早く起きたフランツは困惑しながら二階に戻ろうとしたが、縋るようにジョーに見られて踏みとどまった。
「何?」
「王族の中に平民一人は嫌だ。あの、フランツさん、一人より数人いてくれた方が助かる」
「……分かった」
やれやれといった顔で食堂の椅子に座ったフランツは欠伸混じりに髪を掻き上げる。
「今日は早いね、フランツ」
「ベットで本を読んでいたらそのまま眠て、早く目が覚めた」
「そっか」
とするとやはりリッツは、まだ寝ているのだろう。昨日の今日だから可哀相な気もするが、お客さんが来てしまったのだから仕方ないだろう。
だからリッツの昨晩の状況を知っている、アンナが迎えに行くのが適任だ。
「リッツに会いに来たみたいだから、起こしてくるね」
アンナは心の中のもやもやを振り払って、リッツを起こすべく二階へと向かった。
リッツは寝癖だらけの頭を掻きながら一同が集まっている食堂に一番最後にやって来た。
昨晩は考え込みすぎてほとんど眠れなかった。酒の力を借りようとしたのに、余計目が冴えてしまってついつい酒量も多くなるだけだった。
ようやく親友に会うことができて、ようやく仲間たちの顔を見ることができたというのに、この期に及んで自分の寿命を覗き見て怯えているなんて、情けないことこの上ない。
起こしに来てくれたアンナも、何だか要領を得なかった。掃除がどうとかグレイグが挨拶をしなかったから叱っておいただの、何が何やらさっぱり分からない。やっとの事で着替えてきたのは、アンナが部屋を出て行ってから五分ほどたったころだった。
だが親王と会うに、相応しい格好とはお世辞にも言えない。
着ているのは、飲みに行く時の普段着だったし、変装もこの短時間ではしようがない。寝癖の付いたままの黒髪は、寝起きで乱れたまま、櫛も入れていないが、待たせるよりもましだろう。
リッツが食堂にはいると、そこは微妙な緊張感に包まれていた。アンナとフランツは特にいつもと変わらないのだが、他の三人は緊張感で張りつめていた。特にジョーはもの凄い。
置物のように凝り固まって、先ほどからピクリとも動かないのだ。微かに動く時はがちがちに震えているのが可笑しい。
つい先日までスラム街でケチなスリ稼業をし、行き当たりばったりに日々の糧をえてきた彼女が、王族、しかも親王と同じテーブルに着いたのだから、その緊張は想像しがたい。
アニーは、幽霊でいいのかしら、というように戸惑った顔をしているし、エヴァンスも少々表情が硬い。
そんな中でグレイグは、身じろぎもせず静かに座っている。王族として平静にというのは、きっと生まれながらにたたき込まれているのだろう。
リッツが食堂に現れると、グレイグ以外の面々の顔に、あからさまにホッとした空気が流れた。
「よおグレイグ、早起きだなぁ……」
欠伸混じりにそういったリッツを見たグレイグは、目を見開いた。
「ん? 何か付いてるか?」
頭を掻きながらそう尋ねたリッツは、グレイグが驚く理由に思い至った。何か付いているのではない、何も付いていないから驚いているのだ。白髪でもないし髭もない、片眼鏡もない……。
「大臣、それは……」
驚きのあまり言葉のでないグレイグに、リッツは誤魔化しも利かず寝癖だらけの頭を掻いた。
「ん……俺意外と若いだろ? 驚いたか?」
「驚くぞ! いったい幾つなんだ! 父上よりも若いのか?」
いきり立つグレイグに、リッツは笑うしかない。
「そんなわけあるか。内戦の時から前線にいるんだぞ? 俺はジェラルドよりも遙かに年上だ」
どうやら、王族やシャスタ、侍従長たちは、誰もリッツの見た目年齢について話していないらしい。
歴史書で読んだと豪語していたから、グレイグはリッツが精霊族であることは知っているだろうが、どう歳をとるのかは書物の中には書かれていない。
「グレイグ、俺は人間とは年の取り方が違う」
あっさりと答えたリッツの言葉に、一瞬にしてグレイグの顔が変わった。驚いたような、興味深そうな顔でリッツを見たのだ。
滅多に森を出ないといわれる一族なのだから、珍しいことは間違いない。それに年齢のことなど、リッツは聞かれないと話したりしないし、精霊族の年齢について知られていることは少ない。
現にリッツは自分以外の一族には森の外で出会ったことがない。
「では大臣……」
「ああ、リッツでいいぞ。面倒だろう?」
「ああ。ではリッツ、いったい幾つなんだ?」
父親とは違って、理屈のいらない性格だ。詰問から純粋な疑問にグレイグの疑問は変わっていた。彼は変に大人っぽく振る舞っているから、この辺はまだ子供らしくて好ましい。
「俺は一五〇歳になる」
「一五〇! そんなに!」
「そうだ。お前の十倍以上だな」
「へぇ……。あ……」
感嘆の声をあげたグレイグは、慌てて口をつぐんだ。自分が子供っぽい態度を取っていたことに、気が付いたようだ。慌てて深刻そうな顔を作ったがすでに手遅れである。
「お前もそうしていると、普通の子供なんだがな」
楽しげにそういってみると、グレイグは案の定怒りで顔を紅潮させた。
「子供扱いするな!」
「はいはい。まあそう怒りなさんな」
軽くいなされると、グレイグはふてくされたようにリッツから視線をそらした。きっと彼は今まで、このように彼を普通の子供として扱う人間に出会ったことがないのだろう。
ムッと黙ったままのグレイグの横顔に、リッツは誰にも気付かれることのない、小さなため息を付いた。
生まれたときから約束されている、将来の国王の座。確かにそれでは普通に暮らせるわけがない。それはそれで仕方ないのだが、リッツには少々それが心配なのだ。
彼の将来の話ではない、国の将来のことだ。
エドワードは庶民の子として育った故に、人民第一の政策をとる国王となった。ジェラルドはあの温厚な性格と、自らを省みる性格を考えると非道にはなれない気がする。
だがこの子は、最初から国王の直系の孫として生を受け、王宮内で何不自由なく成長し、自らの剣の腕を過信している。その当たりがどうも気になる。
そこまで考えてリッツは自嘲の笑みを浮かべた。そんなことを考えるのは、リッツの仕事ではない。国王や王太子、王妃の仕事だろう。どうやら自分は、この国の行く先に神経質になりすぎているらしい。
今までこの国を離れていたから、国の内情のことなど気にもしなかったが、いざ中枢に戻ってきてしまうと、いらないことに頭を悩ませてしまう。
「殿下、朝ご飯は? 食べてきたの?」
アンナがグレイグに尋ねている声で、リッツはふと我に返った。どうやらリッツが考え込んでいる間も、グレイグは黙ったままだったらしい。
「話が先だ。食事はまだいいよ」
どうやらグレイグは、アンナに少々気を使っているらしい。何かあったのだろうか?
そんなリッツの疑問はさておいて、グレイグは再びリッツにじっと視線を注いだ。
「それじゃあ聞こうか。何の話だ? こんな早朝に押しかけてくるのだから、大層な話なんだろう?」
背もたれにもたれて伸びをしたリッツは、姿勢を正してグレイグに尋ねた。少々逡巡したのち、グレイグは意を決したように、リッツを真っ直ぐに見つめて言った。
「リッツは父上と、麻薬組織の壊滅に行くそうだな。しかもそれは、命がけの危険な任務なんだろう?」
グレイグの口から出た言葉は、その場にいた全員を驚愕させるのに十分だった。驚きの視線はすぐにリッツに注がれる。
「え? そんなことひとことも……」
戸惑ったようにアンナがフランツを見る。フランツは黙って首を振っている。
まいった、無駄な心配を掛けないよう、二人にも秘密にしていたというのに。
「何でそれを知っているんだ?」
すっ惚けてみても誤魔化しがきくわけでもなく、リッツはそうきり返し、グレイグを静かに見据えた。今までの緩やかな態度から一変した、言い訳や言い逃れを許さないその目に、グレイグはたじろぎ、小さく答えた。
「昨日……会議室の外で聞いていた……」
そういえば昨日の会議は、扉の外に見張りを立たせていなかった。余計なことを外部の人間に少しでも漏らしたくなかったのだ。それが災いした。まさかグレイグが聞いているとは。
「なるほど、極秘の会議を盗み聞きしたのか」
「盗み聞きとは無礼ではないか!」
「お前がやったことが、盗み聞き以外のなんだというんだ!」
リッツに一喝されて、グレイグは頬を真っ赤に紅潮させた。
「だから何だというのだ! 父上が危険な任務に赴こうというのに、この僕に何も知らせないとは卑怯じゃないか! 僕にも聞く権利はあったはずだ!」
グレイグは逆上し、自分勝手な言い分でまくし立てた。
「相談役としてリッツが一緒に行くと、訓練場で聞いたから……」
ということは、グレイグはずっとリッツとジェラルドを付けていたということか。
「お前、あそこまで付いてきていたのか。呆れるな」
「悪いか! 何故父上は最近になって現れたこんな得体の知れない男に、自分を守らせることが出来るのだ? 僕には理解できない!」
怒りと苛立ちで顔を紅潮させたまま、グレイグは感情をリッツにぶつける。リッツは本日ここへ来た彼の目的を何となく察した。
きっと彼は悔しかったのだ。そしてただただ腹立たしいのだ。突然現れた人物に信頼を寄せる、祖父や父のその態度が。
そして、そんな信頼できない相手に、あっさり敗れた自分の実力が。
「変装をして素顔さえ晒さないやつに、どうして父上は信頼を置く? 御祖父様は何故あっさりと総てを預けようとするんだ!」
行き場のない怒りは、リッツに真っ直ぐ向けられる。敢えてそれをそのまま黙って受け止めた。
「麻薬組織とお祖父様を殺そうとした奴らは、手を組んでいるそうじゃないか。そんな状況で、お前が国王暗殺を企んだやからの仲間ではないという保証が、いったいどこにあるんだ!」
一気にそこまで言ってから、グレイグはやり場のないその怒りを自らの拳に込めて、テーブルを叩いた。
国王暗殺という言葉とテーブルの振動で、エヴァンスやアニー、ジョーが打たれたように硬直した。
国王暗殺未遂事件……。これは国民には全く知らされていないのだ。現に王都は今まで通り平穏で、そして国王の様子にも変わりはない。
「何故僕ではいけないんだ? 父上と共に行き、父上を守るのが何故僕であってはいけないんだ……」
怒りから悔しさへと静かに変わっていくグレイグに、立ち上がったアンナが近づいた。そっと肩に手を掛ける。こうするとグレイグよりアンナの方が数段大人だ。
「……大丈夫?」
「大丈夫だ」
少々落ち着いた様子のグレイグに、リッツは静かに告げた。
「お前の気持ちは分かった。だがお前では駄目だ、ジェラルドを守れない。ジェラルドはお前の父親である以上に、この国の王太子だ」
再び怒りが再燃しそうなグレイグに、リッツはあくまでも冷静だった。
「俺のことを信用できないのなら、それはそれで構わん。だが今回の任務で重要なのは人の命を守れる、本当の実力のみだ。お前にはそれがない」
「なんだと?」
再び怒鳴り出しそうなグレイグにその隙を与えず、リッツは言葉を続けた。
「自惚れるなグレイグ。お前の剣は、人を守る剣ではない。自らを誇る剣だ。所詮訓練のみの児戯に等しい」
厳しい口調でそう断言したリッツに、誰も口を開くことが出来なかった。ジョーなどは萎縮したように身を縮めている。当然だろう。今まではアンナやフランツにさえも、こんな姿を見せたことがなかった。あくまでも気楽でぐうたらな男として彼らの前にいたかったからだ。
だがもう、その望みは絶たれてしまった。
長く続いた痛いほどの沈黙のあと、グレイグは怒りを込めた瞳をリッツに向けたまま呻いた。
「僕は役立たずだと、そう言いたいのだな?」
「その通りだ。お前が出る幕はない」
内に込めたままの怒りを叩き付けるように、グレイグは立ち上がった。椅子が音を立てて倒れる。
「邪魔したな」
一言そういい残し、グレイグは口もきけないでいるジョーやアニーたちの後ろを通り、どかどかと足音も荒く食堂を出て行った。
「ちょっとまってグレイグ! ね、リッツ行かせちゃっていいの?」
焦るアンナに、リッツは黙って肩をすくめて見せた。
「もうっ!」
アンナは口を尖らせてリッツを軽く睨んでから、グレイグの後を追った。きっといつものように、どんなにきついことを言っても、最後には必ず相手を認めるリッツのやり方を期待していたのだろう。
だが今回ばかりは、どんなにグレイグが騒ぎ立てても、リッツの任務における役割が変わるわけではない。
リッツの役目……それはジェラルドの命を守ることを最優先に、国王として足りない自覚を持たせること。それだけだ。
残った全員の視線が痛いが、リッツは沈黙を守った。そんなリッツに問いかけてきたのは、フランツだった。
「リッツ、麻薬組織を壊滅させる任務があるのは本当だね?」
「ああ」
フランツは小さく息をつく。フランツにはフランツのいいたいことがあるのだろう。
「僕らは連れて行けない……そういうこと?」
「そうだ。すまないが、二人を守れるような状況じゃない」
リッツは敢えて淡々と答えた。問いかけたフランツは、小さくため息をついく。おそらく彼は自分たちが行くことは足手まといだと分かっているのだろう。
でも今まで共に来て、スチュワートの事件にも立ち合っている。だからこそ本当はこう聞きたいのに違いない。『一緒に行くことは出来ないか』と。
おそらくアンナも同じ事を考えるに違いない。
でもリッツは、この件に二人を巻き込む気は更々無かった。二人ともまだ若いし経験不足だ。これからも長い人生を生き、色々な物事を知って成長して行くべき二人なのだ。
だから命を捨てても、過去の約束を守ろうとするリッツの、危険な任務に巻き込むわけにはいかない。
「フランツきっとお前にはわかるだろう? グレイグが何故ああも戦いに身を置こうとするか」
「……?」
分からずに困惑するフランツに、リッツは静かに告げた。
「あいつはまだ、人を殺すことの出来る力を持っていることの恐怖を知らないのさ。だから力を振りかざしたがる」
フランツがハッとしたように青い眼を見開き、それから深く頷いた。フランツはサラディオとラリアの館で、自分の力が人の命を奪えるのだということを知った。
でもグレイグはまだ、あの修羅場を知らないのだ。
「アニー、朝食。今日も打ち合わせに行かねえと」
全員の問いかけるような視線を無視して、リッツは大きく息をつくと、置いてあった新聞を広げた。




