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呑気な冒険者たち  作者: さかもと希夢
大臣の帰還
60/224

アンナの大冒険<3>


 リッツが目を覚ましたのは、柔らかな夕日が部屋に降り注ぐ夕暮れだった。誰かが部屋に入ってきた気配を感じ取ったのだ。

「起こしたか」

「……何でお前がここにいる……」

 掠れた声で一応抗議してみるが、抗議された方は涼しい顔をしている。

「馬鹿も風邪を引くという実例を、見逃す手はなかろう?」

「……余計な……お世話だ……」

 庶民の格好をし、リッツを平気で馬鹿にしているこの男は、言うまでもなくエドワードである。

 別段変装することもなく無造作に金の髪を束ね、帽子を被っただけでフラフラと出歩いていて、国王だとバレないのが不思議だ。きっと人々の『国王がこんなところにいるはずない』という常識が隠れ蓑になっているのだろう。

「それにしても丈夫な男だ。一晩も雪に埋もれていたそうじゃないか」

「……」

「アンナが大騒ぎをしていたぞ。俺はてっきりお前が死んだもんだと思ったが、存外しぶといな」

「……うるせえ」

 ぜいぜいと苦しい呼吸ながらも、リッツは自分で朝よりよくなっていることに気が付いた。

 朝は意識がはっきりしなかったが、今はしっかりしているし、多少腹も減ってきた。呼吸が苦しいことと、体に力が入らないことを以外は順調に回復してきているらしい。

 エドワードに『しぶとい』言われると腹が立つが、本当に自分は丈夫だと改めて実感する。

「……何しに……きたんだよ」

「……パティがな……」

 ため息混じりにそう呟いたエドワードの視線の先に、大量の果物が入った籠と沢山の服らしき物があった。この大量の荷物は、全てエドワードが持ち込んだらしい。

 ちなみにパティとは、この国の王妃であるパトリシアの愛称である。つまりエドワードの妻だ。ちなみに彼女とリッツも昔なじみである。

「……なんだそれ」

「お見舞いだそうだ」

 起きあがれないリッツに変わって、エドワードが説明する。

「まずこれが果物の盛り合わせだそうだ。王宮の調理場にあった果物を、とにかく何でも詰めたという感じだな」

 なるほどエドワードの言うとおり、籠の中には何ら統一性のない果物が、手当たり次第に雑多に押し込まれているようだ。

 だがこんなに大量の果物を、一体どうしろというのだろう。

「風邪には果物がいいそうだ」

「……そんなに喰えねえって……」

 気にかけて貰えることには感謝するが、あり得ない量だ。自分は牛か馬だとでも思われているのか?

 そういえば彼女は、幼い頃から男の中で生活してきたから、何をするにも豪快なのだった。そんなことを思い出しながら、ベットに沈み込む。

「それからこの服は、寝間着の替えだそうだ。風邪を引いた時には着替えが沢山要るだろう、とのことらしい。引っ越してきたばかりではあまり着替えがないだろうってな」

「それは助か……」

 素直に感謝を表そうとしたが、エドワードは溜息交じりに大量の服が入ったバスケットを開いた。

「言っておくが、パティが適当に見繕っているから、お前が着れるサイズがあるか分からんぞ」

「は……?」

「サイズが分からないから、仕立てて持たせるわけにも行かなかったらしくてな」

 ありがた迷惑とは、こんな状況で使う言葉かも知れない。

「……そんなにいらねぇよ……」

「だろうな。せめて俺のだけ持ってくぞ」

「は?」

「適当にあいつが見繕ったといったろう。ここにあるのは俺の寝間着と息子の寝間着が大半だ。あとは来客用のもあるかな。来客用の一番大きいサイズのは、お前だって着られるだろう? まあ、丈は当然足りないだろうがな」

「来客用以外は持っていって……くれ」

 話すことは話したと、リッツはまたベットに沈み込んだ。何だか口を開くだけで疲れる。風邪など滅多に引かないから、余計体が辛いのかもしれない。

「これ喰うぞ」

 エドワードもそんな病人の様子を知ってか知らずか、勝手に自分が持ってきた果物の皮を剥き、食べ始めている。

 多分エドワードは、見舞いにかこつけてここにさぼりにきているのだろう。だったら放っておいても問題ない。

 その証拠に、当たり前のようにコートのポケットから本を取り出して読み始めた。しかもどう見てもそれは娯楽の本で、仕事とはほど遠い代物だ。

 リッツはぼんやりと頭の上に載せられたぬるいコットンタオルを、近くにあった洗面器に放り込んだ。誰が乗せてくれたのか分からないが、換えるのは面倒だから、これはこれでいい。

「そういえば……」

 ひとつ目の果物を片付けたエドワードが、リッツに向き直った。

「変わったメイドを雇っているな。あれがこの家にいた幽霊か?」

「ああ」

 一応この家で会った出来事の顛末を知っているエドワードだったが、本当にアニーの姿を目にするまで幽霊のメイドが信じられなかったらしい。

「長年生きてきたが、幽霊のメイドは初めて見る」

「だろうな」

 リッツだって初めて見る。それどころか自分が雇うとは思っていなかった。

 しかもこの幽霊の旦那は光の精霊使いであり神官だ。こんな事は今まで例を見ないだろう。

「でもいい子みたいだな。話してみると分かる」

「ああ」

 どうやらエドワードは、リッツが起きるまでアニーと話していたようだ。

「アンナが見あたらないが、出掛けたのか?」

「……知らねぇぞ」

 リッツはようやく気が付いた。こんなに大量の珍しい果物があるのに、アンナがこの部屋にきていないのはおかしい。食料のあるところにアンナありなのに。

 しかも果物は大好物と来ている。珍しいこともあるものだ。

「どこ……行ったんだ……あいつ?」

 気がかりそうに首を捻ったリッツに、エドワードは次の果物の皮を剥きながら、のんびりと答えた。

「たまにお前が家にいる時くらい外に出たいんだろうな。お前とフランツが家にいないから、アンナは常に留守番だとメイドがいっていたぞ」

「……」

 自分が寝ている間に、何を言われてるか分かったもんじゃないと、リッツは密かにため息をついた。



「う……」

「気が付いた?」

 アンナはようやくホッと胸をなで下ろした。この少年、随分長いこと意識がなかったのだ。当たり所が悪かったらしい。

 必死で治癒魔法をかけたのだが、回復までに相当かかってしまった。

「……誰?」

 戸惑ったように少年はアンナを見上げた。ひどく困惑した表情を浮かべている。水の球をぶつけてしまった後、気を失った少年を前に途方に暮れているアンナを助けてくれたのは、元漁師と名乗った白いヒゲの老人だった。

 暇で何か面白い物はないかと散歩していたところでアンナ達を見つけて、楽しく観察していたのだという。元漁師の老人は、面白い見せ物のお礼だといって、彼の家のベットを貸してくれていた。

「よかったな嬢ちゃん、坊主が生きててよ」

「よかったです」

 アンナはようやくホッと胸をなで下ろした。もしかしたらとんでもないことになってしまったかもしれないと、心配していたのだ。

 少年は頭が痛むらしく癖のあるブラウンの髪をかき混ぜるようにさすっているが、それ以外は大丈夫そうだった。

「死んじゃったのかと思って、慌てちゃって……」

「なあに、このぐらいで死ぬヤツはおらん」

 少年はまだぼんやりと、和やかに老人と話をするアンナの顔を見ていた。その顔をアンナは覗き込んだ。少年にはまだ状況が飲み込めていないのだ。

 そんな少年のベットの脇にあった椅子に座って、アンナは少年の手を取った。

「ごめんね。まだ水の球調整できなくて……」

 アンナの声の調子から、ようやく少年は状況が飲み込めたように、目を見開いた。 

「あ、お前! 痛たたたた……」

 急に立ち上がって頭を抱えた少年を優しく寝かすと、アンナは大人びた口調で微笑んだ。

「急に動いちゃ駄目だよ」

 不満はありそうだが、少年は渋々アンナに従い再び横になった。

 アンナは噛んで含めるように優しく微笑みながら今の状況を説明した。納得いかないが仕方がないといった顔で少年は黙って聞いている。

 最後にアンナはこんな言葉で説明を終わらせる。

「でもね、人の物を勝手に取ったらいけないんだよ。悪いことをしているとね、いつかきっと女神様が罰を与えるんだから」

「……」

 少年はむくれた顔で黙りこくっていた。しばらくしてから彼はアンナを睨みながら口を開く。

「だからって、水の球を一般人にぶつけていいのかよ?」

 その言葉はもっともだ。

「うん、よくないよねぇ。それは本当にごめんね」

 でも言っておくことがある。それはとっても大事なことだ。

「もう泥棒はやめてね。私よりももっと怖い人もいるんだよ? これじゃ済まないこともあるかも」

 同じくらいの人間に説教されると、誰でも反発したくなる。それは孤児院の経験で知っていた。やはりこの少年も同じらしい。

「もっと怖いヤツってなんだよ。普通のヤツに精霊けしかけてくるヤツなんて、他にいるもんか」

「いるよぉ、火球を投げてくる人」

 言わずとしれたフランツのことである。今頃彼はくしゃみをしているかもしれない。

「……嘘付け」

「ホントだよ、仲間だもん」

「……」

 少年はがっくりと俯いた。

「じゃあ俺、あんたの仲間に殺されてたかもしんないんだ……」

 あまりに深刻な口調にアンナは慌てた。

「殺したりしないよぉ、ちょっと痛い目に会うかもしれないけど」

 フォローになっていないだろうか? でもアンナはフランツやリッツが、子供相手にそんなことをするわけないことを誰よりもよく分かっている。

 アンナはいつもリッツがしてくれるように、黙ったまま俯いている少年の頭に手を乗せた。

「あのね、おじいさんが家に入れてくれたの。治るまでいさせて貰えるように頼んだから、安心してね」

 先ほどからアンナの後ろに立っていた老人は、よく日に焼けた顔で笑った。

「おう坊主、ゆっくりしてけや。俺は独り者だから何にも世話できねぇがよ」

「ね。ゆっくりさせて貰ってね」

 アンナはそういうと、今度は手のひらで少年の額に触れた。少年が緊張で体を強ばらせたが、アンナはそんな少年に優しく微笑みかけて大丈夫だと教えた。ようやく少年の体から力が抜ける。

「癒しと安らぎを司る水の精霊よ。この傷を癒したまえ」

 少年は心地よさそうな顔で目を閉じた。よかった、不快ではないようだ。怪我させた上不快にさせてしまったら、どうしようもなく申し訳ない。

「はい、お終い」

 手を放すと、少年は残念そうな顔で呟いた。

「え、もう……」

 もしかしたら気持ちよかったのかな? それならよかった。そうアンナが考えながら少年を見ていると、不機嫌そうな顔を作ってフイっと横を向いてしまった。

「本当にごめんね。もう泥棒したら駄目だよ」

 笑顔でそういって立ち上がろうとすると、少年がポツリと呟いた。

「泥棒やめらんないよ」

 それは本音から出た言葉のようだった。どうして本音を明かしてくれたのか分からないけど、ちょっと嬉しい。嬉しいが、言っていることには納得できない。

「どうして?」

「だって俺、孤児だもん。親いないしさ、他に喰ってく手段ないもん」

「そんなことないよ」

 アンナは力を込めて少年を見つめ返した。少年はアンナを見て意外そうな顔をする。でもここで戸惑っていては説得できないから、顔を引き締めた。

「絶対に何か出来ることあるよ」

「そんなのないよ」

 かたくななまでの少年の言葉に、アンナもまた頑固なまでにそれを否定する。

「でも駄目なものは駄目だよ」

 アンナは泥棒しかないなんてことを言う、この子の考え方が悲しい。

 でも少年はそんなアンナの態度が腹立たしいようで、ムッとした顔で横を向いたきりだ。黙って待っていると、少年は吐き捨てるように呟いた。

「あんたには分かんないよ。幸せそうだもん」

 だがその言葉に動じるアンナではない。

「分かるよ。私も孤児だもん」

「え?」

 気まずくなって黙り込んだ少年にアンナは微笑みかけた。

「きっとね、お養父(とう)さんや孤児院の仲間がいなかったら、幸せじゃなかったと思う」

 だからこうして陽気に暮らして来れたのだ。そのことはアンナ自身もよく分かっている。

 その上今は自分を理解し、助けてくれるリッツとフランツがいる。

「それに今は仲間がいるから、幸せだって言われたらそうかも」

「……俺、一人だもん」

「そっか……」

 自分とはあまりに違う環境で暮らしてきた少年に、何を言ったらいいか分からなくなったアンナは、考え込んだ末、黙ったままの少年に提案した。

「じゃあこれから沢山友達作ったら?」

 あまりに突飛な提案に、一瞬きょとんとした顔をした少年だったが、呆れたように首を振った。

「……無理だよ」

「無理じゃないよ。諦めなかったら、きっと絶対大丈夫だよ」

「無理だって」

「無理じゃないよ」

 アンナは心の底からそう信じている。諦めなければきっと望みは叶うのだ。

 少年はアンナの顔を見上げて、じっと動かずにいた。何か考え込んでいるようだ。やがて少年はまた、俯いた。

「……」

 そこに答えが書いてあるとでもいうように、じっとベットを眺めている。返事をすることも出来ずに俯いてしまった少年に、アンナはにこやかに微笑んだ。

「いいこと考えた!」

「……?」

 明るくそういうと、アンナは鞄の中を引っかき回した。確かこの辺に、紙とペンがあった気がする。じっとこちらを見る少年に、アンナは見付けた紙とペンを指し示した。

「これこれ」

「……なんだよ」

「あのね、もう私たち友達だよ」

「え?」

 買い物用のメモ帳だから少し端がよれているが、この際贅沢は言えない。アンナはメモ用の小さな木炭を取り出して文字を書き付ける。

「だからね、元気になったら私のところに遊びに来てね。地図、今書くから」

 サラサラと書いた地図を少年の手に押しつけるように渡すと、アンナはにっこりと微笑んだ。

「私はアンナ。アンナ・マイヤース。よろしくね」

「……」

 それを差し出されて、少年はすっかり面食らっていた。警戒心のような者がふわりと薄れて、何だかちょっと意外な表情でアンナを見上げている。もしかしたら少し信用してくれているのかも知れない。

 黙りこくったままの少年を、弟を見るように見つめていたアンナは、今までののんびりムードとは一転、老人の家の壁掛け時計を見て慌てた。

「いけない、買い物行かないと! おじいさん、お願いします」

 慌てて鞄を肩からかけて立ち上がったアンナが、老人を振り返った。

「なんの、気にせず行きな。この坊主は任しておけ」

「はい。お願いします。じゃあね。頑張ってね」

「……」

 扉を開けたアンナ越しに、夕暮れが見えた。もうそんな時間なのだ。一体自分はどれだけ寝ていたのだろう。

「嬢ちゃん、どこまで買い物に行くんだい?」

「『陽気な海男亭』っていうお店です」

 ぺこりと頭を下げると、アンナが家を出て行った。



 取り残された少年は扉が閉まると、一気に力が抜けた。一体全体、何がどうなっているのか、色々あってよく分からない。

「『陽気な海男亭』か……剛毅な嬢ちゃんだ」

 一人呟くと老人がこちらへ歩いてきた。足音で気が付いたが、あえて老人の顔は見ない。

 何となく恥ずかしい。少年は先ほどの少女が書いた地図をベットに座ったままぼんやりと眺めた。

 アンナ・マイヤース。これが少女の名前らしい。

 今日出会ったばかりの、しかも自分が鞄を盗むのに失敗した相手に友達になろうといわれるとは、思っても見なかった。

 しかも、泥棒にあった直後その相手を友達にして家を教えるなんて、人がいいにも程がある。もし自分が本当に悪いヤツで、泥棒の仲間がいてこの地図の家に強盗に入ったりしたら、どうするつもりなのだろう。

 そんなことは露とも思っていないのか、それとも彼女の仲間がもの凄く強いからそんなこと気にしなくていいのだろうか。

 しかもよく見るとこの家があるところは、高級住宅街ではないか。

「世間知らずにも程があるよ」

 ポツリと呟いた一言に、返事が返ってきた。

「そうだな」

「じいさん……」

 老人は気が付かぬうちに、後から地図を覗き込んでいた。

「坊主、お前あの嬢ちゃんと友達になったんだな?」

「知らないよ、そんなの。あいつが勝手に決めたんじゃん」

 老人は何も答えずに椅子に座り、パイプに火を付けて燻らせた。煙がふわりと上がっていく。

「だけどなぁ坊主、お前友達だって言われて本当は嬉しかったんじゃねぇのか?」

「……そんなことないよ」

 傷を癒してくれた手が、母親みたいだった。優しくて、しかも同じ孤児という身分で、それで自分を分かってくれそうだった。そんなことを考えてしまった自分が今更ながら恥ずかしくて、その上見抜かれていることが悔しい。

 老人に顔を見られたくなくて下を向いた。だが老人はそんな少年を見るでもなく、悠然と新聞を眺めつつ、パイプを燻らし言葉を続ける。

「あの嬢ちゃんはきっと本気でそう思ったんだろうよ。大体あの嬢ちゃんには、曲がったところが全く見えねぇ。俺みてぇなひねくれもんには、眩しいくらいだぜ」

「知らないよ、そんなこと」

 からかわれていると思った少年は、ベットから立ち上がった。頭の痛みもほとんど消えている。これなら出ていっても問題なさそうだ。

「……ふん。お前も俺みてぇに素直じゃねぇな」

「放っておいてよ」

「ああ、ガキはどうなっても俺はしらねぇ。だが嬢ちゃんは気になるな」

 出ていこうと扉に手をかけた少年に、老人は気になる一言を呟いた。

「お前『陽気な海男亭』って知ってるか?」

「知ってるよ」

「あの嬢ちゃんが、迷わずあそこに着けると思うか?」

 何を聞かれたのか一瞬分からなかったが、分かった瞬間老人の家を飛び出していた。

「気を付けて行けよ、坊主」

「分かってるよ!」

 あの店は分かり辛い所にある。もし迷ってスラム街の裏道に迷い込んだりしたら大変だ。あんな風に素直にニコニコしている人間が、何の武器も持たず無事で出てこられるわけがない。

 かけだしていく少年の後ろ姿を、老人はニヤリと笑いながら見ていた。長く生きていると面白い物が見られるものだ。

「今年は面白いな、大臣は還ってくるわ、馬鹿正直なほど真っ直ぐなお嬢ちゃんを見られるわ。内戦以後、面白いこともなかったが、長生きはするもんだ」

 老人はゆっくりと煙を吐き出した。

「老人にゃあ、この寒さはこたえるな。家で暖まるか」

 パイプをくわえたままの老人は、後ろ手に家の扉を閉めた。

 彼が入った家の扉には、誰も気が付かないくらいひっそりと、汚れた木の看板が掛かっていた。古くてほとんど読めないその看板には『港湾案内所』と書かれていた。



 慌てて走り出した少年は、しばらくしてのんびり歩くアンナに追いついた。

「おい待てよ、待てってば!」

 ぜいぜいと息を切らしながら、アンナの肩を叩いた。

「あれ? どうしたの?」

 きょとんとした顔でアンナに見られ、思い切り力が抜けた。これから複雑で一歩間違えば危険なところへ行こうとしているというのに、この緊張感の無さはどうだ?

「お前『陽気な海男亭』に行くんだろ?」

「そうだよ」

 やはりそこがどれだけ危険かなんて思っちゃいないらしい。

 その顔を見て決心した。まだ友達になるかどうかは決めていないが、とりあえず今日はここへアンナを案内してあげることにしよう。

 鞄を盗もうとして、時間を潰させたお詫びだ。

「俺が案内してやるよ。ここは分かりづらいんだ」

 怪我を治してもらったことの借りを作ったままにしておきたくないし。

「本当? ありがとう嬉しいな。日が暮れてきたからちゃんと着けるか心配だったんだ」

「危ないところに行くって事、知ってんのか?」

「え? そうなの?」

 そんなことは初めて聞いたといわんばかりのその顔に、追いかけてきてよかったと心底思う。

 だが友達になったから心配だという感情は敢えて無視し、このまま死なれたら後味が悪いから助けてやるだけだと自分に言い聞かせる。

 もう友達になっていると、まだ認めたくない。

「ところでお前……」

「お前じゃないよ、アンナだよ。友達なんだから名前呼んでね」

「……アンナ……何しに行くんだよ」

「あのね、シチュー買いに行くの」

「はあ? わざわざ?」

「うん。ところで名前まだ聞いてないよ」

 何のわだかまりもなくニコニコと聞かれては、名乗らないわけに行かない。

「ジョー」

「分かった。じゃあ案内お願い。たどり着けるか本当は心配だったんだ~」

 心配だったという割に呑気なその言葉に、ジョーはため息をついた。

 何だかとんでもないヤツと友達になってしまったのかもしれない。でもその反面、ちょっと嬉しいのも事実だ。

 その微妙な気持ちは、まだジョー本人も分かっていない。

「病人が食べたいって言ってたから、早く買って帰らないといけないの」

 傾きかけてきた夕日の中で、アンナはのんびりと笑った。

「そっか……」

 この買い物がどんな騒動を起こすことになるのか、アンナはまだ知るよしもない。

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