ホラーな我が家<2>
Ⅲ
「ここかぁ……」
「はい」
断ったにもかかわらず、案内についてきたケニーに導かれて、三人は問題のその家へたどり着いた。
もうそろそろ夕方という微妙な時間に、この家に着いたのにはわけがある。
一つは昼食をとってから準備をしたからで、もう一つは幽霊が出ることを検証するためだ。噂通りなら、この家の幽霊が泣くのは夜なのだ。
何もわざわざ幽霊を見に行かなくても……というフランツの意見はあっさり却下された。それを退治するのが第一目標なのだから、仕方ない。
分かってはいるが、嫌いなものは嫌いなのだ。
そんなわけで、まるで旅に出るかのように大荷物で、ここへ乗り込んでいるのである。
防寒具を着込み、体をくるむ毛布を持ち、サラまで連れ……勿論夕飯代わりのバスケットも常備している。ここを出るのは明日の朝になる予定だ。
入り口の門扉は見るからに重たそうな青銅で出来ていた。所々欠けて黒ずんだその門は、美しい植物の模様が施され、アーチ状のなだらかな曲線を描き左右対称に作られている。
このように放置されずにいたら、さぞかし美しかっただろう。
大きさはリッツの背丈よりも遙かに高く、見上げると威圧感があった。門扉には赤く錆付いた鎖が、全ての侵入者を拒むがごとく、幾重にも封印されている。
この錆具合が、この家が主人を失い、放置されてから、相当長い年月を孤独の中で過ごしたことを示していた。
「……」
自分の毛布を背負ったフランツは、人知れず息を呑んだ。門扉の朽ち加減が、底知れぬ不気味さを醸し出しているのだ。
周りの住宅は皆美しいのに、ここ一角だけが別世界のように荒んでいる。門扉を開くことと、地獄の門を開くのとは同じことだ……そんな気がした。
この不吉そのものの封印を、これから自分たちは解こうというのだ。しかも何のためらいもなく。背筋をじわじわと恐怖が這い上ってくる。
ちらりとリッツとアンナを見てみると、二人分の毛布と工具のようなものを背負ったリッツは冷静に様子を窺っている。
サラと夕食用バスケットを持っているアンナは、庭をじっと眺めている。どうやら農作業に適しているかを見極めようとしているらしい。
つられるようにフランツも庭に目を遣る。
そこから覗ける庭は雑草に覆われて、何とも荒廃した雰囲気を醸し出している。その先に見える家は、幽霊が出るという噂を聞いてきたせいか、外装の豪華さとは逆に陰気に感じた。
「庭を畑にするのすんごく大変そうだね」
ポツリと呟いたアンナの言葉は、フランツの考えとかけ離れている。冷静に用途を見極めているのだから、アンナの方がこの場合、現実的なのかもしれない。
今の自分は怯えてばかりで冷静さを欠いている。
「じゃ、中を見るか?」
「うん!」
「……ああ」
対照的な返事の二人に構わず、リッツはケニーと共に鎖を外し始めた。頑丈に縛られている上、錆がこの作業を思った以上に難航させる。手で外すのは少々難しいかもしれない。
「おい、切るものないか?」
錆で赤くなった手をこすりながらリッツは顔をしかめた。問いかけられたケニーは同じく手を赤く染めながら申し訳なさそうに首を横に振る。
「ここまで錆びているとは思いませんでしたから」
「……そうか」
なおも鎖と格闘し続ける二人を、アンナと一緒に座って眺めることにした。手を出すと余計足手まといになりそうだからだ。
恐怖を悟られないようにじっと押し黙っていると、アンナは黙ったまま庭を眺めていた。元農民は庭仕事が出来るかどうか見極める、何らかの厳しい目を持っているのだろう。
沈黙しながら見たくない館から敢えて目をそらし、家の前の大通りに目を遣る。平和で平凡な夕方の街の光景だ。
王城から帰るのか、幾人かで連れ立って談笑しながら人々が行き来している。それをみていると目の前に突きつけられた幽霊などという言葉が現実離れしていて、とてつもなく現実感が薄い。
ため息を付いたとき、アンナがハッとしたように顔を上げ、キョロキョロと回りを見渡した。
「……? リッツ、何か聞こえた?」
「何も」
鎖をガチャガチャと引っ張りつつ、リッツが答える。
「フランツは?」
尋ねられて、首を横に振った。これはもしかして自分を脅かしているのかと、一瞬被害妄想を覚えたフランツだが、そうではないらしい。
不思議そうな顔をして、アンナは小さく首を傾げながら呟いた。
「だよね」
またしばらくの沈黙。何となく薄気味悪くてアンナの様子を窺っていると、アンナが弾かれたように顔を上げた。
「……聞こえる……フランツ、声聞こえるよね?」
「……え?」
声が裏返ってしまった。
「女の人みたいな声だよ?」
真剣に尋ねられて思い出した。リッツには聞こえなくても、フランツとアンナには聞こえる声がある。精霊の声だ。
でもフランツには何も聞こえない。
背後にある幽霊屋敷と、雑草のうっそうと覆い繁った館のことを考えると、鳥肌が立ってきた。だが努めて冷静に見えるよう、声を作った。
「……何が聞こえる?」
「フランツには聞こえないの?」
アンナにしか聞こえない声……。そんなものがあるだろうか? 眉を寄せてアンナを見ると、アンナが手にしているサラに真剣に聞いている。
「サラちゃんは聞こえる?」
「きーっ、きこ、きーっ!」
聞こえているんだか聞こえていないんだか、さっぱり分からない。
「……私だけなの……?」
アンナの呟きに、どうしようもない気味の悪さを覚え強く眉を寄せると、背後で変化が起きた。
今まで何をしても外れなかった鎖が不意に緩み、まるで自ら外れることを望んだように、重たく冷たい音を立てて、するりと地面に滑り落ちたのだ。
赤い錆が、地面に当たってパラパラと散る。
「何だ? 急に外れたなぁ」
拍子抜けしたようなリッツの声を聞きながら、フランツはその家の方を見た。ついでアンナを見る。
「呼ばれてるのかなぁ……」
ポツリとアンナが呟いた。小声だがあまりに怖いその一言に総毛立つ。
先ほどのアンナの声が蘇る。『女の人みたいな声だよ』と。
頼むからやめてくれ、と叫びたいが、それは自分のプライドにかけて絶対に言わない。
落ちた鎖の向こうで女が手招きしている……そんなイメージが浮かんで、ゾッとした。
「よしケニー、ここからは俺たちだけで行くから鍵貸してくれよ」
嫌な予感を感じているフランツに気が付くこともなく、リッツは汚れた手を布で軽く拭き取り、手を差し出した。
「分かりました。くれぐれもお気を付けて」
ケニーは古めかしい鍵が沢山ついた鍵束を、手渡し、鍵の説明をする。
明らかに大きいものが三つ。これは門扉と家の正面扉の鍵、もう一つは不明。残った小さい鍵は、部屋の鍵になっているらしいということだった。
現実的な説明を聞いていると落ち着く。
「小官は、所用で戻ります。もし何かあったなら、王宮の城門にある、査察官詰め所までお願いします」
「おう、わかった」
「それではくれぐれもお気を付けて……」
遠ざかるケニーの背中に向かって『おいてかないでください』と言いたい気持ちをぐっと堪える。やはりフランツのプライドがそれを赦さない。
「何に対して気を付けろってんだろうな」
苦笑しながら呟いたリッツに、フランツはかろうじていつも通りに頷き返した。怯えているそぶりは見せていないから、普通に見えるはずだ。
「そもそも幽霊が住んでいる屋敷なんてどうも嘘くさいよな」
明るくリッツがそういった。その意見に諸手をあげて大賛成だ。だが次の一言に暗澹たる気分になった。
「もし本当に出ても幽霊相手じゃ、俺だって分が悪いよな。注意しろっていっても無理だっつーの」
「……そ、そうだね」
返す答えにどもってしまった。
「どうかしたか?」
「べ、別に、何も……」
誤魔化しつつ視線を逸らす。幽霊に勝てるのは、光の精霊魔法を使える、神官だけなのだ。光の精霊魔法を一度使ったことはあるが、あれは師匠がくれたアイテムがあればこそで、今のフランツにはどうしようもない。
「ま、何とかなるだろう」
気楽に構えながらリッツは後を振り返った。
「さ、中に入るぞ」
ここで初めてリッツが不審な顔をした。
「どうした?」
リッツが問いかけたのはアンナだった。フランツもアンナを見る。
いつも元気で率先して物事に首を突っ込むアンナなのに、いつもとは違って少々困ったように笑った。
「なんでもないよぉ」
どうやら誰にも聞こえない声が聞こえた、ということはリッツには言わないようだ。
リッツの目がアンナの様子を問うようにこちらを向いたから、フランツは小さく肩をすくめた。アンナが黙っているのだから言う必要はないだろう。
それにさっきのアンナとのやりとりをもう一度思い出したら、もう入る気にならなくなる。ここで不気味だからやめようとは、プライドが邪魔して口が裂けてもいえない。
自分が臆病だと思われるのは死んでもごめんだ。
「? いいんならいいけどな」
まだ心配そうな、というか不思議そうな顔をしていたリッツだったが、肩をすくめると、鍵束を確認し始めた。扉と同じ青銅で出来たののを選び出す。
リッツの手元を覗き見ると、扉に刻まれたレリーフと同じ物がこの鍵にには刻み込まれている。
「さてと、門扉はこれか?」
大きな両開きの扉に差し込むと、思ったより抵抗なく重たい扉は内側へと動き始めた。
ギギーッという大きく響いた音に、フランツは闇の国への扉が開いてしまったのではないかと一瞬身をすくめる。
だが臆病な考えは、慌てて頭を振りふるい落とす。
リッツの横からアンナがするりと敷地内に入り込んで先に歩き出した。いつもなら『一番乗り~!』などと言うところなのに、黙ったままだったから奇妙な感じがする。
「外から見たよりも、荒れてるね」
庭に一歩踏み入れたとたんに、アンナがそう口にした。伸びきった蔦は手入れが全くされていない植え込みに絡まり、ロープのように木から木へと渡っている。
その姿はまるで細く長い幾筋もの蛇が絡まり合いながらのたうっているかのようだ。
「確かに、ひでぇ荒れようだな」
顔をしかめつつ、リッツはその辺に絡まっていた蔦を力任せに引き抜いた。周りの木々が引っ張られ、沢山の枯れ葉をまき散らす。
そこはまるで死の庭だった。
生きているものが見あたらない。季節の関係上当たり前といえば当たり前なのだが、それ以上の何か不吉なものがこの庭にはありそうな……そんな気がする。
フランツは眉を寄せそれが目に入らぬよう目をそらした。だがそのそらした視線の先にあるものの、似たような陰気な光景だ。これではどこを見ても同じだろう。
「……本当に住めるのかな」
口元を歪めて、一人ごちたフランツに、リッツが真剣な顔で答えた。
「住めなきゃ、俺らはまた王宮のあの生活に戻されるだけだぞ」
「……わかってるさ」
それはフランツだって嫌だ。
「頑張って家の点検しようよ。ここに住むかもしれないんだから」
アンナはにこやかに二人を振り返った。心なしかその笑顔が強ばっている気がする。
「庭はもういいから、家の中を見たいな。いいでしょ、リッツ?」
さっきまで庭に執着していたはずのアンナの言動にフランツは驚いた。リッツも同様らしく、戸惑いながらも頷く。
「そうだな。中見ないと始まんないもんな」
アンナも女の子だ。自分がこれから住むかもしれない家の中が、庭よりまず気になって当然だろう。
そう思う事にする。
「じゃ、中に入るか」
リッツはアンナに変わって先頭に立ち、荒れた庭をがさがさとかきわけながら先へ進んだ。
アンナの背丈ほどもある雑草が立ち枯れており、リッツでなければすんなり先に進むことは不可能だったのだ。
その後ろをアンナが歩き、フランツは多少びくつきながら最後を行く。その間も、いつもは一人で賑やかなアンナがあまり口を開かない。
奇妙な感じだ。
フランツは一番後方を歩きながらも、アンナに漠然とした違和感を感じ始めていた。先ほどの『声が聞こえる』といってから、アンナの様子はどことなくおかしいのだ。
でも具体的にどどこがおかしいとは言えない。ただ何となくなので、リッツに何と言ったらいいのか分からない。
「……何が変なんだろう……」
一人小さく呟いてみたが、口にしたところでその違和感が拭われるわけではない。
ようやく三人が辿り着いたこの屋敷のエントランスは遠目で見るより広い。
等間隔に立てられた立派な柱は、ヒビが入っているものの白く塗り固められ、床に描かれた模様のように広がる焼き煉瓦は、花のように円心状に敷き詰められている。
だがそこにも月日の経過が色濃く残っていた。元は綺麗だったかもしれないが、今は雑草が生えて薄汚れている。
一枚板で出来た大きな両開きの扉は、いかにもお金がかかっていますという雰囲気を醸しだし、見るものを圧倒していた。扉のレリーフは、入り口の青銅の門と同じだ。
入り口に立った三人は、扉の前に転がる鎖に気が付いた。赤く錆びた鎖……青銅の門扉と同じだ。
一体いつ取れてしまったのだろう?
「外れてて良かったな。もし付いてたら取るの一苦労だぞ」
冗談めかしたようにリッツは笑うと、落ちていた鎖を拾い上げた。
「本当だね」
フランツは何気なく相槌を打ったが、そのまま考え込んでいるリッツに釘付けになってしまった。
「どうしたんだ、リッツ?」
「おかしいよな」
「え?」
聞き返すと、リッツはしゃがみ込んで鎖のあった床の煉瓦に触れた。
「何がおかしいんだ?」
つられるようにしゃがみ込んだフランツは、煉瓦に触れる。砂のジャリッとした感覚が手に伝わった。そのことに別に違和感はないが。
「リッツ?」
「鎖が前から外れてたら、錆で赤い染みが出来ないか?」
「ああ、出来るね」
フランツは頷き、もう一度煉瓦に目を遣った。そこでリッツが言わんとしていることに、ようやく気が付いた。
先ほど煉瓦を撫でた手のひらをそっと見てみると、僅かに砂が付着し黄土色になっているだけだった。鎖があった部分の煉瓦は綺麗なのだ。
もし鎖が随分前に外れたのなら、雪が降ったり雨が降ったここ最近の天気のせいで、錆が落ち煉瓦に赤く跡を残すのが当然だ。
なのに、跡がない。先ほど入り口門扉の鎖を外したときには、赤錆が飛び散っていたがそれもない。
「考えられることは……」
ポツリとリッツは呟いた。分かっているけど聞きたくない。フランツはしゃがんだまま小さく首を振る。耳を塞ぐと怯えていることがばれるから絶対にできない。
そんなフランツの葛藤を知るはずもなく、リッツは淡々と先を続けた。
「……誰かが外して静かに床に置いた?」
「やめてくれ!」
限界だ。全身に鳥肌を立てつつ、思わずフランツは声をあげてしまった。
「厳重に封印されてた家に、誰が入ってどうやって鎖を外すんだよ?」
思わず怒鳴ると、リッツも小声で怒鳴り返してきた。
「だから変だっていってんだろ」
リッツも薄気味悪く思っているようだ。
「誰が外すんだよこんなもの!」
「俺が知るか!」
思わず小声で怒鳴り合っている二人を尻目に、アンナがぼんやりと扉に手を触れた。
「入りやすくなってたんだから、いいと思うなぁ」
「……」
いわれてみればその通りだが、誰がどうやったのかわからないのはこの上なく不気味だ。
「アンナ、怖くない?」
怖さのあまり思わず騒いでしまったことが恥ずかしくて、フランツは扉にそっと触れるアンナに話しかけた。だがアンナはもう、この二人のことを気にしていないようだ。
というより、気になるものはこの扉の中にしかないという感じに見えた。
「うん。怖くないけど何か変な感じ」
「変?」
「うん」
ぼんやりと扉に触れ続けるアンナの表情が何となくおかしい。目が何かに酔っているかのようにうつろなのが気になる。
「アンナ気分悪くないか?」
心配そうにかがみ込み、顔を覗き込んだリッツにアンナが笑った。微妙な作り笑顔に、リッツも気が付いたようだ。どう考えてもこれはおかしい。
「体調悪いだろ?」
「……体調悪いっていうのかなぁ……わかんない」
いつもと違って力無い声に、どうしていいのか分からず黙る。リッツは自然とアンナの額に手を当てていた。熱を計っているようだ。もし体調が悪いなら、こんなところにいたら悪化してしまう。
「アンナ、王宮に帰るか?」
心配そうにそう提案したリッツに、アンナは頭を振った。
「大丈夫。中に入ったらきっと平気になるよ」
だが彼らはここに今日泊まるのだ。本当に大丈夫とは言い切れないだろう。
「ここは寒い。明日出直した方が……」
フランツも説得を試みたが、アンナは首を強く横に振る。
「大丈夫だもん」
アンナの決意は固そうだった。こうと決めたら絶対に実行。それがアンナの性格だから仕方ない。リッツを振り返ると、リッツは頭を掻いてアンナに言った。
「とりあえず中に入って、ちょっと休憩しよう。それでいいかアンナ?」
休憩しても駄目なら、無理にでも今日は引き上げる。そうリッツの顔に書いてあった。だがフランツにも分かるその表情にアンナは気付かない。
「うん。中の方があったかいもんね」
そうと決まればとりあえず中に入るのが最優先だ。フランツにしてみても、不気味な屋敷だからといって、躊躇っている場合ではない。
女の声が聞こえると言っていたことは気になるが、仲間の体調が悪いのなら、そちらが最優先だ。リッツは先ほどの鍵束から、玄関の扉と同じ材質の鍵を取りだした。
「よし、この鍵だな」
リッツが何のためらいもなくその鍵を鍵穴に差し込むと、抵抗なく扉はすんなりと開いた。今度は音も立てない。
「何だか俺ら歓迎されてるっぽいよな」
「やめてくれ!」
この期に及んで不気味なことを言うリッツにフランツは全身全霊の気持ちを込めて抗議するが、いつものごとくニヤリと笑ってかわされる。
三人が入りきったところで、扉はひとりでゆっくりと閉まった。まるで見えざる手が静かに扉を閉じたみたいだ。
「……はは、ドアボーイでもいるのかな?」
次に口にしたリッツの冗談は、この状況下で流石に冴えない。恐怖を押し隠しながら、フランツも嫌みに返すことにした。
「姿が見えないドアボーイだけどね」
薄暗い邸内に眼をこらすと、ここが廊下状になっている玄関ホールであることがわかった。
三人はとりあえず廊下を進み、すぐ左の扉を開けた。古ぼけたカーテンが外からの光を遮断しているせいか暗い。
「カーテン開ければ明るいな」
リッツは一足先にその部屋に入ると、カーテンに手をかけた。円形状に外へ張り出す形の大きな窓だから、カーテンを開けるのも一苦労だが、力任せに一気にカーテンを引く。埃がパラパラ舞いカーテンの吊り金が嫌な音を立てた。
「ひでぇ埃だな……」
一人呟きつつリッツは窓も開け、自分の持っていた毛布を使ってあちこちをはたいて廻っている。少しでも埃を出そうというのだろう。
部屋の中はまだ何となく陰気な感じが拭えないが、それでも外の光が入っただけ、かなりましになった。これでようやく休める空間になりそうだ。
「ここは、応接間みたいだね」
のろのろと足を進めるアンナを促しながら、フランツは中を見渡して呟いた。明るくなったので中の様子がようやくわかったのだ。
「そうみたいだな。少し片付けて使おう」
「わかった」
部屋にある調度品はほとんど布で覆われていたが、壁際にある立派なマントルピースは埃をかぶりつつ、そのままむき出しになっていた。
部屋の中心で布をかけられているものは、おそらく応接セットだろう。
リッツとフランツはまず中央の応接セットらしき布を取り払った。思った通り出てきたのは、布張りで背の低い木の椅子とテーブルのセットだ。
「アンナ、とりあえずここ座ってろ」
「うん」
心ここにあらずという表情でアンナは椅子に座った。
「寒くないか?」
優しくリッツが尋ねると、アンナは小さく頷いた。
「大丈夫だよ」
埃があらかた出てからリッツは窓を閉めた。部屋があまりに冷えてしまったら、館に入った意味がない。
「さてとフランツ、いくか?」
「え?」
唐突なリッツの言葉にフランツは、怪訝に聞き返してしまった。
「どこへ?」
間抜けな質問に、呆れたような顔でリッツは返す。
「俺らでまず館を見ようって事だよ。アンナに付き添って二人でここにいても仕方ないだろう?」
それはその通りだ。だがフランツはアンナ一人をこの部屋に残していくのも気が引ける。
「そんなに馬鹿でっかい館じゃないんだ。何かあったらすぐ来れるさ」
「……そうかな」
まだ渋るフランツの背中を押したのは、当のアンナだった。
「私大丈夫だよ。何かあったら大声で呼ぶから、行ってきて」
「だけど……」
「サラちゃんもいるもん。一人じゃないよ」
「さら、きーっ!」
知ってか知らずか、ランプの中のサラも返事をした。当の本人にそういわれてしまっては、行くしかない。
フランツは軽くため息をつき肩をすくめた。確かにぼんやりとアンナの様子を見ているのでは、時間が勿体ない。リッツは、笑ってフランツの肩を叩いた。
「この暖炉も使えるようにしたいしな」
確かにその通りだ。長年使われていなかったこの暖炉に火を入れるには、屋根の上に行って煙突の蓋を取らねばならない。暖炉なしではこの季節一泊でもきつい。
「……分かった」
ようやくこの部屋を離れる気になったフランツを促して、リッツはアンナに手を振った。
「じゃあ行ってくるから、何かあったら大声で呼べよな」
「うん。気を付けてね」
アンナらしからぬ静かな声に見送られて、リッツとフランツは応接室を出た。扉を閉めてから何となく顔を見合わせる。
「何か変だよな、アンナ」
「変だよ」
先ほどからのやりとりで、アンナが体調を崩しているというより、何となく別のことに気がいってしまっているという感じを受けたのだ。
「なるべく早く見て回って、応接室に戻るか」
もっともなリッツの提案に、異論はない。フランツは先ほどからまとわりついて離れない違和感と、嫌な予感をふるい落とすように頭を振った。
Ⅳ
リッツ達が出て行くのを見送ったあと、アンナは崩れ落ちるように椅子に沈み込んだ。二人に心配させまいと気を使っていたのだが、緊張の糸が切れてしまったのだ。
リッツとフランツは、そのアンナの笑顔が作り笑顔だということを知らない。二人にあの女性の声が聞こえないからだ。
アンナの耳には、また女性の声が聞こえてきていた。
か細く、だがしっかりとした意志を持った声……。
『さあ、ここよ。私はここにいるわ……来て』
その声を聞くと、何故だかアンナの気が急いた。頭の中で女の声がアンナを呼び、その声がアンナを支配している……そんな感じだ。
何故だろう、この声がアンナを支配すればするほど、この女の声をリッツ達に言う気がしなくなってしまった。
この二人に言わないと、聞いて貰わないとと思うのだが、どうしてだか体は思うようにならない。
心の中で『リッツ、何か変なの! フランツ気が付かないの?』と叫んでいる。
だけどそれは表に全く出ない。自分が自分じゃなくなっていくような、変な感覚だ。舌が凍ったようにその言葉だけ口から出てこない。変わりに別なことが口をついて出る。
アンナはそんな自分に、不思議な感覚を覚えながらも、ぼんやりと部屋の中を見渡していた。
何だか分からないが、ここじゃない……と頭の中の何かが語りかけている。
その間も知らない女の声はずっと続いていた。『ここへ来て』の繰り返しだ。
頭が重くて眠い。こんな状況で眠くなるなんて、普段の自分と比べてどうかしている。
そんな自覚はあるものの、しっかり起きていることも出来ず、意識はぼんやりと遠のいていく。
「アンきーっ!」
サラが一生懸命アンナに何かを話しかけているのに、それすらも聞いていられない。何かが足下からそろりそろりと這い上ってきて、底なし沼に引きずり込もうとしている……そんな感じだ。
「サラちゃん、少し寝るね。何かあったら起こしてくれる?」
少しでも眠れば元気になるだろうか。アンナは重たくて仕方が無いまぶたを閉じた。
やっぱり少し楽だ。何かあったら叫べばいいし、ちょっとだけ寝てしまおう……覚醒と眠りの合間をアンナはフワフワと漂っていた。
何だかこのまま本当に熟睡してしまいそう……そう思ったとき、アンナの中の何かが、アンナに起きるよう促した。起きないと大変なことになると、自分の中の何かが必死で訴えるのだ。
いいから眠ろうという心と、その心がぶつかり合って、激しくせめぎ合う。きっとアンナの本能が何か危険を告げている。
せめぎ合いがようやく一段落付き、アンナは起きることに決めた。だがまだ眠い。
「アンきーっ、アンきーっ!」
起きようとするアンナに気が付いたサラが、アンナの覚醒の手助けをしようと騒いでいる。
「アンきーっ!」
その御陰もあって、何とか眠気を振り切って目を開けると、女が一人立っていた。見たことがない女性だ。
「え? 誰?」
重たい体を椅子からはがしながら、ようやく体を起こしたアンナはその女性に向き直った。
格好からするとメイドらしいが、こんなところにいるなんておかしい。
……だってここは長いこと空き家なのだから。
「あなたは誰?」
アンナは繰り返しそう尋ねた。女は音もなく、すーとアンナの方へ近づいてくる。そういえばこの女性が部屋に入ってきた時、ドアを開ける音を聞いただろうか?
『やっと会えたわね、アンナ』
その声に聞き覚えがあった。この家に入る前から聞こえていたあの女性の声だ。
背中に何か冷たいものがゾロリと這い上がってくる。だがアンナは聞かずにはいられない。
「何で私のこと知ってるの?」
その質問に女性は、小さく笑って答えた。
『あなたの仲間がそう呼んでいたから』
「でも私、あなたと初めてあったよ。どこで聞いてたの?」
『この家の中、庭、この家の周り……全部が私の聞こえる範囲だわ』
この家に入ってきたときから感じていた何かに操られているような感覚は消え、完全にアンナはアンナに戻っていた。それはきっと、あの声の目的が、こうして直接会うことだったからだろう。
今、その目的は果たされている。
完全に覚醒してきた頭の中で、ようやくこの声の女性が何であるか分かってきた。
「……あなたは幽霊? 夜になると泣くっていうこの家の幽霊なの?」
一応確認するように発したアンナの言葉に、その女性はにっこりと笑った。
『幽霊なんだわ……きっと』
「きっと、って何?」
『だって私、この家を離れられないもの……出て行きたいのに出て行けないもの……』
再び女性はアンナに音もなく近寄ってきた。とたんにジワジワと冷気も漂ってくる。足の先から徐々に痺れてきた。
吹雪の寒さではない。氷水の中に放り込まれたようなまとわりつく寒さだ。ジンジンと足先から上に上がってくる。
このままでは死んでしまうかもしれない。
『ねぇ、体をくれない?』
「! 嘘だよね?」
『本当よ。体を頂戴』
「頂戴っていわれても……」
危機感に襲われたアンナは、立ち上がろうとしたが、どうしたわけか足が立たない。
動けないなら助けを呼ぶしかない。出ていくときにリッツ達が念を押していったように、大声を出せばいい……思い出したアンナは叫んだ。
「体なんて絶対あげないから!」
いや、叫んだつもりだったが、実際に口から出たのは、寒さで乾いた小さな声だった。
……これは大ピンチ。まるで人ごとのように考えてから、本当に青ざめた。
「アンきーっ!」
異常に気が付いたサラが叫び出すが、生憎サラはランプの中に閉じこめられていて無力だ。サラはキーキー騒ぎながら体を揺らすが、丈夫なガラスのランプがその程度で割れるわけがない。
「やだよ、来ないでよ!」
アンナは動かない体で必死に後へのけぞった。椅子がギーッと音を立ててきしむ。何とか床に降りれれば、這って逃げられるかもしれないともう一度背もたれに体を押しつけた。
だが、残念ながら椅子は倒れたりしなかった。
だが諦めるのは嫌だった。必死で抵抗を試みるが、もう動く箇所は首くらいしかない。アンナは女の眼を、じっと見つめた。そうしていないと負けてしまいそうだったのだ。
そこで初めて気が付いた。女がアンナを見つめる眼は、ちょっと寂しそうだったのだ。
それを見つけた瞬間、アンナのお人好しがむくむくと首をもたげてきた。こんなことをするのはきっと理由があるに違いない。本当に悪い人はこの世にはいないのだから。
「何で私なの?」
突然変わったアンナの口調に、女は微妙に戸惑いながら答えた。
『あなたの名前が……アンナだから』
「え?」
よく分からないアンナは聞き返した。名前が何故関係しているのだろうか?
『嬉しかったわ、アンナ。来てくれて』
「何で?」
体中を包み込む冷気が、アンナの動きを妨げた。足先だけではない。手も、体も動かない。気が付くと女性はアンナの目の前まで来ていた。
氷のように冷たい手が、アンナの頬を撫でる。まるで氷のようだ。
『私の名前はアニー、アンナ・ホール』
「? 同じ名前?」
自分の声が自分の耳で認識できなかった。どうやらもう、声が出ていないらしい。このままでは何だか分からないけど大変なことになりそうだ。
アンナは必死で体を動かそうともがいた。もがけばもがくほど体が冷たく硬くなっていく。まるで自分のものではないみたいだ。でも、じっと何かされるのを待っている場合じゃない。
このままでは大変だ。本当に体を乗っ取られてしまう。こうなると自分のお人好しが恨めしいが、しかたない。それが自分なのだから。
『そうよ、同じアンナよ。だからあなたを待っていたの』
「待っていた……?」
絞り出すように声を紡ぐアンナの眼に、一瞬サラのランプが目に入った。あれを床に落とすことが出来れば、リッツ達に知らせることが出来る。
そうすれば……。
だがそのランプにアンナの手は届かない。もう腕が上がらないのだ。結局指先をほんの少しだけ動かすだけで、アンナの気力は尽きた。
「アンきーっ!」
悲痛(?)なサラの叫び声が何だか遠く聞こえる。眠いとかそういう事じゃない。意識がどこかに閉じこめられる……そんな感じだろうか?
必死で抵抗する心も虚しく、アンナの体はゆっくりと傾き始めていた。
「そんなのないよぉ……」
呟きながら倒れていくアンナの耳に、幽霊……アンナ・ホールの声が聞こえた。
『同じ名前の人の体は、取り憑き易くて、出されにくいの。だからあなたの体が欲しかったのよ』
薄れゆく意識の中でアンナは思った。『理由を話してくれたら、協力してあげるのに』と。




