オオカミとヒツジ その4
視線から逃れるように一心不乱に手を動かしたおかげか、ようやく日誌を書きおわって、ほっと一息つく。
教壇の左上に飾られてある時計を見て、書き始めてから15分ぐらいしか経っていなかったことに驚く。ものすごく長い時間に思えた。2時間ぐらいに。
必死で書いている間、彼は一言も声をかけてこなかった。視線を感じていたためそちらを向けなかったということもあるが、必死な顔な形相で日誌に向かっていた私を彼はどう思っただろう。不審に思われなかったかと、今更ながら気になるが、もう遅い。
「あ、の。書き終わったから、確認…」
してもらえますか、という言葉は続かなかった。
かたりと椅子を動かし、恐る恐る立ちあがりながら左を向くと、彼は机にうつ伏せになっていた。 無造作に机の上に載せられた左腕に顎を乗せ、顔をこちらに向けたまま、しっかりと瞳が閉じられている。椅子の音でも気付かないのだから、結構本格的な眠りに入っているのだろうか。
普段なら、人に日誌を任せておいて寝ているなんてと少し不機嫌になっていたかもしれない。けれどこの時ばかりは、その鋭い眼光がしっかりと閉じられたまぶたに隠れていることに、心底ほっとした。そもそも、日誌を一人占めし彼に口をはさむ余地すら与えなかったのは自分なのだし。
そのままこっそりと教室を出て、書き終わった日誌を職員室まで届ければ任務は完了。ちょっとした緊張はありつつも今日という一日は無事に終わるはず…だったのだが。
足が床に縫いつけられたかのように、一歩もそこから動けない。
なぜなら、あまりにもかわいい寝顔だったから。
瀬川君は、邪気のないすこやかな寝顔を惜しげもなくさらしている。短めに切りそろえられた前髪はその寝顔を隠すことはなく、よくよく見ればいつも引き締まった口元は少しだけ開いていて、それがまた無防備さを通り越して色気すら感じさせる。
思わずごくりとのどをならしてしまった自分に気づき、落ち着かなければとあわてて頭を左右に振って、無理やり正気を取り戻そうとするが、どくどくと心臓は激しい動きのままだ。
あぁ、これは永久保存版にしなくちゃ!なんてヨコシマな気持ちになり、すばやく右のポケットに入っていた携帯を取り出し、カメラをセットしたところで我に返る。
…さすがに、これはヤバイかな。
彼氏でない、ましてや友達どころか確かな知り合いでもない他人が携帯で寝顔を撮るなんて、盗撮者意外の何者でもない。
諦めて携帯を元のポケットに戻すが、瀬川君の寝顔から目は離せないままだ。気づかれないようにそっと息を詰め、中途半端に引いた椅子が音をたてないよう慎重に席から足を出し、そのまま一歩近くへ。
心の中では、すみませんごめんなさいでもちょっとだけ、繰り返しながら、しばらくその寝顔を眺めていた。
たぶん、こんな寝顔めったに見られないだろうなぁ。いや、絶対、かな。
うーん…それにしても。
これじゃオオカミというより…ヒツジだよねぇ?
ヒツジの耳をつけ、もこもこの毛皮に包まれた瀬川君を想像してしまい、思わず小さな笑い声が漏れてしまった。慌てて口を閉じるが、瀬川君は少し眉根を寄せただけで、また寝息をたてはじめた。
しばらく、そのままじっと寝顔を見つめる。
手が触れそうで、触れない距離。起きそうで起きない、瀬川君。
自分の心臓がばくばくとすごい勢いで鳴っているのがわかる。
無防備な顔に、さらさらの前髪、少し半開きになった唇。
思い出す。去年、先生の気まぐれによって行われた席替えで、夏休みの直前、わずか二週間だけ私は彼の間後ろの席だった。
しゃんと背筋の伸びた背中。授業中は少しだけ前かがみになって、右手が動くたびにシャツも少し揺れていた。時々つまらなそうに外を眺めていて、プリントをまわす時でさえ、その視線がこちらに向くことはなかった。
今なら。手をのばしたら、届いてしまうだろうかー…
――――――――――――。
ガタッ。ガタタタッ
「……?」
机が揺れた音で、閉じられていた瞼がぴくりと動き、穏やかだった眉間にぐっとしわが寄る。
はっと我に返った私は、混乱しながらも慌てて鞄をひっつかみ、逃げるように教室を飛び出した。
いきおいあまって机と椅子を転がしてしまったが、そんなことは気にしていられない。
真っ赤な顔をしながら転げるように玄関を出てきた私を、すれ違う人たちはあからさまに不審な目で見ていたが、今は気にならなかった。
…………!??私、いま、何した!?
混乱の極みの中、声にならない叫びを頭の中に響かせながら、どうか彼が気づいていませんようにとそれだけを祈りながら夢中で駅へと走った。