第六十二話 存在に罪はない
≪それはいけませんわぁあああああああああ!!≫
リーディアがリダの脳内で絶叫する。
——うるさっ!! いいじゃねぇか、キスの一つや二つ。減るもんでもなし。
≪わたくしのファーストキスですわぁああああああっ!!≫
——あたしのだって思えばいいだろ? 気にすんなって、今良い所なんだからちょっと黙ってろよ。ミハルはキスが上手いんだ。
≪ダメえええええっ!! お願い、リダ、止めて!!≫
リーディアの必死の制止も利かず、ミハルの唇に自らの唇を近づけようとリダは背伸びをした。
だが、ミハルがパッと顔を上げてリダの両肩を押さえて、苦しそうに瞳を閉じて、首を左右に振った。
「いけません、リダ。リーディアはアレシュを想っているのでしょう? これは彼女の身体です。尊重しなければなりません」
≪ミハル様!! お優しいわっ!!≫
リダは不満そうに唇を尖らせた。
「え? ミハル、あたしとキスしたくねぇの?」
顔を真っ赤にして、ミハルは慌てたように言った。
「な、何を言っているのです!? したいに決まっているじゃないですか!」
「じゃあいいじゃねぇか」
「だ……ダメです!!」
ミハルはリダから離れると、真っ赤になった顔を恥ずかしそうに手の甲で隠した。
「誰かを傷つけてまで手に入れる愛は、本物ではありません。そのような後悔を、私は愛する貴女に対してしたくないのです」
≪ミハル様! お優しいですわ!!≫
——可愛い過ぎねぇか? こいつ……!
リダはドン! とミハルに体当たりをした。リーディアと同じ身体であるというのに、先ほどの可愛らしいものとはうって変わり、戦士の体当たりを突如くらったミハルは「あっ!」と悲鳴を上げて床へと倒れた。
≪リダっ!! ミハル様になんてことを!!≫
尻餅をついて驚いているミハルを押し倒し、その上に馬乗りになってリダは不敵な笑みを浮かべた。
ミハルは顔を真っ赤にして、困惑しながらリダを見つめる。
「……あの、リダ? 一体何を」
「これで逃げられねぇな? キスするぞ?」
「え!? ちょっと、あの……!?」
≪お止めになってええええええええええっっ!!≫
バンッ!! と、激しい音が鳴り響き、扉が開け放たれた。
緋色の聖衣を纏ったリヒャルトと、アイボリーのダブレットのアレシュが室内へと入って来ると、ミハルの上に馬乗りになっているリダを目にして顔色を変えた。
≪%$#&!!≫
リヒャルトが静かに怒りを込めて諭すように言う。
「リダ、貴女の存在を魔塔が認めたからと言って、その行為は許されませんよ」
アレシュが押し込めきれない怒りで頬をヒク付かせながら言った。
「リダ。全く、君という奴は必ず問題を起こすんだから呆れてしまうよ……」
二人の後ろからひょっこりとテオドルが顔を出す。
「おお。姪っ子の身体を乗っ取った聖女様のいちゃいちゃは、なんだかどんな顔して見ていいのか困るな」
三人に見つめられて、リダは困ったように頬を掻いた。
「ありゃ? なんであたしが戻ったことがバレてんだ?」
アレシュがフンと鼻を鳴らした。
「リーディアが僕と一緒に戦地へ赴くと言った時、どこかおかしいとは思ったんだけれど、会議の時に伯父上が急に『ポンコツとはひでぇ言いようだなぁ』と言っただろう? 魔塔であの女もリダの考えが読めていたから、ひょっとしてと思って確認したんだよ。あっさりと君の帰還を認めたさ」
テオドルが苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。
「魔法師は観測が仕事だからな。全部とは言わねぇが、多少の魂の揺らぎくらいは拾える。しかしこの甥っ子、あの一言で気づくだなんて恐ろし過ぎねぇか? ダヴィットとはまた違う怖さを持ってやがるんだが……」
リヒャルトが頬をヒク付かせながら、ミハルの上に馬乗りになっているリダに笑顔を向けた。
≪こ……怖いですわ……!≫
——同感……。
「……お説教が必要そうですね。それとも、夜明けまで聖読を聞きたいですか?」
「どっちも嫌だっ!」
リダは慌ててミハルから飛び退いた。
「リヒャルトのおっさん! ちょっとその、度が過ぎたのは確かだが、あたしはただなんかその……」
「……おっさん、ですか……?」
「うあっ!! いや、美しい……お……お兄さん?」
ぶは! と、テオドルが吹き出した。
「このバケモン並みに美人な男を『おっさん』呼ばわりするのはお前くらいだな! 気に入ったぜ、リダ。マジで面白いな!」
テオドルが膝を叩いて笑う様子を一瞥して、リヒャルトは溜息を吐いてミハルへと視線を向けた。
ミハルは恥ずかしそうに起き上がり、乱れた衣服を整えた。
「申し訳ございません、猊下。お目汚しを……」
リヒャルトはミハルの前へと赴くと、静かに見下ろした。
「……猊下?」
ミハルは視線を逸らし、困惑した。
「私は、猊下にとって許されない存在なのでしょうか」
俯き、震える声を発した。
「縋り続けていた血も、何もかもが無かった事でした。猊下にとって私の存在を不愉快であるとお思いならば、私はどこかに……」
「貴方に罪はありません」
そう言い切ると、リヒャルトがサファイアブルーの瞳を細めた。
「……私は、心から貴方の母、イルジナ・キセラーを愛していたのですから」
生涯でただ一人愛した人との間に生まれた子、なのだから。
それには、アドルフの血など一瞬で霞む程の価値がある。
ミハルは母が愛されていたのだという事に安堵し、唇を噛みしめた。
アレシュは肩をすくめると、やれやれとため息を吐いた。
「全く、虫唾が走る」
「わお。我が甥っ子は辛辣だな。甥っ子じゃなく鬼っ子じゃねぇの?」
「……口、縫われたいの?」
テオドルが身を退いてアレシュを指さしながら言った。
「リック、お前の子、恐ろしくねぇか!?」
「恐ろしい? 私によく似ているはずですが」
「だから怖ぇんだっつーのっ!」
≪とりあえずは、丸く収まった、なのかしら?≫
——さあ? よく分からねぇけど、アレシュがやべぇ奴だって事はよく解った。良かった、ミハルがリヒャルトのおっさんに似なくて。
リダは苦笑いを浮かべながらアレシュを見つめた。
◇◇
枢機卿館へと向かう為の馬車にリヒャルトが乗り込もうとすると、リーディアと共に先に乗り込んだテオドルの姿があり、ピタリと足を止めた。
「……何故貴方がここに居るのです?」
「固ぇこと言うなよ。俺はお前の観測者だし、枢機卿館の方が寝心地の良いベッドにありつけそうだからな。それに鬼っ子怖ぇし、こっちには可愛い姪っ子が居るし」
リーディアは機嫌良さげに微笑んだ。
「伯父様と久々にお話ができるのは嬉しいですわ」
「おや、リーディアに戻ったのですね」
リヒャルトは馬車に乗り込むと、リーディアの隣へと腰かけた。
馬車の中をミルラの甘い香りが包み込む。
「臭っ!」
テオドルが鼻を摘み、リヒャルトがサラリと「嫌なら降りてください」と言った。
リーディアの脳内でリダが爆笑する。
「あの、伯父様。お父様はお元気にしておいでなのかしら? 急に離れることになってしまいましたので、心配ですの」
「大丈夫じゃねぇか? あいつ、風邪ひとつ引かねぇし。って言っても、俺も暫く顔を合わせてねぇんだ。ちょっとした任務についてたもんでなぁ」
リヒャルトがため息交じりに言った。
「魔塔は性質上、隠し事が多くて困ります。エヴェリーナに兄が居たという事実も、今日初めて知りました」
「良く言うぜ。あんたはエヴァに全く関心が無かったくせに。まあ、妙な執着があるのはエヴァもあんたもお互い様だろうから、俺は謝らないぜ?」
リヒャルトはクスリと小さく笑った。
「そのような事、期待していませんよ」
暫く無言のまま、馬車に揺られた。
明日の夜明けには出征のパレードが行われる。既にリヒャルトが参加するという噂が民衆にも広まっているようで、周囲からは無事を祈る声が上がっていた。
ポツリとテオドルが言った。
「ああそうだ。明日から俺もこうして同じ馬車に乗らせて貰うから、宜しくな」
馬車の中に、リヒャルトのうんざりとした深いため息が響いた。




