姫さま、迷う
「この度は私の飼い犬がオーリス様に対して、無礼極まりない行動をいたしまして誠に申し訳ございません」
村に立つ大きな館の前で、ロニーの謝罪の言葉が流れます。その目の前に立つオーリスが、静かに彼とその隣のパティを見ていました。ここはオーリスがこの村に来た時に使っている別荘です。相変わらず雪がちらつき、肌寒い中でロニーは必死に頭を下げています。
「……俺がどれだけ恐怖を味わったか分かっているのか? 躾のなっていない犬をあろうことか首輪も付けずにいるとはな」
オーリスは強張った表情でロニーではなくパティを睨みます。このままではパティを殺せとでも言いそうな雰囲気です。ロニーは慌てて言いました。
「オーリス様の言う通り、飼い主である私の落ち度です。ですから処罰は私だけに留めていただくと有難く存じます」
(……ロニー! 何を言っているの!? 悪いのはわたしじゃない!)
パティは驚いたようにロニーを見上げました。オーリスに向かって頭を下げたままの彼はパティにだけ見えるように、安心させるような笑みを向けています。
(なんで……わたしはオオカミなのよ? そこまで……そこまで庇わなくても……)
どうしてここまで自分を、庇ってくれるのでしょうか。今の自分は人間でなくオオカミです。ですがそれでも構うこと無くロニーは彼女を守ろうと、オーリスに向かって頭を下げていました。
「おいおい、まさかそこまでこの犬の事を……?」
そんな必死のロニーの姿にオーリスもまた驚いていました。しかし突然笑い出します。
「悪い悪い! まさかそんなに必死に謝れるとは思わなかったよ! まぁ気持ちはなんとなく分かるけどさ」
「オーリス……」
「そんな風に謝られちゃこちらも許さないわけにはいかないだろ?」
顔を上げたロニーに向かってオーリスは笑顔を向けました。
(良かった……)
パティはホッとひと安心しました。自分の代わりにロニーが罰を受けてしまうのではないかと、ハラハラしていたのですから。
「ありがとう、オーリス」
「これだけ気軽に話せる友人を捨てる訳ないさ。でも今度からは気をつけてくれよ?」
「あぁ、もちろんだよ。パティ、君はもうこんな事しないよね?」
(ええ、もちろんよ。あとそれから……ごめんなさいね、オーリス)
パティはロニーの言葉に頷いた後に、オーリスに向かって申し訳無さそうに頭を下げます。そんな彼女の行動にオーリスは驚いていました。ですがすぐに彼女と距離を離します。やっぱりパティは苦手なようです。
「ま、まぁ今回の件はこれでおしまいな! それよりせっかく来たんだ。一緒にお茶でもどうだい? 君の家の茶葉は良くない、もっと美味しい紅茶を飲ませてやるよ!」
「はは、それじゃあ有難く頂くよ」
オーリスに導かれるままにロニーとパティは館に入りました。
扉をくぐると見えてきたのはどこもかしこも高級家具の置かれた玄関ホール。ふかふかとした赤い絨毯の感触が肉球を包みます。二階に続く大きな階段が見え、シャンデリアがキラキラと輝いていました。
(……でも王宮に比べればどれもこれも安物ね!)
一回り部屋の様子を見たパティの感想はこれでした。王宮と比べるのは間違っているのです。
「さてこっちの部屋に……あ、シンシアちゃん!」
オーリスが部屋に案内しようとした時、階段側に何かを見つけたのか声を上げました。
「ニャー」
そんな可愛らしい鳴き声と共に階段を駆け下りてきたのは一匹の猫。灰色で黒縞の毛を持ち、歩く度に首輪に付いた鈴が鳴ります。
オーリスに近寄った猫は足元に擦り寄りニャーとまた鳴きました。
「シンシアちゃんまさか俺を追ってきたのか? もう~俺はお前を残して何処にも行かないよ~寂しい思いをさせてごめんな~」
オーリスは嬉しそうに猫をシンシアと呼び、抱き上げて顔をすり寄せています。
(まさか……シンシアって猫のことだったの!?)
そんなオーリスを見て、パティが驚いていました。どうやらパティは猫と比べられていたようです。
紅茶のいい匂いとケーキの甘い匂いが部屋に充満し、その中でオーリスとロニーは楽しそうに会話をしていました。それをパティが少し遠くで伏せの姿勢で見ています。
(ケーキ……おいしそう)
王宮に居た頃は毎日と言っていいほどにケーキを食べていました。ですがパティがオオカミとなってからはケーキを食べたことはありません。
「そんなにあいつは賢いのか?」
「ああ、そうだよ。時々パティを見ていると人間を相手にしている錯覚を覚えるよ」
そんな会話をしながらロニーが口にするケーキが美味しそうでたまりません。
『あらあら、よだれを垂らすなんて。アホ面がさらにアホ面に見えるわよ?』
そんな声が聞こえてきたパティは驚きました。ついでによだれも引っ込めます。
『こっちよ、パティ?』
キョロキョロと探していたパティの目の前に鈴の音と共に現れた灰色の影。それは先程までオーリスの膝の上にいた彼の溺愛する猫、シンシアでした。
(猫が喋った!? いや犬の言葉が分かるんだから猫の言葉も分かるのね……)
どうやら犬だけでなく猫の言葉もパティは理解することができるようです。
『あらもしかして、私の言っていることが理解できないくらいにバカなのかしら?』
『なわけ無いわよ! そっちも猫の癖に生意気ね!』
パティは思わず強い鳴き声を返しました。先程からこの猫はパティの気に障っています。
『猫の癖に何よ? 同じ人間に飼われるペット同士じゃない?』
『ち、違うわ! わたしは人間よ!』
『あらまぁ! どこからどう見ても貴方は犬じゃない!』
『犬じゃなくてオオカミよ!』
『オオカミ? 人間じゃなかったのかしら?』
『あ……違うの! そうだけど違うわ!』
慌てるパティを見て、シンシアは面白可笑しそうに鳴きました。それがとても気に食わないパティでしたが、この猫はオーリスに飼われている猫です。手を出してはならないと思い、パティは怒りを抑えようとします。
『……あら、もう何も言えなくなったのかしら?』
『いいえ……これ以上あなたと相手するのはバカバカしいと思っただけよ』
『ふーん。これはこれで面白い、面白いわねぇ……』
そんなパティをシンシアはどこか面白そうに見ていました。一体何が面白いのかパティには分かりません。
「シンシアちゃーん! こっちにおいで~というか来てくれ~」
その時オーリスがシンシアを呼ぶ声が聞こえてきます。オーリスはパティの側には行けないので精一杯シンシアを呼び戻そうとしていました。
『ねぇ、パティ。貴方なんだかんだ言ってとても幸せそうね? 私にはそう見えるわ』
オーリスの元に向かう途中、シンシアが首だけをこちらに向けて、ゆらゆらとしっぽを揺らしながら聞いてきます。
『え……』
『あら、幸せじゃないの? ご主人様が居て、そこで飼われる動物というのも悪く無いでしょう?』
確かに悪くありません。最初こそはすぐに人間に戻りたいとパティは思っていました。ですが、ロニーとともに暮らす内にこの生活にも慣れ、いつしか人間に戻りたいという気持ちすら薄れています。
(ううん……違うわ。人間に戻りたくないのは……ロニーと離れたくないからね)
もしも、人間に戻ってしまえばパティでは居られなくなるでしょう。パトリシアとして王宮に戻らなければなりません。そうなってしまえば、ロニーとは二度と会えない可能性もあります。
『哀れな人間のオオカミさんに教えてあげる。……その幸せは有限よ。いつかは壊れるものだわ。私の猫としての直感が言っているわ』
『それはどういう意味よ?』
パティの質問にシンシアは答えること無く、鈴の音を残して行きました。
『パティ! そっちに獲物が行ったゾ!』
『任せなさい、トビー!』
トビーがもう一匹のイノシシと格闘している間に、パティがもう一匹を追い詰めていきます。たまに反撃をかまして来るイノシシの牙を避けつつも、確実に追いたてていきました。その様は絵に描いた勇敢な猟犬そのものです。
そして追いたてたイノシシが疲れから足を止めた瞬間に、ロニーの猟銃によって仕留められるのでした。
「よし、仕留めた。パティお疲れ様!」
「よっしゃ! こっちも仕留めたぜ!」
ロニーの労いの声の後にまた同じく銃声が響き、オーリスの嬉しそうな声が聞こえてきます。今日の狩りにはオーリスも参加していました。
「よし……今日はここまでにするか」
アランが周りを見てそう言います。すでに日も暮れており、今日の獲物の量も十分でした。
『なぁなぁパティ! 今日の狩りはすごかったナ!』
『ええそうね』
帰り道でトビーが何時にも増して嬉しそうに話しかけてきます。それをパティは少し疲れたのか、適当に相槌を打ちながら返していました。
『パティは本当凄いナ! オレの父ちゃんもお前の事褒めていたゾ!』
『そう。まぁわたしが凄いのは当たり前よ』
今日のトビーの様子が少しおかしいです。いつもうんざりするくらいに元気のいい犬ですが、今日はなんだかいつも以上でした。そしていつもよりパティとの距離を近くとります。
『んでオレもパティほどじゃないけど良い猟犬ダ! えっそうじゃなイ? じゃあこれからもっと良くなる猟犬ダ! それでさ、オレたちの子供とかもっと凄い猟犬になるって思わないカ?』
『えーそうね』
『おお! パティもそう思うカ! ならパティオレと番になってくれるんだナ!』
『はいはい…………――はぁ!? 今なんて!?』
思わず聞き流して返事をしてしまったパティは驚いたようにトビーを見ます。
『なんダ? イヤなのカ?』
『嫌も何も……あなたは犬じゃない! 犬と結婚なんで嫌よ! 絶対に無理よ!』
最近自分が人間であるという事実を忘れそうになっているパティでしたが、ここははっきりと言いました。するとトビーは……
『そんなにオレはイヤなのカ? ……パティ。まさかとは思うが、もしかしてロニーの事、好きなのカ?』
『は……はあああ!?』
思わずパティは大きな声を出してしまいます。その声に反応したロニー達がびっくりした様子でパティとトビーの方を向きました。
『なんでそこでロニーが出てくるのよ! ロニーは関係ないじゃない!』
パティが人間の姿であればきっと赤面していたことでしょう。今のパティも毛が逆立っているので分かりやすいですが。
『そ、そうカ……そうだよナ、だってパティとロニーは無理だもんナ。オオカミとニンゲンじゃ子孫は残せねーもんナ』
トビーは無邪気にそう言うと他の犬に呼ばれてパティの元を離れて行きました。
(そうだよね……今のわたしとロニーは無理……ってわたしは何を考えているの!?)
残されたパティが今考えていた事を振り払います。しかしトビーに言われたことが気になるのか、心なしか前を歩くロニーの背を目が追っていました。