雷雨の逃亡
しかし、祐樹は好奇心には勝てなかった。一ヵ月後、再度森に入った時にあの小屋の前を通りかかったのだ
状況が状況ならば、そのまま立ち去る事も出来た。しかし今はスコールが降り、森の葉を抜けて雨水がジャングルの中に染み込んでくる
上半身裸のままで森に入ったのがいけなかった。砂浜から空を見ると灰色の分厚い雲が空を覆っていたのに
雨が降らないと高をくくって見通しが甘かったとしか言いようがないだろう
早く帰りたかった、数日前からミナの体調が優れないのだ。病気かもしれないので早く帰って一緒に居たい気持ちはある
(少しの雨宿りくらいなら…)
そして彼はそこに入ってしまった。後で後悔するとも知らずに
(なんか薄暗いな、明かりとか有ればいいんだけど)
窓が締め切られた小屋の中はぼろぼろだが、今にも崩れ落ちるというほどではない
少し探ってみると手作りの棚の中にあった瓶に油が少量だけ入っている。ランプさえ見つかれば明かりを灯す事も出来るだろう
もし人が住んでいたら後で油を返しておこう、と家の主にひそかに謝罪する祐樹だった
ド ド ー ン ! ゴロゴロゴロ――――――
窓を開けた後、雨音を裂くように雷が光り、数瞬送れて雷鳴が辺りに轟いた
その一瞬、見えてしまったのもがある。それは人の影をしているように見えなくも無かった
「誰かいるんですか?」
寝ていたのかもしれない。そう思って声をかけてみたが、返事はうんともすんとも帰ってこない
見間違いかと思い、ランプの探索を続ける。湿度が上がったせいか、背中から汗が噴出してくる
祐樹はぞくりと、背筋に悪寒が走ったのを覚えた。何故であろうか? 寒くはないはずなのに体が震えてくるのだ
「これは…」
足元で何かを蹴ってしまう、形から察するとそれはランプのようだ。探し物は案外早く見つかった
暗闇の中、四苦八苦しつつも油を注いで火を点けると、部屋の中が淡い明かりがぼぅっと灯る
もし人が居ないのならば使える物も持ち出しておきたい。祐樹は部屋の中を歩き回った
意外と外で見るより部屋の中は明るかった。人が住んでいた痕跡はあったが、今は生活臭が皆無で備品も殆ど無い
本当に人が住んでいないのだろうか? 家の作りを見てみると彼が世話になっているミナの住家と似通っている箇所がある
ド ド ー ン
再び雷光が一瞬だが部屋の中を照らす。地球からほとぼしる自然のエネルギーは存分に猛威を振るっているようだ
そして殻はあるものが目に入った、毛布が剥ぎ取られたらしいベッドの残骸の下から靴が突き出ていたのを見たようなきがする
ランプを片手にその場所に近づいていくと、光が屋内に満ちて詳細が明らかになった
(…なんだろう?)
それは脱ぎ捨てられた靴だけではない。古臭いズボンを着用した誰かがそれを履いているのだ
嫌な予感がする、背筋をナメクジが這うような嫌悪感。そして、誰かに見られているような悪寒さえ覚えてしまう
今のは見なかった事にしておくべきだ。頭の中の誰かが大声で警鐘を上げていた
内なる自分の直感を司る箇所が警告しているようだった。そもそも、小屋その物に立ち入るべきではなかったとも
しかし、好奇心が微かに上回った。床に倒れている『誰か』の足を持ち、一気に引き上げる
『それ』を見た瞬間に祐樹はおぞましい物を見た、嫌悪感で吐きそうになった
「な…何なんだよ………これはッ!?!」
『誰か』は服を着たままミイラ化した死体だった。胸の部分に錆びた包丁が突き刺さっている
恐らくはその一撃が致命傷であったのだろうか。皮膚はどす黒く染まり、所々が骨にへばり付いたかのように痩せていた
更に、落ち窪んだ眼窩は虚無を映すように暗い。そして、そこから鼠がすばやく這い出して、どこかへ走り去っていった。
良く見ると死体は所々食い破られた箇所があり欠損が目立つ、腐敗による損壊の外に虫や先程の鼠が齧っていたである事は確かだ
「お…オエエエエエッ!!」
たまらず吐き出してしまう。朝食はあまり食べていなかったが、それも全て外に出した
ひとしきり出した後は胃液を吐き出す。酸味の香りが口に広がると同時に歯が少し溶けるのがわかる
一気に場の温度が下がったように感じた。外は豪雨で湿度が上がっているはずなのに鳥肌さえ立っている
そして、背後に気配を感じた。それは祐樹がよく知る大切な人のものであった
「あぁ…だからここには足を踏み入れないよう頼んだのに・・…」
いきなり聞こえてきた声。振り返るとミナが悲しそうな表情で背後に立っていた
驚愕と共に祐樹は振り返った。恐らく彼女が自分に隠したがっていた件はこの事だと確信を覚えながら
「これはッ、一体何なんだよ。 ミナ、知ってるのか?」
「ええ…よく知っているわ・・・・だって、これ私のパパだったもの」
彼女の声は抑揚がなくて平坦で…まるで機械が電子音声を喋っている様だった
話したくない出来事なのか? そして、ここのミイラ化している男性が彼女の父親なのは本当なのだろうか?
祐樹が尋ねるまでもなく、観念したミナは全てを話すつもりのように見えた
「君は知ってたんだろう? 何で黙っていたんだよ!!」
ヒステリックになりながら、祐樹は喚き散らすしかない。衝撃的なものを見た反動で心の安定を大きく欠いていた
反面、ミナは落ち着いているようだった。もう終わったことだと割り切っているのだろう
この島では殺人を行ったとしても罪に問われることはない。しかし、彼女は自分が裁かれることなど全く気にしてはいないようだった
「パパもね、私と同じように大切な人だったの。でもね…此処から逃げ出したいって言った!
愛人の子の私を愛しているっていったくせに、こんな場所まで連れ込んだ癖に・・・本当の奥さんのところに戻りたいって言ったのよ!
此処でずっと私と住んでくれるって言ってたのに…ねぇ、笑っちゃうわよね?」
「………」
クスリとミナはこんな状況にも拘らず笑った。祐樹にはもうそれが愛しい人の微笑ではなく、壊れた笑いにしか見えなかった
彼女に感じたあまりのおぞましさに、ランプを落としてしまう祐樹。部屋が再び暗雲の闇に包まれる
外では相変わらず降りしきる雨粒のスコールと、大気を切り裂く雷の轟音すらもまるで遠い世界の出来事のようだ
それよりも祐樹の耳にはっきり聞こえてきたのは。か細いミナの声だけであった
「ねぇ…お願いだから。パパは見なかった事にしてよ…そして二人で―――」
ミナは『彼女』と同じだった、祐樹を殺そうとしたあの女の笑みが蘇る
トラウマを呼び起こされた祐樹も既に、冷静ではいられなかった。彼からすればミナと『彼女』は自分を騙したも同然だったのだ
それが許せなかった。穏やかだった祐樹の心に怒りの炎を宿し、言葉となって吐き出される
「うるさい…よくも僕を騙したなッ! 裏切ったなッ!! この…この……人殺しめ!!!」
「ごめんなさい…いつか話すつもりだったの」
「とにかく、こんなところには居られない! 僕は島を出るぞ。殺人鬼と一緒にいるなんて御免だからなっ!!」
懇願するようなミナの願いを、すっかり気が動転してヒステリックになった祐樹は切り捨てた
「祐樹…どんな事があっても私とずっとずっと一緒に居てくれるって約束したじゃない!」
祐樹は泣きそうになるミナの顔を見て、心に幾分か冷静さを取り戻す。
彼女との誓い、それはこの無人島で定めた生きる目的だった。
今更、道徳なんて何の役に立つのか? 糞真面目に生きてきた自分は狡賢くて良心の欠片も持っていないような連中に、
良い様にあしらわれて利用されてきたではないか? 後生真面目にそんなものを持っていて何になる?
親は常識を叩き込むだけで、世界が残酷で裏切りに満ちているなんて教えてもくれなかった。
他人を利用するにも良心の痛痒が奔る自分は、現代のコンクリートで囲まれた檻の中で生きる事が出来ない。
それに比べて、此処のなんと素晴らしい事か! 海と太陽、それに花のように可憐なミナが居れば十分だというのに…
殺人なんて今更何になるというのだ? 顔も知らない誰かの生き死になんて関係無い筈だと祐樹は己の仲で葛藤してしまう。
首にかけた貝殻の首飾りと泣きそうな彼女の顔を交互に見ると、何故あんな酷い事を言ってしまったのか自己嫌悪に陥りそうになった。
「それは…」
祐樹は葛藤していた。ミナの裏切りは自分に対して働いたものではないが、現代人の良識としての弊害が言葉を詰まらせる。
彼の中々煮え切らない返答を聞いて彼女は放心したような顔つきで、すっかりミイラ化した遺体に近寄ると胸に刺さっていた包丁を抜き取った。
そして祐樹の方に顔を向ける。雷が一瞬、彼女の顔を照らし出すとミナは虚ろな目で彼を見ていた。
「そう…そうよね。こんなことして許される筈が無いよね」
「ミナ…」
自嘲気味に呟く彼女がとても小さく思え、祐樹は思わず駆け寄った。
しかし、拒絶するように薙ぎ払う一閃が彼の頬を掠める。包丁は浅く祐樹の頬を裂き、赤い血が一筋垂れて床に染みを作った
「だから…貴方も殺して私も死ぬわ」
「正気か…? ミナッ!!」
「許して……っ」
包丁を振りかぶり、彼女は襲ってくる。反射的に後退するが避けられない――――
駄目かと思われたその時、体がぐらりと揺らいだ。たまたま床に落としたランプを踏んづけて転倒したのだ
そしてミナも巻き込まれた、包丁を持ったまま覆いかぶさるように祐樹の体に重なるように倒れた
ギイン、と音を立て祐樹の顔の左横に包丁が突き立った。血を吸って赤黒く錆びた得物は名も知らない彼女の父親の墓標に見える
一気に我に返り上のミナを押しのけて戸口に向かう。以外にも彼女の体は重かった
立ち止まって時間は無い、勢いを殺さずに突貫して扉を一気に突き破る
「待って! 祐樹!!」
背後からミナの声が追ってくる。その悲痛な響きに後ろ髪を引かれそうになるがそのまま全力で走る
森の葉を抜けた雨が彼の頬を叩きつける。遠くから雷の音が響き、薄暗い森を何度も照らす
その雨に混じって血と共に涙が流れ落ちていく事に祐樹は気付かなかった。彼はまた裏切られてしまったのだ
無我夢中、雨と雷の中を必死に彼は走り抜けた。遠く…遠く……ミナが追いついてこないような彼方まで――――――