3.シュレディンガーなハカセ
「……いいかね、鱗粉くん。私は今、猛烈に不愉快だ。」
深夜の街道、焚き火のそばで博士は不機嫌そうにメガネを押し上げた。
「不愉快なのはこっちよ! さっきから何なのよこの扱い!」
ベリンダは半べそをかきながら、博士の指示で空中でくるくると回転させられていた。
「はい、次は右に3回転。次は逆方向に高速スピンだ。……ふむ。やはり君が浮く時、下向きの風が全く発生していない。ホバリングするだけでも相応の風圧になるはずだが……。まるで、空間そのものに磁石で張り付いているような挙動だ」
「ひっ、目が回るぅ……! 魔法なんだから理屈なんてないのよぉ!」
「理屈のない現象など存在しない! いいか、君の体内の未知エネルギー……これを仮称M粒子とするが、それが君の意志に反応して重力を遮断しているとしか考えられん。」
博士は満足げにメモを取ると、ようやく「回転実験」を止めさせ、ベリンダを地面に降ろした。ベリンダはフラフラと千鳥足で焚き火のそばに座り込み、博士を化け物でも見るような目で見た。
「……あんた、本当に何者なのよ。さっきから実験実験って……。大体、自分がおかしい自覚はないわけ?」
「おかしい? 私はいつだって正常だ。異常なのはこの世界の物理法則だよ」
「違うわよ! 『魔力』の話よ!」
ベリンダは博士の鼻先に指を突きつけ、声を荒らげた。
「魔法使いじゃなくても、そこらの草や、足元を這ってる虫だって、生きてるものなら微かな魔力をまとってるものなのよ。それが生命の証なんだから。……なのに、あんたからは微塵も魔力が感じられないのよ!」
「ほう、私にはM粒子が扱えないのかね」
「そんな生易しいもんじゃないわ! あんたの立ってる場所だけ、景色が丸ごと切り抜かれたみたいに真っ暗なのよ。生きてるのに魔力が『ゼロ』なんて、この世界の道理じゃありえないわ。正直、あんたが生きているのか死んでいるのか、それすら私にはわからないのよ!」
ベリンダの必死の訴えに、博士はフッと口角を上げた。
「……なるほど。生者と死者の境界が観測不能、か。面白い。まるで『シュレディンガーの猫』のようだ。もっとも、私は『入っている箱』が最初から違うようだがね」
「シュレ....ネコ…? 何の話よ」
「思考実験だよ。毒ガスの仕掛けられた箱の中に猫がいるとする。観測者が箱を開けるまで、猫は生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている……という話だ」
「……何それ。猫がかわいそうじゃない……」
ベリンダは顔を引きつらせ、一歩後ずさった。
「比喩だよ、鱗粉くん。実際にはやっていない……こともないが、今は重要じゃない。要するに、私は最初から全く別の箱……物理法則のみが支配する世界から来た異物だということだ」
「……なんて残酷な例え話をする世界なのよ。」
博士は焚き火の火を反射するレンズの奥で、確信に満ちた目を向けた。
「実際のところ、私のいた世界にはM粒子などという不確定な物質は存在しなかった。だから、その世界から来た私が、この世界のエネルギーを受容する機能を持っていないのは、論理的に極めて正しい帰結だ。」
「わけがわからないわよ! 結局、あんたはこの世界のとって都合の悪い何かだってことね!?」
「失礼な。私はただの科学者だよ。……さて、鱗粉くん。明日はまず、近くの宿場町へ向かうぞ」
「えっ……私も同行するの?」
「当然だ。君は貴重な観測対象だからな。それに、君の言っていた『マオー』という人物についても、いずれ科学的な見地から説教をしてやる必要がある。同行しなさい」
「魔王様に説教……。あんた、本気で言ってるの……?」
絶望するベリンダをよそに、博士は白衣を翻して眠りについた。
魔力を持たぬ「虚無」の男が、異世界の常識を論理で侵食し始めた夜だった。




