13. 猫と宿場③
思いがけず胸に湧き上がってしまった切ない気持ちが、はっきりとした痛みに変わる前に、ソフィアはぐっと顔を上げて思考を切り替えた。
ユベール卿のように妻子を大事にする父親が居るように、レイモンドのように妻子を蔑ろにする父親が居るのも事実だ。
しかもソフィアの場合、カレンという根性が捻じ曲がった姉までいる。
せめてカレンと姉妹同士で支え合える関係だったのなら、こんなに生意気で刺々しい性格ではなく、素直で朗らかな令嬢になっていたのだろうか?
『無いものねだりをしても仕方がないぞ』
「わかってる」
『あの阿呆の父娘の代わりに我とアンヌがおるではないか』
「それはそうだけど…」
『我らに出会えたことが、お前の一番の幸福であり希望でもあるのだぞ?』
「いくらなんでも自画自賛すぎじゃない?」
『何を言うか。小神である我に対する敬意はいくら払っても足りぬのだぞ?』
ソフィアの頭上から右肩に移動したフクが、得意げにふふんと小さく鼻を鳴らしてみせる。
ちなみにユベール卿が一緒なので、フクとのやり取りは囁くような小声である。
「どうかなさいましたか?」
ユベール卿が案じるような視線をソフィアに向ける。
そのどこまでも優しい眼差しにどう応えて良いのかわからず、ソフィアはぎこちない笑みを返すしかなかった。
「…いえ。お店の多さに少し驚いてしまって…」
「ああ、そうですね。ここは中央区に一番近い宿場町なので、あちらでの流行がこちらにもすぐ伝わってくるのです。またこの地の領主が商業の発展に力を注いでいるため、いずれ中央区に出店したい商家や商人が、この地で腕試しをすることもあるのですよ。その反面、店の入れ替わりも激しいですから、以前あった店が別の店に代わっている、ということも少なくありません。現にあちらは確か小洒落たカフェだったはずですが、今は串焼きの店に代わっていますね」
串焼き!?それはもちろん肉ですよね!?
ユーベル卿の視線を追うと、長い鉄串に刺さった大きな肉の塊が、客席のすぐ近くで豪快に焼き上げられているのが、店の窓越しにしっかりと見えた。
「香ばしくていい匂い…」
『今にも涎が垂れそうな顔をするな』
「条件反射ね」
『お前は犬か』
「ここはぜひ味を確かめるべきでは?」
『もうすぐ夕食だぞ』
「忘れてた」
『我慢しろ』
串焼きの店に向かって今にも足を踏み出しそうになったソフィアをフクが諫める。
目前にあんなに美味しそうな肉料理があるというのに…
それを我慢!?一体何の拷問ですか!?
「ソフィアお嬢様。串焼きのお店はここだけではございません。向こうの通りには屋台も出ております。まずはユベール卿に頼まれたリリベル様への誕生日のお祝いを選んでから、そちらへ足を運ぶのはいかがでしょうか」
アンヌの提案にフクが『甘い。アンヌは本当にソフィアに甘い』とブツブツ呟いていたが、確かにまずはユベール卿に頼まれた任務を遂行するべきだと、後ろ髪を引かれながらもソフィアは串焼きの店から目を離す。
「それにさきほどユベール卿がおっしゃったように、腕試しをしたい商家や商人の店が軒を連ねているということは、思わぬ掘り出し物もあるということです。ソフィアお嬢様でも購入できる価格のものもあるかもしれません」
『旅の前に散々購入していたではないか』
「あれらは公爵家の支度金で購入した必需品です。ソフィアお嬢様が自ら足を運び自ら選んだものではございません」
『たいした違いはないと思うのだが…』
訝しげに首をかしげるフクだったが、ソフィアにはアンヌの言いたいことがよくわかる。
カッセルズ家だけでなく、大抵の貴族家では子息子女には個人資産が割り当てられる。
年間に使用できる金額(手当や小遣い)はその家の資産や方針によって異なるが、裁量権があるのは当主であり、実質的に差配するのは夫人である。
しかし伯爵夫人であるソフィアの母が不在のため、現在のカッセルズ家では執事のバリーが資産管理を代行して差配している。
そしてカレンに唆されたのか、あるいは自身の意志によるものかは定かではないが、バリーはソフィアに与えられるべき年間手当の多くをカレンへと流用し、その結果ソフィアが個人的に使用できる資金は極端に少なくなっていた。
そのためソフィアとアンヌは、生活に最低限必要なものを揃えるのに精一杯で、カレンのように「欲しい」と思ったものを気軽に購入する余裕などどこにもなかったのである。
…幼い頃はきっと何かを欲しいとねだったことがあったと思う。
駄々をこねて我儘を言って、周囲を困らせて無理やり手に入れて…いや、どう頭を逆さに振っても記憶にない。
精々駄々をこねたところで止まっていただろう。
それ以上のことをしていたら、さすがにカレンか彼女の意を汲んだ侍女に折檻を受けてしまう…そこまでわたしは馬鹿ではなかったはずだ。
幼い頃からカレンの機嫌を損ねないよう、隙を見せないよう、フクやアンヌの協力を得ながら、息を潜めるように生活してきた。
自分の欲求や要求は後回しになって、口にすることも憚るようになった。
そうなると「欲しい」という気持ちでさえ抑制することをいつの間にか覚えてしまう。
…アンヌの言う通り、最近になって自分から手を伸ばして手に入れたいと切望したものがあっただろうか?
『ソフィアの場合は肉だろう?』
「…それもそうですが、わたくしが言いたいのは」
「わかっているわ、アンヌ。肉はあくまでも食欲よね。物欲とは違うもの」
「その通りです。わたくしはソフィアお嬢様に、年相応の我儘を言っていただきたいのです。気になる店に入り、目についたものを手に取り、どれを買おうかと迷う楽しさを知っていただきたいのです」
「確かに今まで買い物に出掛けたことはなかったけれど…」
「幸い今までカレン様に流用された分の手当ては取り戻すことができました。公爵家から頂く予定の給与はカッセルズ家ではなく、ソフィアお嬢様個人に支払われる手筈になっております。今後はご自身の欲しいものを、ご自身の裁量で購入していただけるのですよ」
そう切々とアンヌに説かれても、ソフィアの心はなかなか浮足立たない。
今までソフィアが気に入ったものは、例えそれが庭の草木や小石だったとしても、目ざといカレンに取り上げられ、手元に残ることはほぼなかった。
どうせ奪われるとわかっているのに、また新たに何かを手にする手間もそれらを隠す手間も、ソフィアにとって無駄でしかない。
それなのに今更好きなものを好きなときに購入していいと言われても、まずどこからどうやって始めればいいのかわからないのだ。
「…それではこうしたらいかがでしょうか?」
アンヌとソフィアのやり取りを垣間見て、複雑な家の事情があると汲んでくれたのだろう。
黙り込んでしまったソフィアを慮るように、ユベール卿が穏やかな口調で問いかける。
「この町には何度か訪れておりますので、私が入る店を決めましょう。そして店ごとに一つずつ、気に入ったものを見つけませんか?」
「気に入ったものですか?欲しいものではなく?」
「そうです。いいな、かわいいな、という感覚で良いと思います。そうやって少しずつ自分の好みを思い出していきませんか?その上で欲しい気持ちが芽生えてきたら、思い切って購入しましょう」
そんなゆるやかな感じで良いのだろうかと首を傾げたソフィアだが、アンヌが零れるような笑顔を見せたので、それでいいのだと思うことにした。
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※次回の投稿は、11月16日(月)20時の予定です。




