第七話〜前日譚〜 正社員になりたい
※用語解説
・影の精霊 (悪霊):“影属性”の精霊 (悪霊)。
その魂の起源は、暗所での転落死、誰にも気づかれずに孤独に死んだ者など、“静かに影に消えた死”によって命を終えた者に由来するとされている。
【七年前 東京都江戸川区】
私の名前は渡部一介、52歳。
派遣社員。契約社員ですらない、完全な使い捨て要員だ。
今の派遣先は金融業の会社。そこで、OA事務をしている。
OA事務のOAは“Office Automation”の略──
そんな用語を知っていても、私の人生に何の意味もない。
パソコンを使って書類を作成し、データを処理する。それだけだ。
正社員であれば「スキル」だの「キャリア」だのと美辞麗句を並べられるだろう。
だが、派遣の私にとって、それは何の意味も持たない。
契約が切れれば、私の名前も、この会社での存在も、ファイルのゴミ箱に入れられたデータのように消える。
机に置いた私物も、次の日には誰かの備品に上書きされる。
まるで最初から、ここに存在しなかったかのように……
──私は、いわゆる“就職氷河期世代”だ。
社会に出るその瞬間、バブルの余韻は跡形もなく消え、企業は採用を極限まで絞り込んでいた。
新卒の就職口はほとんどなく、ハローワークの求人票は短期雇用や低賃金ばかり。
正社員になれたのは、ほんの一握りの幸運な者か、生まれながらに突出した人間だけだった。
「努力すれば報われる」──子どもの頃に刷り込まれたその言葉は、社会に出た瞬間に裏返った。
努力しても努力しても、報われない努力があることを思い知らされた。
いや、正確には、努力が報われるかどうかは能力ではなく──生まれた年と景気次第なのだと。
社会は、私たちを「ロストジェネレーション」──“失われた世代”と呼んだ。
だが、失ったのは就職の機会だけではない。
積み上げるはずだったキャリアも、家庭を築く未来も、胸を張って生きる自尊心も──最初から存在を許されなかった。
怒りをぶつける相手は、どこにもいない。
政治家に向けたところで、あの頃の冷たい視線しか返ってこない。
企業に抗議しても、「自己責任」という一言で斬り捨てられる。
そんな時代、世代に産んだ親を責めても──ただの親不孝者になるだけだ。
だから、怒りは年と共に冷え、やがて形を失った。
残ったのは、どこへも流れない濁った水のような感情──腐ることも蒸発することもなく、ただ胸の底に淀み続けるだけのもの。
──今の仕事は、銀行口座の開設審査だ。
お客様がスマートフォンから申し込んだ情報と、添付された身分証明書の情報を照合するだけ。
そう言えば聞こえは単純だが、間違えば後工程の、郵送物が宛先不明で返送され、他部署にも迷惑をかける。
責任はある。それでも、時給は安い。
派遣とはそういうものだ。
いや、非正規とは、そういう運命だ。
「えっと……申込書の氏名は、山内“亜”樹
免許証の氏名は、山内“亞”樹……あれ?
“亜”の字が違う……」
小さな違いだが、勝手な判断は許されない。私は隣のSVに声をかける。
SV──SuperVisor。
この部署では派遣でもSVの肩書きが付けば時給は上がり、契約も安定する。
同じ派遣社員のはずなのに、その待遇の差は決定的だ。
「あの、SVさん……」
「ん? どうした?」
「この“亜”が旧字体なんですが、OKでいいんでしょうか?」
「ああ、それは大丈夫
OK扱いで」
「ありがとうございます」
「これ渡しとくよ、“よく出てくる旧字体表”」
差し出された紙は、コピーを何度も繰り返したせいで端がほつれ、紙質もくたびれていた。
どれだけの人が、同じ質問をし、同じ紙を渡され、同じ日々を過ごしてきたのだろう。
次は、住所の確認。
「申込書は……東京都江戸川区西葛西10−10−10−401
免許証は……東京都江戸川区西葛西10−10−10 江戸川ハイツC401……」
建物名のちょっとした違い。これも判断に迷う。
再びSVへ。
「あの、またすみません」
「何?」
「住所でこのパターンは……?」
「ああ、これは調べないとわからないから保留ね
ネット検索して、その番地に“江戸川ハイツC”という建物しかなければOK
もし同じ番地に、江戸川ハイツAとかBの建物があるならNG……なんだけど……
それは社員に頼んで調べてもらわないといけないから面倒なんだよな〜」
SVの口調は軽いが、私には重く響く。
──社員に頼む。
それは、派遣に与えられない“権限”という壁を、何気なく突き付けられる瞬間でもあった。
この仕事は、毎日が同じだ。
パソコンの画面と書類と、たまに短い会話。
誰とも言葉を交わさずに終わる日もある。
人付き合いが苦手な私には、向いているのかもしれない。
電話対応もないし、定時で帰れる。
ただ──時給は低く、契約は更新制。
満期まで働けても、その先は保証されない。
仕事内容も、キャリアという言葉とは遠くかけ離れている。
氷河期世代──就職氷河期を生き抜こうとした世代。
若い頃、正社員の座を必死で競い、落ちた者は非正規で生き延びるしかなかった。
「経験を積めば逆転できる」──そう信じて、派遣やアルバイトを転々としながら、いつか本線に戻れると自分を励ました。
けれど、現実は逆だった。
年齢を重ねれば重ねるほど、非正規は安く、便利に、そして雑に使われる。
転職の門は、少しずつ閉じていき、今では指一本通らないほどの隙間しかない。
私の履歴書は、短期の職歴と空白の期間ばかりで埋まっている。
誰も本気で目を通そうとしない。
それでも若い頃は、体力があった。
仕事終わりや休日には、机に向かい、資格の勉強をした。
日商簿記、FP、パソコン関連──社会人に必要そうな資格を、片っ端から取った。
だが結果は、あまりにも空しいものだった。
面接では、「資格よりも経験が優先ですから」と言われ、私の努力は、あっけなく棚の上に置かれたまま、誰にも手に取られることはなかった。
会社は「人手不足」と叫びながら、私たちには「年齢不問」という門さえ開かない。
それでも、生きるために、椅子を探して彷徨う。
椅子取りゲームは、とうの昔に終わっているのに──。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様ー」
定時であがる。
帰り道、駅前のスーパーに寄り、半額シールの貼られた揚げ物と、ストロング系チューハイを二本カゴに入れる。
会計前から、その光景が自分の明日も明後日も変わらないことを告げてくる。
職場から徒歩15分。
舗装のひび割れ、薄暗い街灯、同じ道、同じ景色。
信号が変わるタイミングまで、もう体が覚えている。
家は築八十年の二階建て。
祖父母が建て、父が相続し、その父は癌で亡くなり、遺されたのはこの家と、行き場のない私。
母は私が小学生の頃に出て行き、そのまま消息不明。
錆びついた鍵が壊れた玄関ドアを押し開ける。
修理代など出せるはずもない。
どうせこんなボロ家、泥棒さえも興味を示さない。
けれど、そうやって一つずつ諦めていくたびに、「底辺」という言葉が胸の奥で小さく呟かれる。
それに慣れてしまう自分が、一番嫌だ。
「ぷはぁ……!労働後の酒は格別にうまいな!」
二階の自室。
冷えた缶をプシュッ!と開ける音が、やけに響く。
炭酸の刺激とアルコールが、空っぽの胸の奥で泡立ち、すぐにしぼむ。
疲れを癒やすためではない。
「今日もまた何も残せなかった」という感覚を、酔いで薄めるためだ。
テレビをつければ、ニュース特番。
街頭インタビューで「ボーナスの使い道」を尋ねられた人々が、笑顔で答える。
「前から欲しかった物を買います」「海外旅行に行きます」──その笑顔の、何とまぶしいことか。
「いいなあ、ボーナス……」
つぶやきが、酔いで少し濁る。
私の人生で、そんなものをもらったことは一度もない。
非正規でしか働けず、否、働くことしかできなかった私にとって、それはおとぎ話でも、遠い国の夢でもない。
ただ、自分には届かないだけの現実だ。
すぐ隣の家の明かりの下でも、きっと祝杯が上がっている。
子どもの頃は、父のように普通の会社員になって、平均的な給料をもらい、ボーナスで美味しいご飯を食べに行く──そんな未来を、何の疑いもなく信じていたのに。
どうして、こうなったのだろう。
「はああ……今の契約が切れたら、どうしよう……」
二本目の缶を開ける。
アルコールが喉を落ちるたび、焦りも不安も少し霞む。
霞まなければ、きっと生きていけない。
「……もう、酔っ払っちゃった。
明日のことは、明日考えればいい……契約が切れたら、その時に考えれば……」
ふらつく足でベッドに倒れこみ、スマホのアラームだけをセットする。
明日もきっと同じ。
それでも目覚ましをかけるのは、まだ「生きる」ことをやめていない証なのかもしれない──
「ん……トイレ……」
まぶたを開けると、真っ暗な天井がぼんやり浮かんでいた。
スマホを手探りで取り、画面を見る。
午前三時。
外からは何の物音もしない。世界が自分を置き去りにしているような、そんな時間。
喉が渇いたのと、トイレに行きたいのとで、重たい体をベッドから起こす。
まだ酔いが抜けきらず、頭がぼんやりしている。
自室のドアを開けると、廊下は闇に沈んでいた。
廊下と階段の豆電球は、半年以上前に切れたまま。
買い替えるのは簡単だが、その数百円さえ惜しいと思ってしまった。
「まあ、壁をつたっていけば平気だろ」
そう自分に言い聞かせる。
──それが、誤りだった。
壁に手を添え、慎重に足を進める。
だが、暗闇は予想以上に濃く、階段の段差が頭の中の記憶と微妙にずれていた。
ふっ、と足が空を踏む感覚。
次の瞬間──視界がぐるりと反転し、鈍い衝撃音が骨を通して響く。
背中、肩、後頭部。
何度も床に叩きつけられるたび、体の中の何かが壊れていくのがわかった。
──暗闇。
痛みも、音も、すべてが遠ざかっていく。
最後に感じたのは、古びた木の床の冷たさだけだった。
そして、もう二度と──目覚めることはなかった。
一週間後。
無断欠勤を心配した派遣元の社員が訪れ、玄関の鍵をこじ開ける音が、朽ちた家の中に響いた。
だが、そのときにはもう──私は冷たく硬い、肉塊に成り果てていた。
近所の誰も、私の不在を不審に思わなかった。
会社の誰も、すぐには気にかけなかった。
社会から、家族から、そして世界から──
私は最初から存在していなかったかのように、消えていた。
──うん、まあ現実なんて……人生なんて、結局こんなものだろう。
夢も希望も、すっかり枯れ果てていた。
水をやっても芽は出ず、肥料を与えても花は咲かない──そんな畑をただ耕し続けるような日々。
それでも、生きている限りは鍬を置くことは許されなかった。
思えば、氷河期世代として生きた52年は、報われない努力と、奪われ続ける未来の連続だった。
求人票の「経験3年以上・20代歓迎」を、笑うしかない顔で何百回も見送り、同年代が家を建て、家族を持つ頃、私はボロ家でカップ麺を啜っていた。
頑張っても届かないものばかりで、夢も、誇りも、誰に見てもらえるわけでもない小さな努力の積み重ねも、いつしか意味を失った。
それでも──平凡に生きられただけで、まだマシだったのかもしれない。
少なくとも、誰かを傷つけたり、奪ったりはせずに済んだ。
「無害であること」だけが、唯一胸を張れることだったのかもしれない。
──神様、ありがとう。52年も生かしてくれて。
ほんの一世紀前の日本は、戦争の真っただ中で男の平均寿命は40代だったという。
そう考えれば、52歳まで生きられたのは神様の贈り物なのかもしれない。
だけど……欲を言っていいのなら。
……できれば来世では、ちょっとだけ今世よりも良い時代に生まれますように──
「正社員になりたい」
せめて、そんな小さい夢だけは……叶いますように──
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