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九話

「それはそうと、センパイ君」

「なんです?」

「今だから言うけどね……」

 カーテンの外が白んできた頃、それまで黙ってグラスを揺らしていたミユさんが不意に口を開いた。

「なんでアタシたち呼んじゃったの?」

「え、でも一人で暇して――」

「そういうことじゃなくてね?」

 昨夜の間に雪が降り積もり、めでたくホワイトクリスマスを迎えた今朝。

 どうやら俺は、人生の先輩から説教をされているらしい。

 何がいけなかったんだろうと数秒考えてみる。

 まぁ十中八九、クリスマスイブに突然電話してオールナイトピザパーティーに呼び付けたのが原因だろう。

 見た目だけは美人だし、彼氏くらいいてもおかしくないよな、とダメ元で誘ったわけだが、もう少し『ダメ元』を強調するべきだっただろうか。とはいえ、一人で暇だからと乗ってきたのは当のミユさんだ。

 しかし、いくら俺とアサギ相手といっても女一人では不安だろうからと、事前にヨシノの約束も取り付けてあったし、その旨もちゃんと伝えておいたはずだ。

 それが今になって――。

 もうピザというピザも粗方食い尽くし、夜が明けた頃になって説教に転じるとは何事か。

「ええと、勿論、この後で会費を徴収したりもしないですよ?」

「したら殴るよ?」

 そうだろうとも。

 今回はフリーター歴二ヶ月の俺がまさかの奢りで開催したピザパーティーである。勿論、電話で誘った時にもちゃんと伝えておいた。これも伝えておいたのだ。

「……ん? じゃあ何が問題なんです? もしかして食べ足りませんでした?」

 言ってはみたが、違うな、これは違う。

 途中何度か寝落ちしかけたせいで崩れてしまった髪が、なんだか天を衝きそうになっていた。

「本当に分かってないなら重症も重症だけど、まだ言い逃れするつもり?」

 と言って、ミユさんは部屋を……宅配ピザの箱が積み上げられたテーブルの周りを見回す。

 最初に脱落したアサギが突っ伏して呪詛を吐き、次いで先ほど脱落したヨシノがもう食べたくないと鮮明すぎる寝言を言っていた。それと完徹明けでひどい顔色になっているミユさん。

 なるほど、地獄絵図だ。

 こうやって客観的に見ているつもりの俺も、他人事とは笑えない状態なのだろう。

「チッ」

「折角顔だけは綺麗なんですから、舌打ちとかやめません?」

「喧嘩売ってんのか、アァ?」

「そんなそんな、滅相もない。人生の先輩に喧嘩売るなんて、そんなわけ――」

「おぉいい度胸だな表出ろや表」

 しばし茶番を演じ、二人揃ってため息をつく。

「……今ので勘弁してくれませんか?」

「勘弁するとかしないとか、そういう話じゃないよね?」

 それを言うなら、ミユさんが首を突っ込んでくる話でもないはずだが。

 しかし、アサギのコネで面接を顔パスさせてもらったバイト先の先輩でもある。あまり無下にもできないというか、正直なところ、心証の悪化は是が非でも避けたい。

「君は本当にアサギのこと考えてあげてるのかな? ねぇ、センパイ君?」

 本当にアサギのことを考えていたらなんだというのか。

 まさか好きでもないのに身体で応えろとでも言うつもりだろうか。

「本当にこいつのことを考えていたら、俺は今頃ここじゃないどこかで一人暮らししてましたね」

「それが彼の幸せになると?」

「長期的視座ってのは、往々にして妄想じみた想像力の賜物ですよ」

 同居生活を始めた年のクリスマスイブに知り合いの独り身女性二人を誘っての完徹とか、馬鹿げているにも程がある。分かってはいたが、分からない振りをしていたのだ。

 そうでもしないと、昨夜のアサギは収まらなかっただろう。

 ただ、だからといって応えてやるのが俺の役目かといえば、それも違う気がした。

 結局のところ、何が正解だったのかは分からない。人生の先輩なら教えてくれるのだろうか。

「ミユさんならどうしました?」

「自分も相手も騙して寝たね」

「そういう相手、いたらいいですね……」

「後でマジで表出ろ。朝飯奢れ。モーニングでいいから奢れマジで」

 口と性格が悪くなければモテそうなのに。

 というか、口と性格が悪くてもモテそうなのに。

 ミユさんはミユさんで理想が高いというか、なんというか。

「まぁ、真面目な話、それで幸せになれたらいいんですけどねぇ」

 口を衝いて出る言葉までは偽れない。

 我知らず零していた本心に、あろうことか鼻で笑う声が返された。

「なれるかどうかじゃないんだよ。するんだよ、幸せに。君自身もアサギも」

「はいはい乙女乙女。生涯乙女の意見は流石ですね」

「てめぇ後で覚悟しとけよ」

 ミユさんは気楽に言うが、果たして自分を騙して幸せになれるのだろうか。

 それ以前に、騙し通した末の幸せは、本当に幸せなんだろうか。

 分からない。難問すぎる。こういうのは十年とか二十年とか、長期的に解決する問題じゃないのか。騙して幸せになるより、気付いたら幸せになってました、くらいの方がいい気がする。

「まぁでも、センパイ君も伊達にニートじゃないね」

 人の悩みを知ってか知らでか、ミユさんの物言いは自由だ。

「もうフリーターなんですけどね」

「発想はニート根性で凝り固まってるみたいだけど?」

 ニート根性ってなんですかね……。

 そもそもニートが四人分の宅配ピザを買えるわけがない。まぁ俺だって余裕があるわけじゃないんだが、貯金とか考え出すと心が冷えるので今は気にしないと決めている。

「ピュアで頑固で我儘で。少年が歳だけ取って出来上がったのがニートでしょ? 学生時代のセンパイ君を知ってるわけじゃないけどさ、ニート時代にどんだけ理想見てたか覚えてる?」

「理想を現実と履き違えてたのは学生時代の俺ですが?」

 でなければ泥臭い就活生として大学生活最後の半年間を全うし、今頃は冴えない量産型サラリーマンになっていたはずだ。

 それが幸せだったとは思えない。

 けれども、その先には幸せがあったのだろうと思う。

 少なくとも預金残高から目を背け、将来ではなく今日この瞬間を生きるフリーターよりはマシな未来が待っていたことだろう。今日すら見ずに過去ばかり眺めるニートなど論外だ。

「じゃあ聞くけど、君にとっての理想って何?」

「石油王に気に入られて養子になって好き放題」

「ほら面倒臭い。やーい、ニートニート」

 さっきの仕返しだろうか。

 というか、それは俺ではなく全ニートに喧嘩を売っている気がする。なまじニートを経験したせいで、俺が勝手にニートを代弁した気になっているだけだろうか?

 ただまぁ、そう考えると、ニート時代の思考は抜け切っていないわけだ。

「……若干は認めますよ、若干は」

 ピュアで頑固で我儘だったか?

 全面的には無理だが、部分的には認める他ない。

 とはいえ、それはニートというより人間の本性だ。

 自分は綺麗だと思い、自分は正しいと思い、自分の思い通りになってほしいと願う。それが人間という生き物だろう。気を付けることはできても、決して別れることのできない本性だ。

「相手の愛情に心の底から応えたいと思うのは悪いことですかね」

「その思い自体が答えの一片だって言ってるんだよ」

 人生の先輩は偉大だ。

 人の悩みを一足飛びで解決してしまう。

「愛情は愛情でも、別物の愛情ですね」

 問題は、簡略化しすぎて大事なところが抜け落ちることだ。

「だから頑固だって言ってるんだよ。愛情に色はないからね。好きは好きのまま、愛しているは愛しているのままでいいんだよ。なんで自分で難しくするかな」

 なるほど、言葉にすれば単純だ。

 言うは易し、という先人の言葉を教えてあげたい。

「文句言いたそうな顔してるね」

 見透かされ、苦笑いが浮かぶ。

 俺はアサギのことが好きだ、人として、後輩として、友人として。

 生涯の友人としてやっていけるだろう。中年の男が二人暮らしというのは筆舌に尽くし難いが、それでも楽しくやれる自信はあった。多少なら行き過ぎた友情があっても文句はない。

 ただ、それはアサギの望んでいる形ではなかった。

 アサギが俺に求めている形は友人ではない、恋人だ。

 俺の『好き』と、アサギの『好き』。どっちも一緒くたにして同じにしてしまえれば、そりゃ楽に違いない。できないからこそ、悩んでいるのだ。

「一回くらい寝てあげたら?」

「女性なんですからもう少し言葉を慎んでください」

「それは差別ってもんだよ」

「じゃあピュアな少年の夢を壊さないでください」

「善処しよう」

 一々茶番を挟まなければやっていられない。そんな話だ。

 一回寝て、それでなんになるというのか。

 正直、忌避感はある。大いにある。それでも、その一回でアサギが満足するなら重い腰を上げるのも吝かではない。でも現実は違う。一回では満足はしない。

 一度の前例が、例外を例外ではなくしてしまう。

「頑固者」

「人の顔だけ見て判断するの、やめてくれません?」

「心ん中が全部顔に出てるんだから仕方ないね」

 そんなに分かりやすいだろうか。

 ただ、半年間もニートで人と顔を合わせることも少なかったせいか、学生時代ほど上手く表情を作れている自信はない。

「有り体に言って、アサギが一度で満足してくれるとは思いません」

 隠すのも取り繕うのも面倒臭くなってきた。

「アタシも一回で満足させろとは言ってないよ? ていうか、なに、そんな自信あるの?」

「ピュアな少年の夢を――」

「分かった、下ネタは控えるから」

 チッとわざとらしく舌打ちするミユさん。

 ……もしかしなくても、下ネタを言えるような話し相手が欲しかったのか?

「ええと、まぁ、気軽に連絡してください」

 瞬間、ミユさんの手が伸びた。

 殴られるのかと思ったが、なんてことはない、コーラのペットボトルを掴んだだけだ。……いや、だけ、ではない。てっきりグラスに注ぐのかと思ったら、ペットボトルをそのまま呷った。二リットルサイズなんだが、そのペットボトル。

 なんなら、あと半分くらい残っているんだが、どうするつもりだ。

「ほら」

 天井を見上げる。

 住み始めて二ヶ月の部屋の天井は綺麗だ。

「盃も交わせんのか」

「めんどくせ」

 ペットボトルを受け取って、アサギとヨシノがまだ夢の中にいることを確かめてから呷る。

 ただの砂糖ジュースになっていた。

 誰だ、ちゃんとキャップを閉めなかったのは。

「君、男と寝たことはあるの?」

「あったら悩んでないですよね?」

「……うん?」

 何を言っているんだ、この人は。

 ……この時、俺とミユさんは揃って同じ目をしていたはずだ。

「あー、聞き間違いかな?」

「いえ、多分正しく発音して、正しく聞き取ったはずですね」

 そういうつもりで言ったんじゃないんですけど、と頭をかく。

 まぁ、過去に男と寝ていれば悩まないというのなら、それこそアサギと寝たら解決する話だろう。過去にない前例を、今作ればいい。

 実際そう単純かといえば、全くそんなことはないのだが。

「物は試しって考えも、君にはないの?」

「愛情を身体で確かめるのは好きじゃないですね」

 まだしもオス同士で殴り合って雌雄を決する野生動物の方がマシだろう。

「そうじゃなくてさ……」

 何が違うというのか。

 珍しく言い淀んでいるミユさんだったが、しばらく睨んで……いや見つめていれば、諦めたように首を振る。

「一回したら、案外気持ちいいかもしれないじゃん?」

「……は?」

 かなりの小声だったが、聞き逃しはしなかった。

 目を逸らし、赤面し、口を尖らせるように微細な声を紡ぐミユさんの姿を画像と動画で保存したい。未来永劫タダ飯を食える気がする。心が痛むから、記憶からも消去するけど。

「けどまぁ、分かりましたよ、ミユさんの言いたいことは。でも――」

「でも?」

「それでダメだったらどうするんです? ただただ苦痛だったら?」

 目を合わせるのも辛くなるだろう。

 互いが互いを嫌になるならまだ救いもあるが、一方がどうしようもなく嫌になってしまったら救いようがない。致命的なまでに壊れた関係を、それでも残された一方は抱え込むことになる。

 そして、それはアサギだ。

「石橋を叩いて渡るっていうけど、君は石橋を叩いて『まだ壊れないけどいつか壊れるかもしれない』とか言い訳して、いつまでも渡らないつもりだね」

「……顔、読まないでくれます?」

 図星だった。

 というより、妙に腑に落ちた。

 そういうことか、と我に返る思いですらある。

「アタシの話、少しは身に染みた?」

 ミユさんは言うだけ言って、返事も聞かずにピザを手に取っている。

 ハーフアンドハーフでもクォーターでもない、食べ残しのキメラの一片。チーズが冷えて固まっているそれを、美味くもなさそうに食べていく。いっそグロテスクな光景だった。

「せめて恋愛くらい、綺麗なものであってほしかったんですけどね」

 ただ、呟く。

 中々どうして、恋愛とはグロテスクだ。生命の神秘だとか運命の出会いだとか綺麗な言葉で着飾っているのに、実態は残酷で、醜悪である。

 男女の営みが綺麗事だけでは済まないことくらい知っていたはずなのに、相手が男になった途端に分からなくなるとは。

 いや、違うな。

 相手が男だからじゃなくて、相手がアサギだから分からなくなったのか。

「ニートと一緒に、そろそろ子供の幻想からも卒業したらどう?」

 説得力があるのかないのか微妙な言葉だ。

 とはいえ、言葉そのものは真実だろう。

 これもニートになって思い知ったことだが、蚊帳の外にいるからこそ、文字通りの意味で客観視できることも多い。一片の説得力もない正論を吐くのがニートという生き物だった。

「自分のためか相手のためか、どっち付かずが一番良くないからね?」

「ミユさんからすると、今の俺はどっち付かずに見えますか」

「事実そうでしょ? アサギのためとか言いながら、自分の心も大事にする。自分の心は大事にしながら、アサギのことを利用しようとは考えない。どう見ても中途半端」

 そこで片側に吹っ切れていたら、聖人か極悪人だろう。

 中庸ではなくとも、中途半端な人間ばかりだからこそ社会は成り立っている。

「恋愛は駆け引きだよ」

「嘘でも信頼とか献身だって言ってくださいよ」

「信頼? あぁ、そうかもね。疑うことを知らない盲信ってやつだ」

 本やドラマで見たような受け売りばかり、と小言を言うのは許されるんだろうか。

 しかし翻って、俺はどうなんだ。恋愛観なんて大したものじゃないが、好きとか愛してるとか、愛情だとか恋情だとか、そういうのを受け売りではなく俺自身の思いで知っているのか。

 多分、知らないのだろう。

 恋愛に限らず、なんでもそうだ。知っているつもりで、本当は受け売りでしかない。

「恋愛は献身だと思うなら、センパイ君はアサギに尽くせる? 恋愛は愛情と違って一方通行じゃないんだよ。向けられただけで、もう巻き込まれてるんだよ」

「知った口を叩く」

「事実知ってるからね」

 なるほど、と声には出さず頷いていた。

 まぁモテそうだもんな、ミユさんは。ただちょっと理想が高すぎるというか夢を見すぎているだけだ。一方通行の愛情を向けられ、恋愛劇に巻き込まれた過去があっても不思議じゃない。

「まぁセンパイ君の言葉も間違いではないよね。相手に尽くす献身か、自分の利益を引き出す駆け引きか、何も考えない盲信か。どれも恋愛の姿だよ。君がどれを選ぶのかは知らないけど」

 あと一つ、拒絶という選択肢もあるのだろうが、今は気にしなくていいか。

 ……いいのか? まぁ、いいか。

「それで提案なんだけど」

 ミユさんは疲れた顔で微笑んだ。

 そろそろ体力も限界だろう。十代の頃は楽しめていた徹夜も、二十を過ぎると厳しくなる。

「アサギと付き合うメリット、ちょっと考えてみたらどう? 気持ちいいとかそういうことじゃなくて、もっと実利的なメリットをさ。そうすれば駆け引きも成立するんじゃないかな」

「悪魔の囁きですねぇ」

「そう? ならよかったよ。アサギに胸を張れるってもんだ」

 実利的なメリットといえば、ぱっと浮かぶだけでも幾つかはあった。

 独り身だと怪我や病気の時に収入が途絶えて一気に困窮するが、二人なら支え合える。精神的ではなく経済的な支えというのは、案外得難いものなのかもしれない。

 それこそ保険に入っているようなものだ。

 法的拘束力はないに等しいが、代わりに手厚いサポートに期待できる。

 まぁ、これに関してはお互い様で、相手が働けなくなった時には俺がその分まで働かなくちゃいけないのだが。

「どう? 少しはやる気になった?」

 馬鹿か、こいつは。

 流石に口には出さないけど、正直そう言いたかった。そりゃそうだろう。馬鹿だよ、この人。

「まぁ、そうですね。少しは考えさせられました」

「全く心に響いてないことはよく分かった」

 しかし、それでも少しは分かったこともある。

 人と話すのは大切だ。茶番混じりの会話でも、思考の整理には大いに役立つ。

「ちょっとはスッキリした顔だね」

「お陰様で」

 笑って見返せば、ミユさんも満足げに笑ってくれた。

「じゃ、お礼ってことで朝飯奢れ」

 笑いながら吐き出された言葉はなんとも可愛げのないものだったが。

「後輩にたかりますか、普通」

「それは君が言えたことじゃないと思うけどね」

「はいはい、そうでしたね。後輩に散々奢られた元ニートですよ」

 結局飲み干すには至らなかったコーラにキャップをして、音を立てないように腰を上げる。

「モーニングでしたっけ? この辺、まだよく知らないんですけど」

「お勧めの店を教えてあげるよ」

 それは楽しみだ。

 一瞥し、アサギとヨシノがまだ寝ていることを確かめる。アサギの方はなんだか背筋が寒くなる呪詛を吐き続けているが、だからこそ安心だった。寝た振りをしているなら、こんな呪詛は紡ぐまい。

 コートを手に取り、ミユさんと並んでアパートを後にする。


 冬の寒い朝にもかかわらず、街はふわふわしていた。

 今日は何か特別な日だっただろうか。数瞬考え、我に返った。

「あー、ミユさん、これちょっとまずくないですかね」

「アタシも今思い出したんだけどさ」

 そういえば、今日はクリスマス当日だった。しかもホワイトクリスマスである。

 説教が始まった時は確かに覚えていたのだが、クリスマスどころではなくなって完全に忘れていた。

 しかし、街はクリスマスムード一色。

 そして俺たちは、朝から男女並んでアパートから出てきたところだ。

 見られたくない誰かがいるわけでもないのだが、なんとも居心地が悪くなる。

 これは早く帰った方がいい。

 言葉も交わさずに二人の意見が一致した矢先、リンリンリリンと背筋を貫くリズムが鳴った。

 足が止まる。

 ミユさんが唾を飲むのが分かった。アサギの着信音だけ他と違うのは、ミユさんも知っていることだ。というか、そのことで何度となくからかわれている。

 今は笑える状況ではなかった。

 永遠のような数瞬の後、スマホをポケットから出す。耳元に当てた。

「はい、もしも――」

「センパイ?」

 十二月下旬の早朝の風より幾分も冷たい、氷点下の声。

「なんだ?」

「なんだじゃないですよね?」

「……どうした?」

 どうしたじゃないですよね、とアサギが唸る。もうちょっと食べたい、という鮮明すぎる寝言をアサギのスマホが拾った。その声も遠ざかる。次いで、戸を開ける音。

 あぁ、まずい。

 これは早くも玄関から出ようとしている。

「今、どこですか?」

「外だが」

「知ってます。で、どこですか?」

 この寒さの中で首筋に汗が伝う。

 どうする、どうすればいい。数瞬考えた。すぐに答えは出た。あとは演技力あるのみ。

 今こそ本領発揮の時だろう。散々見栄を張ってきたんだ。今くらい、嘘でも堂々と話せ。

「どこって言われてもな……。あー、通りを曲がったところだ。分かるか」

「分かりません」

「分かるだろ、コンビニ行く途中だよ」

 隣で立ちすくむミユさんにも聞こえるように言って、目配せする。

 モーニングは諦めてほしい。また今度、どうにかアサギの目を盗んで埋め合わせするから。

「つうか、起きたんなら話は早い。朝飯、何にする?」

 こういう時は先手を打つに限る。

 速やかに用件を伝え、アサギが言葉を切らした瞬間、スマホをミユさんにパス。

「アサギ? アタシだよ、ミユだよ。念のため言っておくけど、勘違いしないでね? ……いや、だから勘違いしないでって。心配なら追いかけてくれば? いや、何もなかったから」

 あれだけ嬉々として説教してきたミユさんも、疑念に取り憑かれたアサギの追及には疲れ果てた表情をしている。

 いい気味だ。

 これでミユさんが下手を打ったら俺まで地獄を見るのだが、今だけは忘れよう。

「あーもう、だから、朝ご飯は何にするって聞かれてるよ? 何も買ってかなくていいの?」

 それからも電話は続いていたが、やがては半ば断ち切るようにしてスマホが返却された。

 通話も切れている。

「なんて言ってました?」

「王子様はカツカレーをご所望だ」

 即座にリダイヤルする。

 アサギは一秒と待たせずに電話に出た。

「馬鹿か、どこまで買いに行かせるつもりだ。俺が選ぶ。いいな?」

 言うだけ言って、また切る。

 着信はなかった。

 アサギもこれで満足らしい。

「……なんですか?」

 しかし、残るは意外そうな眼差しを向けてくるミユさんである。

「あー、いや、なんていうか」

 歯切れの悪い、なんともらしくない前置きから、ミユさんは告げるのだった。

「アサギの扱いに慣れてるんだなぁって」

 慣れてたらこんな苦労はしてないですよ、とはついぞ言えなかった。

 本当に、ただただ申し訳ない気がしてくる。どこかの馬鹿がオールナイトピザパーティーなんか開催したせいで、要らない苦労をかけてしまった。

「まぁ、二ヶ月も一緒に暮らしてますんで」

 誤魔化すように言って、気取られないようにため息を零す。

 とはいえ、まぁ、こういう騒がしさも時には悪くない。

 もう一度ため息をつく。

 と、その時、同時に横でもため息が零された。

「どうしました?」

「気にしないで。柄にもなくお節介焼いて疲れただけだから」

 そりゃ悪いことをした。

「また今度お詫びとお礼しますね。お勧めの店、教えてください」

 言うと、割り勘でね、とミユさんも苦笑する。

 これはこれで悪くない関係を築けているんじゃないだろうか。なんというか、それなりに充実した学生時代を過ごしたつもりだったが、こういう先輩はいなかった。

 いたらもっと楽しかったんだろうな、と思う反面、これはお互いに若すぎないからかと思い直す。

「ねぇ、センパイ君」

「なんですか、ミユ先輩」

 ふざけて言えば、相手は嫌そうに笑ってくれた。

「こんなこと、言うまでもないのかもしれないけどさ」

 説教の時もこんなに真面目な調子ではなかった。

 いっそ愛の告白をされても驚かないくらいの真剣さだ。まぁ、それはないだろうが。

「今の君があるのはアサギのお陰だって、ちゃんと忘れないであげてね」

 二ヶ月前まで、俺はニートだった。

 毎日スマホをポチポチして生きるだけのニートだった。

 それが今ではフリーターだ。勿論フリーターとて胸を張れる職業ではないし、スマホをポチポチする代わりに決して高くはない給料で働く日々でもある。

 楽しいだけの日々ではない。

 しかし、だからこそ、なのだろう。

「言われなくても分かってますよ、それくらい」

 ニートだった頃と比べるわけじゃない。

 順風満帆だった学生時代までと比べてなお、今は充実していた。

 楽しいだけではない。

 決して楽でもない。

 稼ぎだけを見れば、フリーターなんてさっさと足を洗った方がいいだろう。

 でも、違うのだと知ってしまった。

 学生だからとか、ニートだからとか、フリーターだからとか、そういうことじゃない。

「話しますよ、ちゃんと。あの勘違いしやすい馬鹿でも、勘違いする余地ないくらい」

「そうか。それなら安心だね」

 何かが劇的に変わったわけではない。

 男を愛するようになったとか、新しい世界を見たとか、そういうことではない。

 ただ一歩、ほんの少しだけ、ようやく前に進んだのだ。

 その一歩さえ踏み出せずにいた俺の背中を、そうとは知らずにアサギが押してくれたのだ。

「あの、ミユさん」

 徹夜明けだが、冬の冷風に吹かれていたら眠気も感じない。

 そそくさとコンビニに逃げ込みながら、俺はアサギのお陰で出会えた人生の先輩と向き合う。

「何かな? 愛の告白以外なら、なんでも聞いてあげるよ?」

 ミユさんは悪戯っぽく笑ってみせた。

 俺もいつか、そんな風に笑ってアサギを受け入れられるのだろうか。

 分からない。

 分からないが、少しは肩の荷が下りた気がした。

「昨日のピザで財布がすっからかんなの忘れてました、すみません! ごちになりますっ!」

 この期に及んで四人分の朝食とか、買えるわけがなかった。

 店内にもかかわらず怒髪天を衝くミユさんからは目を逸らし、耳には精神的耳栓を詰め込む。アサギも今日から冬休みだと言っていたはずだ。話す時間はあるだろう。

「ねぇ、ちょっと待って? どさくさに紛れて高い方のおにぎり入れるのやめてくれない? ねぇ? ちょっと?」

「もう、大人げないですよ?」

「それはアタシの台詞だっ!」

 ヨシノが潰れてから何時間か、一対一で下ネタとエセ漫才に付き合ってきたのだ。

 これくらいの冗談にはお付き合いいただくとしよう。

 勿論、経費というかお支払いはミユさん持ちで。

「……アサギの野郎、結局ヒモに育ててんじゃねえか」

 悲壮感漂う呟きは、お互いのために聞こえなかったことにしておいた。

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