20
これは……夢?
水に揺られているような感覚には覚えがある。
初めてミュウと言葉を交わした時、僕は突き飛ばされて泉の底へ沈んでいた。人間には浮力がある筈なのに、大して痛みもないまま、けれど確実に。
あのまま沈んでいたらどうなっていたのかな。
死んだか、流石に。
水の中から見る陽の光は綺麗だった。
確か僕は手を伸ばしたんだ。もがこうとして。
けど、沈んでいく中、呆然とそれを眺めていたのはなんでだっけ。
アズサさんは僕が居た場所からは離れたイルカショーの会場で戦っていた。
エインヘリヤルを展開していただろう桜井マリナも、ミュウから貰った情報では随分と離れていた筈だ。
僕は何に巻き込まれたんだ。
何かを忘れてる?
違う。
この考えは最近ずっと繰り返してきたものだった。
記憶はまだはっきりしていない。思い出せない。
けれど、可能性を追求すれば確かにあの時――
嫌な考えだ。
気持ち悪い。
眠る度にこんな夢を繰り返す。
考えたくない。けど、早く動かないときっと皆が辛い目に合う。
「―――、―――」
誰かの声を聞いて、うっすらと目を開ける。
意識はまだ微睡みの中にある。気を張らないとまたすぐ沈んでしまいそうなのに、もがく手を失ったみたいに身体が動かせない。
その人は、じっと僕を見つめていた。
小柄で、不思議な眼をしていて、それで、
「――、―――――――」
手には僕が掛けていたぐるぐる眼鏡。
目元を隠す大切な、
大切な、
――、
って眼鏡!?
一本釣りされたカツオみたいに僕の意識は覚醒した。
勢い余って机を膝で打ち、幾つもの硬い音が足元で響く。
目覚めると、僕は夕陽の中に居た。
「起きた?」
そこに居たのはシズクちゃんだ。
澄んだ響きの声が寝ぼけ頭にもスッと入り込んでくる。彼女の声は独特だ。誰にでもある筈の淀みが欠片も感じられない。
清浄さと、静謐さを持つ、不思議な声。
彼女は僕の顔を覗き込むようにして、どことなく心配そうに見ている。
「体調、良くない?」
「あ……あれ?」
「目、こっち」
視線を彷徨わせる僕の顔を両手で掴み、じっと見つめ合わせる。
ぐっと近寄り、おでこを合わせた。
「あぁ、あの」
「ちょっと熱っぽい。無理してた? ばか」
「いや、そうじゃなくてですね、シズクちゃん?」
「ちょっと黙る」
「でも――」
「黙る」
ちょっとだけ厳しい目を向けられて、僕は何も言えなくなった。
熱、か。確かにあるのかもしれない。顔が熱いかも。
シズクちゃんは緑の光を散らせると、久しぶりに見るあの妖精みたいなドレスを纏った。草葉を重ねて作ったようなドレスは彼女によく似合ってる。
「誰も、私に傷を付けることは出来ない」
触れられた頬にひんやりとした感触がある。
彼女自信が言っていた。冷たい手をしていると。
「病でさえ、そう。そういう契約」
身体の辛さが消えていく。
淀んでいた意識に涼風を送り込まれたみたいに心地良い。
「本当は私だけ。けど……うん、解釈」
「ありがとうございます……」
どこかまだぼんやりしたまま、僕は礼を言った。
シズクちゃんは嬉しそうに笑ってくれた。その表情がまた、とても綺麗で、夕陽の中で一際輝いて見えた。
「バルドル、なんですよね」
敵味方の区別なく、この世のあらゆる者たち、そして物たち、モノたちに愛された神さまの名前だ。
美しいからと愛され、供物として求められても、恨まれたりも憎まれたりもしていたフレイアとは全く違う。
「そう。無敵。一つを除けば」
「うん」
「私、いつか死ぬから」
驚いてぎょっとする。
まだ彼女がここに居ることへの混乱もあるのに、ますますどうしたらいいかわからなくなった。
「止めて下さい。そんなこと言うのは」
「覚悟はしておいて」
言って、少し申し訳無さそうに。
「ロキが現れた」
「うん」
「あの人は私を殺す」
守る、とは言えずに、けれど形を持たない感情のままシズクちゃんの手を握った。両の手で大切に包み込む。
「だから、急いでるんですか?」
「そう」
「色んな映画を見てみたり、今までより積極的に人と係わったり」
「そう。人間になる為に」
一種の情報生命体とミュウは言っていた。
星の心が具現化し、地球人の遺伝子なんかから作られた肉体に収まっていると。
彼女は、何を感じているんだろうか。
「まだ、アズサには黙ってる?」
「ごめんなさい、お願いします」
「ううん。平気」
僕のせいで、イムアラムールの活動は今止まってる。
ラビアンローズが手負いの今、影響範囲を広げる絶好の機会なのに。第三勢力との備えも十分に打てていない。
いいかげん決断するべきだ。
対局時計を見る。
時計は淡雪さんの持ち時間がゼロになった所で止まっていた。僕が起きた時に崩してしまったせいで盤上は滅茶苦茶だけど、どうやら勝てたみたいで安心した。
淡雪さんなら、負けたのに隙を見て眼鏡を外すなんてしないだろう。
それから僕らは道具を片付けて教室を出た。
靴を履き替えてから、来客用の下駄履で先生と挨拶を交わしていたシズクちゃんと合流する。
そろそろ我慢できなくなったので、僕は聞いてみた。
「なんでウチの制服着てるの?」
というか担任国語教師が当たり前に迎えていたのにも驚いた。
あの人なら適当という可能性もあるんだけど。
シズクちゃんは嬉しそうに笑って、
「私、ここの卒業生だから」
とんでもない発言を僕に叩きつけた。
「…………え?」
「ツバサ、学年は?」
「二年生です」
「一年生の時、私は三年生」
じっとこちらを見て、
「先輩」
「あの……」
「正座」
「はいっ」
言われるまま来客用の下駄箱前で正座する僕。
え? シズクちゃんが先輩? 一年の時に一緒だったの?
正座する僕を見下ろしてシズクちゃんはとても満足そうだった。
「こっ……氷の女王!?」
唐突に、下足ホール中に響くほどの音量でコースケの声が聞こえた。
僕の親友は驚きの表情でシズクちゃんを見、正座する僕を見、一度悩んでから頷いた。
「俺も仲間に入れてもらっていいですか」
「そういう意味じゃないよ?」
※ ※ ※
駅前のファーストフード店に僕らは来ていた。
僕、シズクちゃん、コースケ。予想だにしなかったメンツだ。
コースケは興味なさ気なシズクちゃんの態度に欠片も怖じることなく奉仕している。まずセット奢りは当たり前。バニラシェークを飲みたいと仰る女王にセットからの変更が出来ないと知るや即座に単品で追加注文。自分が頼む時にさりげなく水を幾つか頼んで保持しておくなどの気遣いぶり。
「で、氷の女王ってなんなの」
「お前なぁ……ウチの学校じゃ伝説になるくらい有名だったんだぞ?」
コースケは僕の知らないシズクちゃんを熱く語った。
何でも在学中に二百人近い人間から告白されたとか、その三分の一は実は女性からで、中には教師も混じっていたとかいないとか。
「実は……俺も一年の時に斬り捨てられた一人っす」
「そうなの?」
言ったのはシズクちゃん。
本当に二百人もの人間から言い寄られたんなら覚えていなくても仕方ないか。
「コースケは僕の親友だよ、とっても良い人だよ?」
でも大切な親友だから、シズクちゃんにもきちんと紹介する。
彼女は首を傾げてコースケを見て、
「そう」
そっけなく聞こえるけど、これがシズクちゃんの標準だ。
仮にも一度恋した相手からの視線を受けて、照れ臭そうなコースケを見て、僕は少し楽しくなった。こういう景色はずっと見ていたくなる。
「まあ俺は、今は別の恋に生きてるんで、気にしないでください」
僕は全力で顔を背けた。
陽の落ちた繁華街のネオンが眩しいや。コースケに早く新しい春が来ないかな。
「そうだ。そういえば最近ネットで話題になってるんスけどっ」
すみません、とちゃんと一言断ってからケータイを取り出し、ネットに繋ぐ。幾つかの操作を経て見せられた画面に、僕は血の気が引いた。
「ツバサには前に話したろ? 俺が初めてあの人を見た時、剣持って戦ってたんだって」
写真に写っていたのは僕だった。
それだけじゃない。ミホさんと、この前戦ったマコトちゃん、後はロキのドレスを持つ――。
シズクちゃんと目を合わせる。
彼女も驚いているようで、ほんの僅かに目が見開かれていた。
「どれもピンぼけしちゃってて顔とかははっきりしないんだけど、この黒い格好はあの人で間違いねえと思うんだ」
「これ……どういう」
そう尋ねるので精一杯だった。
「結構前からあったらしいんだけど、最近になって熱心な追っかけが出来てさ。今の所ははっきりしてないらしいんだが、正体を突き止めようって情報を広めてるんだ。まあビックリだよな。一応検証してる連中が現場行って調べたんだが、映像で壊れた場所は元通りだったからって作り物扱いは主流だけど」
でもコースケは実際に戦う僕の姿を見ている。
人間の枠を超えた動きに、彼は何か確信的なものを持っているらしい。
「だけど徐々に古い目撃情報とかが集まってる。どれもこれも戦いの証拠も残ってねえからガセネタ扱いだけど、内の幾つかは本当だろうな。第一、頭の写真のシーンは目撃者がすげえ居るんだ」
少なくとも今までは人目を避けて戦いが行われていた。
けどこの前の戦いはやっぱり場所が悪かったんだ。道路上に居た人だけじゃない。周囲のビルからも僕たちの戦いは観察出来た筈。実際コースケが見せてくれた映像は複数の視点から撮影されていて、それを誰かが上手く編集したものだった。
「続けてて」
短く言ってシズクちゃんが席を立った。
ケータイを持っていったから、多分ミホさんやミュウに話すつもりなんだろう。
そして、コースケがここぞとばかりに身を寄せ、なんだか妙に下衆な……いや親友になんてこと思うんだって僕も思うけど、確かに下衆な表情で画面を僕に見せてきた。
その瞬間、僕はもう死にたくなった。
僕の写真だ。
けど顔は写ってない。
むしろ肩も胴も見えない。
見えているのは脚だ。
いや、目を逸らしたくて仕方ないけど、はっきり言ってしまうと僕のパンツが丸見えだった。
撮影者はビルの中に居たらしい。
だとするとアレだ。ビルの壁面を走っている時に撮られたんだ。
「いやぁ……あの人清純派だったもんなぁ、やっぱり白だよなぁ」
嬉しそうに言うコースケに、僕は空いた隣の席、つまり部屋の隅に移動して膝を抱えて丸まった。
死にたい。
いっそ殺してくれ。
「真偽は別として、全員女の子だろ? 顔がはっきりしないのは困りものだけど、この写真のおかげであの人だけ人気が鰻登りでさ。清純派の白だってんで熱心な奴が想像で似顔絵なんて書いてんの。そうそう、ニックネームが二つあってさ、今投票してんの」
なんかもう聞きたくないなぁ……。
「『黒曜石の美姫』と『白ぱんつ姫』。お前どっちがいい?」
「黒いのでお願いしますっ」
「おお、入れとくぞ」
あぁでも確認しておかないといけないことがある。
僕は非常に躊躇いながらも恥を偲んでコースケにケータイを借りると、僕自身のパンチラ……モロだった画像を食い入るようにみる。多分、今の僕の目は死んだ魚以上に生気がない。
顔だけに限らず、姿全体がうっすらをぼやけていた。おまけに鏡越しの反射もあって確かに色は分かるけど、えぇ、まあなんといいますか、どれだけ女の格好をしようとも取り外し不可能なアレの存在は確認出来ない。
少しだけほっとした。
僕はケータイを返すと、再び自分の殻に閉じこもった。
「まあ、女の子の下着を晒すなんて褒められたことじゃねえけどな」
僕の反応を罪悪感からだと解釈してくれたコースケ。
違うんです、それ僕のパンツです。
セクハラを受ける世の中の女性の気持ちが僕には良く分かった。セクハラ男も痴漢男もこの世から滅びればいいんだ。
「どうしたの?」
戻ってきたシズクちゃんが聞く。
「男は業の深い生き物だなって話っスよ」
ホントにそうだね……。
それから僕が落ち着くまで、コースケがシズクちゃんの武勇伝を語って時間を持たせてくれた。最初は無関心に近かったシズクちゃんも、次第にコースケへ気を許していっているようで僕も安心した。
やっぱり僕の親友は良い奴だ。
しばらくして迎えに来た、おそらくはミホさんの付き人、川村さんの運転するリムジンに乗って去っていった。
女の子が居なくなった後、僕の落ち込みっぷりを気にして下ネタは挟まなくなったけど、かなり遅い時間までコースケと二人で語り明かした。
うん……結局、シズクちゃんから僕の服装について聞かれることも、僕から聞くこともできなかった。男子制服を着る女の子も居るのは、あの学校に通っていたのなら知ってるだろうし、そう解釈してくれたのかな?
釈然としない。
けど、間を置いてしまった以上、後になって聞きにいくというのは、僕には出来なかった。




