終章 名前を選ぶ者たち
ルクシオールは倒れたが、戦いはすぐには終わらなかった。
だが、指揮系統を失った王国軍は急速に統制を失った。
上級将官の多くが戦死、負傷、あるいは捕縛され、やがて全軍に撤退命令が下された。
戦いのあと、八体のアンジュはシルヴァリアへ残った。
法典は焼かれなかった。
二度と命令に使われないよう、ページを一枚ずつ外し、子供たちの文字の練習に使うことになった。
第十二条は、フィンへ訊いた。
「鳥を好きになるのは、命令ですか」
フィンは少し考えた。
「君が決めることだ」
「決める」
第十二条は、その言葉を何度か口の中で繰り返した。
「では、名前も決めてよいのですか」
「もちろん」
少女は空を見た。
すぐには決めなかった。
選べる時間そのものを、しばらく楽しんでいた。
◇◇◇
モフモフ亭は、戦いから二十日後に営業を再開した。
壁には砲弾の跡が残り、看板の片側は焦げていた。
しかし辺境のこの街にとっては、今日の飯と明日の稼ぎの方が、よほど切実な問題だった。
「おいアポロ、三番テーブルの煮込みがまだだ! 客が暴れそうだぞ!」
「わかってる。火加減を急かすな。美味いもんには時間がかかる」
厨房の中、アポロは鍋を振るっていた。
その手に魔導銃はない。
使い込まれた鉄鍋と木べらがある。
それで十分だった。
「はいはい、お待たせしました。今日の煮込みです」
カウンター越しにシルクから料理を受けて各テーブルで手渡しているのは、白いエプロンドレスを纏ったエステルだった。
「聖女様じゃねぇか!」
「元・聖女です。今は見習い給仕ですので、そう呼ばないでください」
厨房の入口からシルクが顔を出した。
「聖女様、さまになってきたじゃないか」
「シルクさんが煽るから余計に恥ずかしいんです」
店内が笑いに包まれた。
昼の喧騒が一段落した頃、三人は厨房の裏口へ並んで腰を下ろした。
石畳に砂埃が舞っている。
遠くから鍛冶屋の槌の音が聞こえる。
誰かが鼻歌を歌いながら歩いていく。
シルヴァリアの、いつもの午後だった。
しばらく誰も喋らなかった。
それでよかった。
白銀の薔薇が、三つの胸で静かに脈打っていた。
戦いの時のような烈しい鼓動ではない。
ただ、繋がっていることを確かめるような、穏やかな鼓動だった。
「なあ」
アポロが空を見上げながら言った。
「ルクシオールは、最後に妻と娘の名を呼んだ」
シルクとエステルは何も言わなかった。
「会えるといいな、と思った。俺がそんなことを思うとは思わなかったが」
「思うでしょう」
エステルが静かに言った。
「あの人は最後に、人へ戻りましたから」
「そうだな」
アポロはマグカップを両手で包んだ。
シルクが肩をぶつける。
「ところで相棒。これからどうする」
アポロは少し考えた。
「まず、店の経営を立て直したい」
「夢が小さいねえ」
「生きるってのは、大概そういうことだ」
エステルが小さく笑った。
この関係に名前をつける日は、まだ先でいい。三人ともそう思っていた。
その夜、辺境伯の伝令兵が一通の書状を持ってきた。
禁域の奥で、未知の魔力反応が観測され、隣国の帝国が越境してきているので調査して欲しいという。
アポロは書状を畳み、シルクとエステルを見た。
「俺たちは、まだ踊り足りないらしい」
シルクの尻尾が、ふわりと揺れた。
「望むところだよ、相棒」
エステルは黄金の杖を手に取った。
「最後までお付き合いします。どこへでも」
三人の影が燭台の灯りに照らされ、壁に長く伸びた。
荒野の夜は深い。
それでも、夜明けは来る。
彼らが奏でる狂詩曲は、まだ終わらない。
(CHAMBERⅢ-Rhapsody 完)




