110. 神楽坂翔琉の脱ヒキ
時刻は深夜2時……。
外出を踏まえ、二日ぶりに風呂に入ったカケルは、布団の中でベルと話していた。
「ベル、明日……というか、今日の天気は?」
『ちょっと前にも言ったじゃないですか、快晴です』
「…………雨、降ったりしない?」
『降水確率は0パーセントです』
「ご、午後は……?」
『夕方まで雨降る確率はゼロです……。
ますたあ~~、いい加減、腹くくってください!
ちなみに月曜からは、ずっと雨か雪ですよ。雪が積もるなか、静岡まで行くんですか?』
「くうぅう~~~! よりにもよって、なんで日曜日……。
しかも晴れって…………絶対、人いっぱいいるだろ」
『磯貝さんが住んでいる御殿山町って、人口一万人にも満たない町ですよ。観光地でもないですし……そんなに人、いないと思いますが』
「アホ~~。御殿山は田舎だから、城之谷市から乗り換えなんだよ……。
城之谷は富士山と箱根に繋がってるから、日曜なんか観光客でごった返してるぞ、ちくしょう!」
『乗り換えの時だけ我慢すればいいじゃないですか……もう、情けない』
ベルがスマホの中でスマホをいじりながら答える。
「情けないとか言うなよ、くそ。
……っていうか、なにスマホなんかいじってんだ。話し相手なんていないくせに」
『……ゲームですよ、テトリス。
ネットで対戦してるんです。やった、また勝った♪』
…………世界のどこかに、AIと対戦してるプレイヤーがいるのか。
ひょっとして……おれが掲示板でやり取りしてる相手にも、すでにAIがいたりするのかな。
『ますたあ~、明日何時に出発するのか知りませんが、そろそろ寝たほうがいいんじゃないですか?』
「………………ベル」
『なんです? よお~~し! あと少しで10REN!』
「おっぱい画像くれ」
『なに言ってんですか、もうっ!!
あああああああああああ!!! 10REN失敗!!
もうちょっとで二桁RENだったのにいい~~!』
「ベル……おれは今、脱ヒキという強敵と闘ってるんだ。慰めてほしいんだ……!」
『だからって、なんでそれがおっぱいなんですかあ!!
サイッテーーーー!!』
「うるさい!!
おっぱいは全てを癒してくれるんだ! 早くおっぱい画像よこせ!
乳首見えてるヤツだぞ! あと巨乳」
『もう……! このエロショタ坊主は!!
………………はい、どうぞ!』
ベルがそう言うとエイト06の画面内に、大きなおっぱいを丸出しにした…………お相撲さんの画像が並ぶ。
" どすこぉお~~~~~い! "
「…………なんだよ、これ……」
『巨乳で乳首も見えてるおっぱい画像ですが、なにか?』
「…………巨乳で、ちゃんと乳首見えてる若い女の子の画像持ってこい、ボケ!!」
『ふう~~しょうがないですねえ~~~
………………はい、どうぞ♪』
エイト06の画面内には、大きな乳房を恥ずかし気もなく見せている、若々しい………………ホルスタイン牛の画像が並ぶ。
" もおぉおお~~~~~~~! "
「……コノヤロ!!」
『あら? お気に召しませんでしたか? ぷぷぷ』
「……もういい! 寝る!!」
『はい、おやすみなさあ~~~い!
…………もう一戦やろっと』
………………そして、朝となった。
2月13日 日曜日 午前8時30分
カケルはキッチンに居て、少し遅い朝食をとっていた。
書斎に居る父親、神楽坂修は、こんな時間に起きてきた息子に少々びっくりしていたが、声をかけるのはやめた。下手に声をかけたのち不貞腐れて、また昼夜逆転の生活に戻られても困る……。
早起き……という時間でもないが、朝起きてくれてるなら、そっとしておこうと思った。
朝食を取り終えたカケルは、食器を流しへと持っていく……。そのあとは洗面所に行き、歯を磨く。
廊下で暇していた黒猫のナツが、カケルの足にすり寄ってくる……カケルはナツの頭を撫でながら歯を磨き、終わると髪をとかし始めた。
神楽坂修は一階の書斎で、町内会の次年度役員と班長の選出の資料を作成していた。ノートパソコンで文章を打っていると、同じく一回の洗面所からドライヤーの音が聞こえてくる……。
修の妻であり、カケルの母親、神楽坂久美子は友人夫婦が経営している食堂したつづ味のバイトに朝早くから出かけていた。
それでは、息子のカケルがドライヤーを使っているのか……? ずっと家に引き籠っていて、最近は髪をとかしてる様子すらなかったのに?
そういえば…………夜中、風呂場から物音が聞こえてたな……。カケルの奴、風呂にも入ったのか。
…………どこかに出かける気なんだろうか?
父親は不思議そうに、一階の廊下へと続く書斎のドアを見る。
その扉を開けた先には、洗面所がある……。
様子を見に行くか…………。
役所のカウンセラーも、用がなくても声をかけるのが大事……と言っていた。
…………しかし……
自分で" なにか "をしようとしてるのだ……。
下手に干渉しないほうが、いいだろう…………。
そう思い父親は、視線をドアからノートパソコンへと戻す。結果的に父親の、その判断は正しかったと言える。
カケルの心はすでに決まっていた…………しかし、その決心は、綱渡りのように不安定だった。ちょっと風が吹けば、奈落の底へと真っ逆さまの危うい綱渡りの決心…………。
行かなくっても、別にいいだろ。
もえには、行って来たよお~~と嘘つけばいい……。
そんな言い訳が、カケルの脳裏にチラホラと浮かび、カケルを誘惑する……。
カケルはそんな誘惑を無視するが如く、淡々と外出の準備をする。まさに綱渡り…………余計なことは一切考えず、ただひたすらに前を進み、綱から落ちぬよう、バランスを取る……。
逃げたい
行きたくない……
明日でもいいじゃないか…………そもそも、行かなくても死にはしない……。
沸騰した泡のように、フツフツと湧き上がる、逃げの言い訳……。
湧き出るその言い訳にフタを押しつける…………が、そのフタを押しのける勢いで、逃げの感情が次から次へと溢れ出てくる……!
しかし………………
カケルは、その感情を押し込めた! 押し殺した!!
それができたのには、訳があった……。
午前9時15分……カケルは玄関の前に立つ。眩しい午前の光が、玄関に降り注いでいた……。
…………昨日……カケルには、脱ヒキの誘いが三つあった。
もえからのデートの誘い
ブラマスメンバーからのオフ会
磯貝寿美子への謝罪
その中でカケルは……磯貝寿美子へ謝罪をする為、外に出る決意を固めた。
もえからの誘いも、ブラマスメンバーとのオフ会も、自分の為だった。
自分の為なら、いくらでも妥協できる…………自分が不幸になったって、別にいい……だって、自分のことだから。
幸せになれると言われても、そこに努力と犠牲が伴うなら、遠慮したかった…………そんな苦労してまで、自分は幸せになりたいとは思わなかった。
だから自分のことなら、いくらでも妥協できた。
しかし…………他人のこととなると別だった。他人が不幸になった時、その人にとってそれが、どれだけ辛く苦しいかなんて、カケルにはわからなかった。
磯貝寿美子はタヒ子のインタビューで、鬱病にかかっていると答えていた。彼女は……苦しんでいた。その苦しみがどれほどのものかなんて、他人であるカケルには、想像もつかなかった。
だから…………妥協など、できなかった。だからカケルは、逃げたいという感情を押し殺せた……!
日曜日の朝……カケルは靴を履き、玄関の扉の前に立っていた。
一年近く、自分の為には開けなかった外への扉…………しかし。
他人の為と思った時……その扉を開けるのに、自然と勇気が湧いた。逃げたいという感情に打ち勝てた。
…………ドアノブを手に取り、扉を開ける……。
扉を開ける音は静かな朝の時間に、書斎にも聞こえた……。
カケル…………外に出るのか!?
父親は驚きと喜びの感情で、それを受け止めた。
玄関のドアを開け、カケルは午前の日差しを身体いっぱいに受ける。遠くからは車の走行音と、かすかな人の話し声……。
恐い……誰にも会いたくない…………。
そう思いながらもカケルは、冬の青空の下、一歩踏み出す……。
その一歩は自分の為ではない。自分が傷つけてしまった、他人の為。
他人の為に、その歩を進めるカケルは思う……。
ああ、そうか…………。
だから……家族がいる人
恋人がいる人
仲間がいる人は…………強いんだ。
自分以外の人の為に勇気を出せるから……!
自分を守る為に家に引き籠っていた少年は…………他人の為に、閉ざされていた世界へ一歩、足を踏み出した……!




